お金の物語
お金の物語。と言っても、このお話は別にお金を稼ぐ話ではありません。経営とか何とかの話とは無縁な物語です。では、どんな話なのかと言えば、まぁ、タイトルそのままの“お金”、つまり通貨の物語な訳ですが。
原始、人間社会には“お金”なんてものは存在していませんでした。でも、他の人が生産した何らかの生産物は欲しいですよね。自分は棚を作れるけど、服は作れない。でも服は欲しい。そんなケースは確実にあるはずです。では、どうしましょう? まぁ、お金がないのなら物々交換しかありませんね。このケースなら、棚と服を交換すれば良い。
ところがです。
この物々交換が成立するのは中々に難しいのです。だって、例え服を持っている人を運良く見つけられたって、その人が棚を欲しがっているとは限らないでしょう? 棚を欲しくないその人が、服と棚を交換してくれるとは限らない。それに、その物々交換が本当に等価交換なのかも分からないですね。だって、その為の物差しがないのだから。さて、この問題を解決するのにはどうしたら良いでしょう?
人間社会はこれを解決する為に、媒介物を用意しました。誰もが欲しがっている物なら、一度それに交換しておいて、再度それを自分の欲しい物と交換する、という手段で自分の欲しい物を手にいられますよね? そういう媒介物を用意したんです。それには、もちろん、世の中にたくさん普及している生産物が適しているのは言うまでもありません。更にほとんど誰にとっても価値のあるものである必要もあります。価値がなければ、誰も交換してくれませんから。
ざっと考えて食料なんかはそれに適していると簡単に分かるでしょう。食べ物は世の中に普及しているし誰もが欲しがる必需品です。だから、穀物や干し肉や家畜などの、比較的保存性に優れた食物が、まずはお金として使われ始めたのです(年貢米なんかを思い浮かべてくれれば、分かり易いかも)。
でも、食物にも問題があります。
保存性に優れているといっても、食物ですから当然、傷みます。それに、価値にだってばらつきがあります。更に言うなら、食べたらなくなってしまいます。長期間の保持に向いているとは思えません。それに、社会を安定して成り立たせる為の媒介物の欠点として、制御が難しい事があります。供給量をコントロールできないのですね。食物は自然の影響で取れる量が変わってきますから。
そんな訳で、その内に金属がお金として用いられるようになっていきました。金属だったら劣化し難いですし、価値もある程度は一定ですし、それに国が認証する事で、供給量のコントロールも可能です。これが、いわゆる鋳貨ですね。
さて、さて、ところが、ここらで少しずつおかしな事が起こり始めました。価値を揃え易いといっても、発行される時期や国によって鋳貨の金属の質にはばらつきがあります。当然、質の高い鋳貨を手元に置き、質の低い鋳貨を使うようになる… すると、価値の低い鋳貨が市場で多く取引に使われるようになっていく事になります。ですが、取引に用いられるのであれば、当然、それにも“価値”が生じる訳で…、つまり、“鋳貨の質”と“通貨として価値”が乖離し始めてしまったのです。
これと似たような、変な動きがもう一つあります。それは、商人の証書から始まりました。信頼のある大商人が、何か価値あるものとの取引を認めた証書ですね。その証書さえあれば何かを得られるのだから、当然、それにも価値が生まれます。価値が生まれれば、通貨の役割を担えます。それは単なる契約書のようなもので、ぶっちゃけ紙切れなんですが、“商人の信頼”がある状況下においては、価値が生じてしまったのです。つまり、ここでも“実質的な質”と“通貨としての価値”に乖離が発生してしまったのです。
もう簡単に分かると思いますが、鋳貨は後に貨幣となり、証書は紙幣となり、それぞれ現在でも通貨として使われています。取引における媒介物としての利便性を得る為に、社会が“これには価値がある”という約束事を定め、誕生した生産物ですね。この生産物には、“消費されない”という特性があります。だからこそ、通貨は循環するのですが。
今までの説明で分かったと思いますが、通貨には、生産物としての実体は存在しません。貨幣はまだしも、紙幣なんてただの紙です。それは国が価値を認める事によって初めて価値が出るもの……、つまり、“国の信用”の象徴でしかありません。そして、実体がない、という事は純粋な“情報”にもなり得ます。ただの情報になれば、当然、流動は更にし易くなります。そして、ここに“金融”という通貨をそのまま商品として扱う業界と、その成長も関わってきます。
やがて、人間社会に情報技術革新が起こりました。言うまでもなく、インターネットの登場ですね。通貨は既に半分以上、ただの“情報”と化していますから、インターネットと相性が良いのは言うまでもありません。世界中がインターネットで結ばれ、扱える情報量が膨大になれば、それに伴い通貨の量も膨大になります。お金には実体がありませんから、取引の中でいくらでも膨れ上がれるのです。そして今や、世界の金融を巡る総金額の単位は、兆を飛び越え、既に“京”にまで達しています。もちろん、そのお金は、人間社会に大きな影響を与えています。人間社会の取引の媒介物として生まれたお金… つまり人間社会を便利にする為に生まれたものが、人間社会を侵食し、振り回している。僕には、そんな風に思えてならないのです。