10.名前
まるでこの夏のまとわりつく暑さのように鬱陶しい別れの言葉を両親からかけられ、それをあっさり過ぎゆく秋みたいな態度で聞き流した僕は、午後一時五分前に慣れ親しんだ駅にたどり着いた。そして僕は、また例によってこれでもかというくらいに渡されたお土産――日持ちする野菜だとか飲み物だとか――の重みを肩に下げたバッグから感じつつ、額に滲む汗を拭う。今日は流石に駅までバスを利用したけど、それでもバス停から僅かに歩いただけで、嫌になるくらい汗をかいてしまう。その事から「ああ、今は夏なんだな」なんて、まるで他人事のように僕は実感し、何故だかしみじみとした気持ちになった。
「さて……」
僕は呟き、駅前の小さなロータリーを見回す。今し方僕を運んでくれたバスは既にどこかへ出発していて、ロータリーには車が一台も見当たらない。人の姿も見えない。何せ電車が来るまでまだ三十分以上もあるのだ、それも当然か、と僕は思う。
不便というか奇妙なバスの運行ダイヤに普段はうんざりしたような溜息を吐くところだけど、今日に限っては感謝しながら、僕は手近に設けられている小さなベンチに腰を落とす。それから自分宛ての呆れた溜息を吐き出した。
このチグハグなダイヤのおかげで少女と話せる時間が増える。それが嬉しい。そう思う自分がどこかおかしかったけど、それでもこの気持ちは誤魔化しようがなかった。だから僕は自分の些末なおかしさなどはどこかへ放っぽって、少女がやって来るのをただ待つ事にした。
蝉の声、たまに通り過ぎる人、頬をつたう汗。普段は全然気にしない事を意識して感じていると、それらに妙な有り難みを覚えた。
もう八月も終わりに差し掛かり、これから夏も少しずつ遠くなっていくのだろう。そう思うと、この不快な暑さも捨て難いものに見えてくる。本当に現金な人間だ、僕は。
そんな事もしみじみ考えていると、遠目に少女が歩いてくる姿が見えた。僕はそれに手を振る。少しして彼女もそれに気付くと、やや早足で僕の元へ歩み寄って来た。
「ごめんなさい、少し遅れたわ」
少女は第一声にそんな謝罪の言葉をくれたけど、まだ時刻は一時をほんの少し過ぎたくらいだ。変に几帳面なところに笑い出しそうになる。
「いやいや。それよりも、暑くないの?」
それを堪えながら、僕はいつものように長袖のシャツに長い丈のジーンズを履いた少女に尋ねる。
「……あれよ、紫外線は美容の敵なのよ」
「ふぅん……」
意味ありげに間を持たせた少女の言葉に、僕も意味ありげに頷いてみせる。
「何か言いたげね」
「いや、別に?」
僕の方は本当に大した意味はない。ただ何となく、彼女をからかってみたくてそういう反応をしてみたくなっただけだった。
「まったく……どうせまた変な事を考えてるんでしょ」
少女は不服そうにそう言うと、僕の隣に腰掛ける。
「いやいや、本当に他意はないよ」
「どうかしら。……それより、電車ってどれくらいに来るの?」
「ん、今から三十分後くらい」
僕の言葉を聞いて、少女は少し不思議そうな表情をした。
「随分早くから待ってるのね」
「ああ、それはまぁ、君とこうやって話したかったからね」
「…………」
正直なところを話すと、彼女は口を尖らせて黙り込んでしまう。心なし、その頬が赤い。
「どうかした?」
「どうもしないっ」
そして少女は吐き捨てるようにそう言うと、そっぽを向いた。こういう反応の一つ一つが可愛くて、ついつい意地悪したくなってしまう。本当にからかい甲斐のある子だ。
それから僕たちは、夏の陽射しに照らされながら、何でもない雑談を交わしていた。僕が言葉を投げれば彼女はそれを受け取って投げ返し、どうでもいい話題を振ってはまた新たな言葉が生まれる。それは図書館でいつもやっている事と変わらなかった。だけど、残された時間や季節の装いを直に感じるこの瞬間は、センチメンタリズムにどっぷり浸かった叙情のせいで、これ以上ないくらいに尊いものに思えた。だからこそ僕は、この夏をいつまでも続けたいだなんてどうしようもない事を考えてしまう。そして、そんな事を考えてしまうから、時計の針はより残酷に、不公平とも思えるような早さで現実を突きつけてくる。
「……さて、そろそろ行かなくちゃな」
努めて平静を装った僕の言葉が、蒸し暑い空気にカランと響く。想像以上に喉をつっかえたそれに少し驚きながら、僕はベンチから立ち上がる。
「そう。……もうそんな時間なのね」
いつものように、何でもないような少女の声。その裏には色々な弱さが見え隠れするような声だ。そんなものを聞いてしまうと、僕は未練がましくこの物語のような夏にすがりついてしまいそうだった。だってこの電車に乗らなくちゃいけない訳じゃないし、あと二、三日くらいはこっちに居たって平気なんだ。だからまだまだ少女とも一緒に居られる。こうして他愛のない話をしていられる。そこまでじゃなくとも、次の次の電車に乗ろうと思えば――
「ホームまで、来てもらってもいいかな」
――胸中に渦巻く迷いを封じて、僕は別れの一歩を踏み出す。この夏の出来事は気まぐれで、どうしようもなくありきたりで下らない、そんなメロドラマでしかないんだ。身勝手なナルシズムを通すと決めたのだから、僕は最後まで悲恋の主人公を気取るのだ。
「ええ」
少女の短い言葉を受け、僕はゆっくり歩き出す。彼女もすぐに隣に並び、驚ろくどゆったりとした歩調を合わせる。
駅の改札口で切符を買い、プラットホームへ。少女も入場券を買って僕に着いてくる。ホームに電車はまだ来ていない。時計と電光掲示板とを見比べると、三分後に電車は来る予定だった。
「…………」
「…………」
数えられるくらいにしか人のいないプラットホームで、僕らは黙ったまま並んで立つ。何かの歌で聞いたようなシチュエーションだ。それだけこれは使い古されていて、そして、誰もが夢見るようなものなのだろう。
そんなどうでもいい事を頭の隅に追いやり、僕は何か声をかけようかと考える。いや、何か声をかけなきゃ、なんて強迫観念みたいなものに脅かされる。しかし何も言葉が思い浮かばなかった。
「……ありがとう」
「え?」
と、不意に少女から感謝の言葉を投げられた。
「どうしたの、いきなり」
「……別に。言いたかっただけ」
寂しそうに漏らした声に何か言葉を返そうとした。だけど、それもカンカンと鳴り出した、駅近くの遮断機の音にかき乱されてしまう。そして駅員のアナウンスが、僕が乗るべき電車が到着する事を告げる。
それを聞いて、少女は意味深長に目を伏せる。僕の中には迷いが生じる。そうしている内にプラットホームに電車が滑り込んできて、そいつに引き連れられた風が僕の横っ面を打った。その衝撃で僕は夢から醒める。
……これじゃあ、あの時と同じじゃないか。変に自意識過剰で、気取って、結局大事なものを無くしてから後悔をした、あの部屋の夜の時と。このままじゃ、また僕は何度も何度もこの時を思い出して、こうすればよかった、ああすればよかった、だなんて女々しく思い起こすのだろう。それが僕の望んだ僕の在り方なんだろうか。違うだろ? そうして得たのは結局なんだったんだろうか。何もないだろ? それに、この僕の考え方に少女の気持ちは汲まれてなんていない。また勝手な独り相撲をとっているだけだ。
電車は徐々に減速しながら、決断の時間を刻一刻と削っていく。これが完全に止まってしまう前に、僕は答えを出さなくちゃならない――けど、そんなもの、とっくのとうに出ていたのだ。
少女を横目で窺う。彼女は俯いていて、その表情は読みとれないけど、絶対に笑顔ではないだろう。だけど僕は彼女の笑顔が見たい。それが全てだった。
だから僕は、気障に塗り固められた物語のような現実を捨てて、みっともなくとも自分の望む現実を手に入れようと思った。
「ねぇ」
電車が停まり、扉が開く。そこから真夏の幻想をさますような冷房の風が漏れてきて、僕の身体を射す。その扉へと足を踏み出した僕は、少しだけ気取って彼女の方へ振り向く。
「なに……?」
少女は頼りない口調で応える。短い間だけど、今まで一度も見た事がない寂しそうな表情だ。そんな顔を見て、僕はより一層強い意志で、この物語を現実にするための言葉を吐きだす。
「名前、教えてよ」
それは本当に今更な言葉だ。本来なら出会った時に、または話をするようになった時に聞くべき事だ。まるで物語のように僕らは名前も知らずに恋に落ちたけど、それは逃げていただけだった。『これはそういう話だから、僕は自分の在りたいようにいれるし、物語に別れのシーンは必須だろう』……そんな事を建前にして、少女へ踏み込む事から逃げていただけだった。
彼女はお祭りの夜から――もっと言えば、図書館で話をしている時から僕の方をずっと見ていた。告白だってあちらからのものだ。それなのに今まで僕は、見当外れの方向を向いて、自己満足に浸っていただけだった。……だから、これが僕らの本当の始まりなのかもしれなかった。
「…………」
その言葉を聞いて、少女は息を飲み込んで驚いたように僕の顔を見る。それに軽く笑ってみせると、彼女は口元をくしゃりと歪ませて泣きそうな顔をする。少女はそれを隠すように一度深く俯き、それからもう一度僕の方へ顔を向けた。瞳はまだ少し潤んでいたけど、その口元には悪戯な笑みを浮かべて。
「……また、冬に会えたら……ね?」
そして震えた声で、僕を試すかのように、そんな言葉を紡ぎ出した。
「……うん、分かった」
最後の最後まで強がった彼女らしい言葉に、僕は頷く。そして少女に挑戦的な笑みを返した。
僕は少女に背を向けて、電車に乗り込む。そしてホームへ振り返った時、空気を吐いて電車の扉が閉まった。
扉に付いた窓越しに少女が何かを呟く。それは僕の耳に届かなかったけど、彼女の泣きそうな、それでいて嬉しそうな顔を見るに、後で追及したら面白い反応をしてくれそうな事を言っているような気がした。僕はそう思い、「それ、今度聞くからね」と小さく返した。
そして四両編成の電車は動き出す。僕と少女の距離は次第に離れていく。だけど彼女は動かなかったし、僕もその場に立ったままだった。そうして、ただお互いの姿が見えなくなるまで、視線を交わせていた。
視界から慣れ親しんだ地元の駅が完全に消えると、僕は小さく息を吐き、時速五十キロで移り変わる窓の外をぼんやり眺める。そうしながら、冬には車の免許を地元で取ろうと思った。
「はは」
なんて、またそんな建前を作った自分がおかしくて少し笑えた。本当、僕も素直じゃないというか、似た者同士というか。
ともあれ、これで今年の冬休みに帰郷する理由が出来た。
まるで夏から隔離されたような、人もまばらな電車の中で、そんな事を考える。そうしていると、効きすぎた冷房がやけに心地よく感じられ、僕は寒い季節が恋しくなるのだった。