ニンジャ・ナイト
じゃり、と音が上がる。降り積もった雪と、その下で眠る枯山水の砂利とが厚い靴底に踏みしめられてできた音だ。その音は歩いて出来たものではなく、非常に小さかった。辺りに広がる白い絨毯に、他の足跡は一つもない。
広い空間の真ん中に初めて足跡を刻んだのは、一人の男だった。夜闇の中で視認性の低い黒い衣服をまとい、うずくまるその姿は、男の正体を雄弁に語っていた。隠れ忍ぶための装備は、月明かりを反射する白い空間の中で一際異彩を放っていた。
頭巾で顔を隠すその男は、顔を上げて前を見た。男のいる枯山水に面する寺院の廊下に、一人の女が座っていた。白無垢を着たその女は被衣、後の世で角隠しと呼ばれる白い帯を被った頭を、わずかに上に上げた。
「……来ると、思っていました」
か細い声が、女の口からこぼれた。その声が震えているのは、寒さのせいだけではない。
男が頭巾の奥の目を細め、眉根を寄せた。
「……なぜ、私を出迎えた?」
感情を押し殺した、低い声。怯えるように、女が小さく肩を竦ませた。
女のその様子に、男が苛立ちを見せる。
「嫌なら嫌と、なぜ言わん。ここでこうしてお前と会うなど、私は今でも我慢がならん。いっそ私の知らぬ時に、自刃すればよかろうものを」
責めるような男の物言いに、女はうな垂れて視線を自分の手元に落とす。
「……それはなりません。私を見るイガの目は、未だよそ者を見るものです。勝手な真似はできません」
男は何も言えなかった。女の言葉に論破されたからではなく、何を最初に言うべきか迷ったからだ。何を先に言っても、続く言葉が軽く響いてしまう。
ようやく選んだ言葉は、女に対する問いかけだった。
「お前は、長が憎くはないのか?あんな計画、正気の沙汰ではないぞ」
「正気では勝てません。そちらこそ目を覚ましてくださいまし」
今度は男が口をつぐみ、目を逸らした。それでも感情は収まらず、噛みつくように言い放つ。
「心の臓に仕掛けをするのを、正気と言うか!」
冷え込む冬の空気に、男の声が響き渡った。女は自分の心音に重なる、もう一つの音を意識せずにはいられなかった。
胸の内側を何度も打つ、時計の秒針に似た音。その音源が何なのか、女にとっては語るまでもない。恐れを持って聞けば心を削ぐ音だが、腹を決めれば何よりも自分の支えとなるものだ。
「……それでも、です。憎きイガ者を一人でも多く討てるなら、良しとする他ありません」
「嫁ぐ女の言う事ではないな」
男の皮肉に、女は敵意のこもった目を向けた。
「あなたこそ、ご自分のされようとしている事がお分かりなのですか?」
「無論だ。……そちらこそ、な」
男は腰の後ろに括った得物を抜いた。シノビ刀の刃が月光と雪明かりとでぎらりと光る。
「貴様の音を止めにきた」
女は目を細め、それまで強張らせていた頬をわずかに緩めた。緊張から解かれたようにこぼれた吐息が、白く曇って流れて消えた。
「……はい。感謝します」
シノビという存在がいる。
彼等をまとめるのは国家の法ではなく、一族の掟だ。そのため敵と定めたものに容赦はなく、時に非人道的と言える手段を講じる事も厭わない。彼等の存在や活動が歴史の表舞台から離されたのは、当然の事だった。
しかし、いないものとされた訳ではない。特に、独自の技術を発達させたが為に価値を見出され、秘密裏に雇われる事も少なくなかった。そうして力を付けたのが二つの勢力、イガとコウガである。両者は名をはせるにつれ互いが邪魔となり、どちらからともなく争いを始めた。
イガとコウガとの争いは長く、拮抗したものだった。両者共に、戦場に赴く武家に呼ばれては、歴史に残る合戦の裏で暗躍する存在である。相手を出し抜く為にえげつない手をためらいもなく使い、その報復の為さらに非道な手段に出る。その繰り返しが、それこそ白刃が赤く染まるのを誇る時代から始まり、南蛮から多くの技術が伝わった今でも続いていた。
近年になって南蛮より伝わった技術は、表舞台のみならず、裏方である彼等にも大きな影響を与えた。なんと、それまで互角であったイガとコウガの実力差を大きく広げてしまったのだ。
イガは南蛮渡来の技術を忍具製作に活かし、様々な忍具を開発した。使えるものに限っていえば、イガは寛容であった。一方、コウガは南蛮技術を不吉なものとし、所持すら許さない決まりを作ってしまった。組織の権力者、長が外来の技術を不吉なものと見たからだ。
その結果、技術の差は戦力の差となり、コウガはイガに大きく押されてしまった。長が慌てて技術を解禁するも時すでに遅く、コウガの勢力はほとんどが壊滅状態となった。
こうなるともはやコウガにとって相手に勝つ事ではなく、存在し続ける事が命題になってしまった。イガが長年の争いに決着をつけるべく、本腰を上げてコウガを滅ぼそうとしたその矢先、コウガはある提案をイガに持ちかけた。
イガとコウガとの、和平の締結だ。
もちろん、イガは最初これを拒否した。虫の息で命乞いする敵を、馬鹿正直に見逃す手はない。しかしそれをコウガは見越し、ある条件を付加した。
コウガの里の女を、全てイガに嫁がせる事である。
これはイガにとって何より魅力的な条件だった。嫁不足という背景がある上、女には人質としての価値がある。その上イガの血を残し、コウガの末裔を絶やす事につながるとあってはイガにとっては良い事ずくめと言えた。
ゆるやかな滅びを選んだと見えるコウガだが、実はこれには別の狙いがあった。
男がシノビ刀を手に、女へと踏み出す。一歩、また一歩と両者の距離は詰まり、雪に足跡が残る。来たるべき時を迎えようとするように、女は目を伏せたまま立とうともしない。黙って待つ白無垢の女に、男はまた一歩踏み出す。さく、という雪の音が、女の背筋にひやりとしたものを走らせた。
すうう、と男の口から息が吸い込まれた。冷え込んだ空気が男の肺腑に流れ込み、その心を尖らせる。その時には、あと二歩で女が得物の間合いに入る距離に差し掛かっていた。腹を決めるように、ふう、と男が息を吐く。
「……覚」
悟、と言いかけたところで、男は後ろへ跳びのいた。直後、男の居た位置に、細いものがいくつも突き刺さった。
男が自分の行こうとした場所を見て、息を呑む。そこでは、針のように細い長い針がいくつも、雪明りを受けて舐めるような光を放っていたからだ。あと一歩反応が遅れていたら、男はこの針林の肥やしにされていただろう。
「……っ、かーっ、惜しい!」
冬の夜の染み入るような空気の中で、場違いな声が響いた。男と女が目を丸くして声の出所を見る。
雪に沈む枯山水の中にそびえる松の木。白いものを積もらせたその樹上に、藍色のシノビが一人いた。両足の先を揃え、膝を左右に広げて不安定な木の上に居座るその姿は、見る者に不吉な印象を与えた。
「イガ者……!」
男が身構え、刀をシノビに向けた。
「おいおいなーにビビッてんの?イガ者がイガにいて何がおかしい?ええ、コウガ者よぉ」
シノビが首を軽くくねらせ、おどけた様子で男に言った。コウガ者と呼ばれた男はイガ者を睨んだまま、一歩引く。
イガ者は右手を後頭部に回し、その手で頭の左側を押して首を傾けた。本人にとっては癖のようなものなのだろうが、相対するコウガ者にとっては得体の知れなさを強調させる意味深な行動に見えた。
「で、何の用だぁ?とてもご祝儀持ってきましたって風には、見えねぇなぁ」
怪訝な声で尋ねるイガ者に、緊張している様子はない。むしろ追いつめた獲物を前にしたかのような余裕が、多分に顔に現れていた。その理由は、イガ者の姿を見れば分かる。
イガ者の装備は、雪原に立つコウガ者と比べれば重厚なものだった。右腕の小手は分厚く、手首から肘にかけての、腫れ物のように盛り上がった部分には小さな穴がいくつも開いている。左手の小手には猛禽類のものを思わせる鉤爪が四本、その湾曲した部分で左手を包み込むように生えていた。両足を覆うすね当てにも、それぞれ異なる意匠が見受けられた。何かしらの機能を仕込まれたイガ忍具である事は明らかだ。背中には矢筒を背負っており、その中には先ほどコウガ者の前に現れたものと同じ鉄の串が、束になって収まっていた。
コウガ者にとって、イガ者のその装備はどれも得体の知れないものだった。ただしそれらが何かしらの用途を持つ忍具で、恐れるべきものだという事だけは容易に知れた。嫌が応にも、コウガ者の緊張は高まる。
「……」
コウガ者は答えなかった。イガ者は口を開こうとしない相手に対し、肩を竦める。
「ま、いいか。どうせ余所者、ここで死んでも問題あるめぇ」
イガ者が右手で頭を押さえたまま、左手を矢筒に伸ばした。右手を下ろし、ぞんざいに引き抜いた数本の鉄串のうち三つの先端を、右手の篭手に開いた穴の口にそれぞれ添える。その仕草はなめらかで速く、コウガ者の知るある動作に似ていた。さっと、コウガ者の頭から血の気が引く。
再びコウガ者は地を蹴り、下がった。同時に、イガ者の持つ鉄の串が篭手に吸い込まれた。
コウガ者が蹴散らした雪の間を縫うように、鉄の串がひゅ、と風を切る。コウガ者が着地すると同時に、串は固い音を立てて雪原に突き立った。イガ者の篭手が鉄の串を穴から吸い込み、別の穴から三本共に矢のような速さでコウガ者に射ったのだ。
ふふん、と得意げにイガ者が右手を軽く掲げる。
「どうよ、これ?イガ忍具“射の七式篭手型”。これでシノビは弓兵数人のごとく簡単に矢を撃てる。こーんな風に!」
再び射出。ととと、と逃げるコウガ者を追うように串が雪原に刺さっていく。これを避けるコウガ者は、一際大きく跳んで別の松の木の影へと退避した。
串を持つ手を空にしたイガ者が、不愉快そうに舌打ちする。
「チッ、ねばンじゃねえよ」
イガ者が再び矢筒に手を伸ばす。それを見て、女が慌てて声を上げた。
「おやめください!その方は」
「黙れ女。イガに嫁いで、口を利けると思ってんのか」
女は言い返せず、口惜しそうに俯き、口をつぐんだ。女を見下した発言に、コウガ者の頭に血が上る。
「貴様……!」
「おっと、お前も喋るな。追われる側なら、まず逃げな!」
言うや否や再び鉄の串が放たれた。コウガ者が避けた後、数本の串が次々と突き刺さり固い音を立てた。
イガ者が次の串をつがえる前に、コウガ者が手を上げた。何かを仕掛けてきたかとイガ者は動きを止めたが、コウガ者にすれば相手の動きを制するための行動だった。イガ者が自分の様子を見ているのが分かり、コウガ者は早口で言う。
「待て、企みがあって来たのではない」
言いたい事を言え、コウガ者の胸はわずかに軽くなった。だが、事態の膠着にはつながらない。
「不審者は皆そう言うんだ」
イガ者が再び鉄串に手を伸ばす。コウガ者はさらに声を張り上げた。
「私は、コウガとイガの為に来たのだ!」
「ああ?」
イガ者の手が止まった。
しめた、とコウガ者は思った。ここでにやけまいと彼は表情を固める。変な勘違いをされては、千載一遇のこの機会をふいにしてしまいかねないと考えたからだ。
「……コウガと、イガの?どういうこった?」
こちらに興味を持たれたのが分かり、コウガ者は早口で言った
「コウガとイガとの和平の為、こちらは女を差し出した。それは知っているだろう?」
「そりゃあ、な。おかげでこっちは大助かりだ」
下卑た声で笑いをこぼすイガ者。これの意味する事を悟り、女が顔を険しくした。
「……それが、コウガの長等の狙いだ」
イガ者の口から、笑いが消えた。
「……どういう事だ?」
「コウガはまだ負けていない。そう考えて、長達は女に仕掛けを施したんだ」
「仕掛け、ねえ……。爆弾とかか?」
コウガ者は答えない。沈黙を肯定と取り、イガ者は鼻で笑った。
「てめー等みてぇなのが言う仕掛けってのは、大体それだしな。で、それで何でお前はここに来た?」
首を傾げるイガ者に、コウガ者はシノビ刀を持つ手を後ろに回した。攻勢にも守勢にもすぐに転じられる構えだ。そして、その構えのままはっきりと告げる。
「……その“爆弾”を、止めに来た」
「ああ?それが何でコウガの……ああ、なるほど」
イガ者は悟った。
その爆弾によってイガがどれだけの損失を被るにしろ、それがコウガの手によるものと分かれば報復は必至だ。
コウガの手によるその行為をコウガ者が止めに来たという事は、コウガの中で意見が割れているか独断専行のどちらか。いずれにしろ地力でイガに負けてるコウガの中で分裂が起こっているとあれば、そこをイガに襲われば壊滅は誰の目にも明らかだ。単独でやってきたのも、これで合点がいく。
「それはまた、ありがたいこって。それで、人の嫁に手ぇ出す訳か」
「……何だと?」
コウガ者の、シノビ刀を持つ手が止まる。彼が女に目を向けると、女は気まずそうに目を逸らし、顎をわずかに引いた。肯定の意を読み取り、コウガ者は眉根を寄せてイガ者を見る。
「……今日婚礼と聞いたぞ」
「手前を見て着替えたんだよ、言わせんな」
イガ者は左手で顎の裏を掻いた。
「で、その爆弾ってーのは何人に仕掛けたんだ?」
「全員だ」
イガ者の動きが止まった。
「……なんて?」
「全員だ。“起爆”も一斉、今日の亥の刻。今が戌の刻を回っているから、もう時間はない」
つまりは日付が変わる頃、コウガの女達は、残らずイガの民を道連れに爆発するという事だ。多くの武家に仕えるイガ者の里でそのような事件があれば、イガへの多大な損失は言わずもがな、武家同士の力の均衡が大きく乱れる事になる。上昇志向の強い武士達の間でそんな事が知られれば、各地で奇襲や下克上が巻き起こり大きな戦乱になってしまう。
「……マジかよ。イカレてるし、考えやがったな」
イガ者の言葉に、コウガ者が首を捻る。人質に爆弾など、さほど目新しい手法ではない。イガ者が感心したのは、今の日付にあった。
「明日は伴天連の祭りの日でな、イガ全体が浮かれているんだ。まさか狙ってたのか?」
コウガ者には、イガ者の問いかけに答える義務はない。だが、彼はあえて答えた。
「まあ、な。コウガが南蛮の技術を嫌ったのも、そういった習慣を避けるのが目的だ」
「イガが全員切支丹って訳じゃあねえよ。騒ぐのに理由がいるだけだ。ま、頭の固い爺共が幅利かすそっちじゃ、わかんねぇだろうな」
言い訳じみた発言の後、イガ者はコウガ者を嘲るように言った。祭りを控えた呑気な言葉だったが、コウガ者は何も言い返せなかった。老人に縛られて衰退を迎えたコウガに身を置く立場としては、イガ者の言葉に反論のし様がない。
「で、それが何であいつに刀向ける理由になるんだ?どれにもついているんだろ?」
イガ者の疑問に、コウガ者は答える他なかった。
「……一斉“起爆”の為の時限装置が、そこの娘にしかない」
コウガにも忍具はある。だが技術の解禁が遅かった為に、イガのものに比べれば性能の劣るものばかりだ。時限装置一つとっても、コウガのものは単独では満足に機能しない。
「ああ、なるほど。心臓の鼓動と連動しているから、ってわけか。確かに、俺らがもらった女を殺す理由はないしなぁ」
男が左手を下げる。その手に付けたカラクリの篭手がかちかちと各部で音を立てる。すぐに鉤爪が根元からせり上がり、カラクリで出来た手が本物の手を呑みこんだ。
イガ者が長さを増した手を持ち上げ、がちがちと鉤爪の先を打ち合わせる。
「そんな話を聞かされちゃ、黙ってられねぇな」
「!?」
コウガ者が身構える。
「よく話してくれたな。褒めてやるぜ、シノビでもないのに、な」
コウガ者は息を呑んだ。
「……なぜ分かった?」
かすれた声で、彼は聞いた。イガ者の言う通り、そのコウガ者はシノビではない。
「動きに慣れがねぇんだよ。足音立てるシノビがいるか」
イガ者にそう指摘され、コウガ者は表情を険しくした。こうまで見抜かれては、正面から太刀打ちできる相手ではない事を改めて思い知らされる。
イガ者が、覆面の下で目を細めた。
「イガに、お前の墓は立てん」
宣言と同時に、イガ者は地を蹴った。
イガ者の左手には、“握の三式篭手型”と呼ばれるカラクリ忍具。鳥類の足を模したそのカラクリの持ち味は、その握力にある。反り返った爪の内側にコウガ者の頭が入れば、その直後頭は熟れた果実のように簡単に潰されていただろう。みるみるうちに、イガ者の左手がコウガ者の眼前に迫る。開き切った手がコウガ者の頭を呑みこもうと開き、コウガ者はその手を呆然と見る事しかできない。
一瞬の間のその出来事に、突然割り込むものが現れた。ぎらりと光るものが弧を描き、イガ者を襲う。咄嗟にイガ者は伸ばした左手を引き、篭手の固い部分でそれを受けた。鉄と刃のぶつかる激しい音が上がり、両者は互いに弾き飛ばされた。ざっ、と音を上げて着地する、合わせて六つの足。イガ者は顔を上げ、乱入者の姿を見た。
四本の脚と、筋肉で膨らんだ大きな体躯。全身を余す事無く毛皮で覆ったそれは、口にシノビ刀を加えたままぐるる、とイガ者を睨んで唸った。
「忍犬……!そうか、獣の躾けはそっちが上か」
犬とは言うが、その獣は虎かと見まがう程大きく、咥えているシノビ刀が小枝のように見える程だ。忍犬は全身の毛を逆立て、敵意を秘めた目をイガ者に向けていた。
これには流石のイガ者も危機感を覚えた。いかに忍具で武装しているとはいえ、人と獣とでは単純な力の強さに大きな開きがある。忍犬は体も大きく、組み伏せられでもしたらイガ者はその人生を激痛と喪失とで締めくくる事になるだろう。忍犬である以上、特別な訓練を受けているだろうことは想像に難くない。
コウガ者はしめたと思い、松の木の陰から飛び出した。そのまま忍犬に隠れるようにして、女の待つ廊下へと駆け寄る。
「あ、手前!」
イガ者が気付いて止めようとするが、忍犬が前足で一歩進み出てこれをけん制する。思わぬ強敵に苛立つイガ者をよそに、コウガ者はついに女の元に着いた。
「よかった、ご無事で」
「ああ、あれのおかげだ」
そう言って、コウガ者は忍犬の背を見た。忍犬は振り向かず、イガ者を睨んだままでいた。
イガ者は忍犬を睨んだまま、左手のカラクリを引き上げる。鋭い爪の根元が肘に寄り、元の手が再び現れる。イガ者はその手で鉄串を取り、右の篭手を構えた。
「犬を射るとは、いつかの犬追物以来だ。嫌なんだよなぁ、俺犬好きなのに」
面白くもない冗談をあえて言うような、平坦な口調。イガ者の目は笑っておらず、じっと相対する巨体の獣を睨んでいた。犬も彼の敵意を読み取ったように、唸り声を一層大きくした。咥えられたシノビ刀が、牙にこすられがり、と音を立てる。
コウガ者に、このにらみ合いを見ている暇はなかった。
「わかっているな」
女に問う。女は口を固く結び、小さく頷いた。コウガ者がシノビ刀を抜く。
「待て!」
イガ者が大きく踏み出し、同時に忍犬の巨体が大きく跳ねた。頭上から迫るその獣に、イガ者はチッと舌打ちして右足のかかとを軽く持ち上げた。すぐにその足で、強く地を踏む。その途端、イガ者の右足が大きく吠えた。
女の絶叫にも似た、甲高い金切声。ただし、それは人間には聞こえない。その音が分かるのは、人間よりも耳の良い生き物。つまり犬もそうだ。金切声は犬の耳から頭の中にするりと入り、その脳を大きく揺らした。
忍犬はぎゃひん、と声を上げて空中でバランスを崩し、肩から地面に落下した。重い音が上がり、細かい雪の破片が波しぶきのようにイガ者の足元に散った。
異変に気付いた二人が動きを止め、イガ者を見る。イガ者は右足を上げ、小さな穴の開いた具足を彼等に見せつけた。
「“叫の十四式具足型”。本当は奇襲前に辺りをかく乱させる忍具なんだが、こんな風に役に立つとはな」
イガ者は持ち上げていた足を下ろすと、倒れた忍犬には目もくれずに二人に歩み寄り始めた。シノビ刀を抜き、コウガ者と女とを見据える。
「さあて、覚悟はいいな?」
イガ者の言葉に、これからやろうとする事へのためらいは微塵もない。
シノビ刀を持つイガ者の四肢には、それぞれ機能の違うイガ忍具。そのどれもが、武器としての役割を持つ危険な代物だ。これらを抜きにしても、シノビとしての修練を積んでいるとあれば、素手ででも敵の首を取るのはたやすいだろう。
片やコウガ者の手にはシノビ刀が一振り。彼の持つ武器は、これだけだ。加えて、彼はシノビではない。彼をここまで連れてきた忍犬も、イガ者の右足によって気絶している。
もはやこれまで。
コウガ者が死を覚悟したその瞬間。
「う」
女の口から、何かをこらえるような声が上がった。
コウガ者の頭が、さっと冷える。女を見ると、彼女は胸を押さえ苦悶の表情を浮かべていた。額には、暑くもないというのにびっしりと脂汗をかいている。
二人の様子に、イガ者が足を止めた。
「げ、もう……、?おい、本当に爆弾か?」
イガ者は様子がおかしいのに気付いた。起爆するという亥の刻までまだ時間がある。爆弾ならば今この瞬間、女の体は弾け衝撃がイガ者とコウガ者とを襲っているはずだ。だというのに、この場の大気の流れには乱れ一つない。
ただ、ちりと肌を刺す感覚がイガ者の頬を撫でた。本能に根差した部分が、敵にもならないであろうはずの相手に対して危機感をあおる。そうした感覚を持つ訳が自分でも分からず、イガ者は二人から一歩下がった。歯を噛み締め、シノビ刀を持つ手に力を込める。
コウガ者が悲痛な顔をして女から離れた。そして彼は握り直したシノビ刀の切っ先を女に向けた。助けに来たはずの彼が、だ。その様子に、イガ者は自分の感覚が正常である事を確信する。
「おい、何だ!どうしたってんだ!」
イガ者は女をじっと見た。うずくまり、苦しそうに胸を押さえる女。白無垢で包まれているその体は、何時にもまして小さく見える。だが、イガ者とコウガ者が今女に感じているものは、逆に彼女を大きなものに見せていた。
女が跳ねるように身を反らし、口を開く。
「う、く……あ、ガァアア!」
女の声とは思えぬ怒号が、その喉から上がった。顔を上げた彼女の目はかっと見開かれ、反り上がった細い首筋にいくつも皺が寄る。全身の筋肉が大きく張りつめ、みちん、と音を立てる。今や女の体は膨れ上がり、二倍の大きさにまで膨れ上がっていた。
女の絶叫が、喉から振り絞る悲痛なものに変わる。その刹那、女の腕がすぐ傍のコウガ者へ伸びた。それを見ていたイガ者が、自分の目を疑う。白無垢の白く広い裾から覗く女の腕が、太く赤黒いものだったからだ。男のものでも、こうは大きくない。瞬く間に女のその腕はコウガ者の襟首を掴み、たやすく外へと放り投げた。コウガ者の体が宙を舞い、イガ者の足元に転がる。彼はまともに受け身を取れず、背中から落ちた後雪の上を滑った。
イガ者にはまるで意味が分からず、コウガ者の襟首を掴んで無理やり起こす。
「おい、どういう事だ!爆弾じゃねぇのか!?」
「……っ、“爆弾”だ。獣の血や薬草で作った強壮剤が、あれの中で弾けた」
「はあ!?それが爆弾?それが何で……」
イガ者が女を見る。女は歯を食いしばった口から、上ずった息を吐きながら二人を睨んでいた。すでに立ち上がっていた彼女のその姿は、まるで山奥に住む鬼か山姥のようだった。固く膨れ上がった筋肉によって体格は二倍以上に大きくなり、眼窩から零れ落ちそうなほどに開かれた目はぎらぎらしている。丸めた背筋が、更にけだものじみた印象を見る者に与えた。
「……おい、ほんと、何した?何があったんだ!?」
「言っただろ、過剰な強壮効果のある薬が心臓に流れた。そのせいで筋力が上がり、常に体に激痛が流れるようになっている」
立ち上がった女の体がぐらりと傾き、その手が柱に触れる。女の指が樫の柱の中にたやすく沈み、めりめりと音を立てて「く」の字に曲がった。鍛えたシノビであっても、そんな真似はできない。
「それであんなになるのかよ……、じゃあ、女全員、こうか!?」
イガ者は事態の全貌を察した。
コウガ者の言う爆発は、女の変貌。怪力の上、激痛のせいで正気を保てない女達を放っておけばそれだけでイガへの打撃になる。打倒するにしろ、シノビであっても簡単にできる事ではないだろう。イガの疲弊につながるという点では、文字通りの爆弾よりも有効的な手段のように思えた。
「えぐい真似しやがる……!コウガのジジイは馬鹿なのか!?」
イガ者の言葉に、女が反応した。喉の奥からせり上がるような、低い唸り声を上げて目を彼に向ける。目は見開かれたままで、感情らしいものは感じられない。なまじ関わりのある相手だからこそ、イガ者は今の彼女に恐怖感を持った。
女の顔が、イガ者の眼前に迫る。シノビでもない女に一気に距離を詰められ、イガ者は完全に虚を突かれた。女の肩がイガ者の胸を打ち、イガ者が大きく後ろに吹っ飛ぶ。イガ者の体は二、三度雪原で跳ね、枯山水を囲む漆喰の塀に背中から激突した。
イガ者は肺を打つ衝撃と全身の痛みで、一瞬気を失いかける。
「ごほ……っが!ま、マジかよ……」
そう呟き、イガ者は前を見た。女は雪を蹴り、更にイガ者へと近づいていく。その形相は殺しに行くような凶悪なもので、到底助けてもらおうとしているようには見えなかった。
ためらう間もなく、イガ者が鉄の串を手に取った。右篭手の穴に串の先を入れ、手を離す。忍具は自分の役目を果たし、鉄の串を吸いこんで射出した。一瞬のうちに女の眉間に串の先が迫り、直後その女の耳元をかすめた。女が高速で飛んできたその串を、見て躱したのだ。心臓から入り全身に行きわたった強壮剤がなせる業か。
「なっ……!」
イガ者は驚き、再び矢筒に手を伸ばす。しかし、指先が届いた時には彼の顔を女の手が叩いていた。押し付けるような一撃がまともに入り、不思議な音が上がる。鼻が砕けた音と前歯が折れた音、そして後頭部が塀に叩きつけられた音だ。女はイガ者の顔を掴んだままそれを持ち上げ、ごみのように放り投げた。イガ者は手足を無様にぶらつかせたまま宙を舞い、一部始終を見ていたコウガ者の眼前に落下した。
「……!」
コウガ者がイガ者の有様に息をのむ。顔を上げると、女の目は今度は彼に向けられていた。
女を襲う激痛を、彼はよく知っていた。彼は薬師でもなかったが、それでも心得はあった。今の彼女が痛みを感じているのは、頭の中だ。頭蓋の中の、手の届かない部分何かが脳を掘り進んでいくような感覚と、そのまま脳天を突き破られそうになる痛みだ。脳に近い部分に根差した恐怖と痛みに、慣れられる者などいない。その上薬の効果で力を上げられているせいで、治そうとする者も危険にさらされてしまう。このコウガ者もまた、同様だった。
女が唸りながら向きを変え、コウガ者を睨む。コウガ者は身の危険を感じるも、行動に迷った。シノビ刀を構えるも、その切っ先は左右に泳ぐ。
ついに女がコウガ者へと走った。助けろと迫っているのだろうが、殺してやると言わんばかりの形相であった。コウガ者の眼前に伸ばされた手は、すがるものであったとしても、彼の体をたやすく壊してしまうものだ。
女の手のひらが、コウガ者の目と鼻の先まで迫る。反応する時間もなかった。コウガ者の視界を覆う女の手が、突然軌道を変えて横へとそれた。瞬きする一瞬の間に視界が開け、女の姿がコウガ者の視界から消え失せた。
何が起きたか分からず、コウガ者は手の流れた先へと目を向けた。女の体は前ではなく横へ流れ、雪の上を転がっていた。女とコウガ者との間には、四足の獣。
「!お前……!」
コウガ者が忍犬の名を呼びかける。犬は踏ん張っているが、それでもイガ忍具によって脳を揺らされた衝撃が抜けきっていないらしく足元はおぼつかないものだった。時折ふらついては、倒れまいと四つ足で足の位置を変える姿はコウガ者には非常に便りなく見えた。
「う、うう……」
コウガ者の足元で、イガ者がうめく声が上がった。死んだものだと思っていただけに、コウガ者の驚きは大きかった。
「い、生きていたのか!?」
「お前殺すぞ……」
悪態をつくイガ者だったが、口元が血まみれで正視に耐えない状態だった。鼻が折れて呼吸できないせいか、時折喉に流れ込んだ血で咳き込んでいる。
「えほっ、ごほ……、あんなの、お前、どうするつもりだ?」
イガ者の問いかけに、コウガ者はシノビ刀を取り出した。柄の部分を、手のひらの固い部分で横から叩く。その後、からからと柄の中から小さな丸いものが転がり出た。コウガ者はそれを空中で掴み、イガ者の前に見せる。
「……何だ?」
「あの症状を押さえる薬丸だ。ああなる前に飲ませるはずだった」
「……そうか、邪魔したな」
イガ者は上体を起こし、女を見た。今や女は忍犬と同等と言えるほどに体格を増し、膝をついてはいるが、にらみ合いで獣を圧倒している。痛みに耐える女の理性が忍犬をどけるのを躊躇しているのだろうが、激痛に耐える寄る辺のない現状が女に殺意を持たせているようだ。忍犬も、そんな彼女に対してどうすべきか考えあぐねているようだった。
「そろそろ、亥の刻だ。他の女もああなるのか?」
「……いや」
コウガ者は観念したように、口を開いた。
「彼女はいわば先鋒だ。ああなった彼女が外に出てイガの里で暴れれば、他の女がそれを見て自分でああなる薬を飲む。彼女が亥の刻までに無力化されれば、女達はまた機会を狙って薬を飲む。それがコウガの長の算段だ」
「そう、か。仕掛けでああなるのはあいつだけ、か」
よろめきながら、イガ者が立つ。そして、コウガ者にこう言った。
「隙を作る。だからお前、あれにそれ、飲ませろ」
コウガ者はイガ者の顔を見、次に薬丸に目を落とした。
「……手伝うのか?」
「あれでも、俺の嫁だ」
そう言うと、コウガ者は軽く左足を上げた。
「本当に一瞬だ。だから、行け!」
イガ者の声に、コウガ者は躊躇するも一目散に女へと走った。
忍犬が彼に気付き、次いで女が彼を見る。コウガ者が彼女へと次第に距離を詰めるが、女はそれを見て雪に手をつき、踵を浮かせる。今にも飛び出し、コウガ者を弾き飛ばそうとする姿勢に入ったその直後、イガ者が左足で大きく一歩踏み出した。
直後、イガ者の左足の具足から何かが飛び出した。細いものが合わせて五つ、雪の上を蛇のようにくねりながら滑って女へと向かう。
「止まるな!」
叫ぶイガ者の声は、コウガ者に向けられたものだった。コウガ者は足を止めかけるも、その声で自らを奮い立たせて走り続ける。犬と、そして女はそれを怒号と取り一瞬身を竦ませた。だが、その一瞬で事態は変わった。
イガ者の左足から出たものが女の足元にたどり着き、するりするりと女の体を登った。そしてその手や足、胴や首元に巻きつきこれらを締め上げて固まった。動きを止められた女はバランスを崩し、力なく雪の上に倒れ込む。
これがイガ者最後の忍具、”縛の四十三式具足型”の機能である。
コウガ者は薬丸を持つ手に力を込め、女の顔を覗き込んでそれを口に押し込んだ。
「……これが昔、クリスマスで起こった出来事だ」
そこまで言って、コウガの男は昔話を締めくくった。
あの出来事から十二年が経った。非道な手段を用いたコウガの長達は、あの事件の後、思いのほか人情家であったイガ者達の逆鱗に触れたために滅ぼされ、一部のコウガの者達は本当の意味での和解を持って共存の道を歩むようになっていた。伴天連の祭りと呼ばれたものはクリスマスという呼称が浸透し、当時イガ忍具に用いられていたカラクリも時代遅れと笑われるようになった。
今や彼の住いとなったイガの家でほお、と間抜けな声を上げたのは、彼の甥だ。十になるかならないかといったその歳の子は、自分の持つ疑問を口にする。
「それがなぜ、世界の危機につながるの?」
そう尋ねる彼のすぐそばには、すでに老犬となったあの忍犬が身を横たえていた。今や常に寝ているか、起きていてもずっとまどろんでいるかといった、ぼんやりした性格になっている。
「分からないか。実はその時な、私はその凶悪な薬の製薬方法をコウガの里からくすねていたんだ。あんなものが出回るようになれば、それこそ本当に世界が滅びかねないからね」
自分のした事の意味を改めてかみしめ、コウガの男は自慢げにふふん、と鼻を鳴らした。
解毒薬があるとはいえ、服用した人間が凶暴化する薬だ。それが量産されるのを恐れ、彼は製薬法を持ち出し、これを焼いたのである。作業の一部を手伝っただけとはいえ、薬を作った一団にはコウガの男も含まれている。焼いたのは女を助けにいく前の事であった。
「アンタはまた、その話?」
部屋に入ってきたのは、その話に出てきた女、つまりコウガの男の姉だった。体の所々に薬の効果の名残というべき傷があるが、彼女の品位を損ねるには微々たるものだった。
「あの時のことは感謝しているけどね、少々吹き過ぎだよ。それに、何度同じ話をする気だい?」
「言わせてほしい、姉上。何せあの日、つまりイブに世界とキミと、キミの旦那を助けたんだ」
「英雄譚ってアンタみたいな奴が書くのね」
納得したように言って、彼女は肩を竦めた。
「それより、もう遅いでしょう。二人とも、さっさと寝なさい」
「はいはい」
「はーい」
男と子供が別室へ向かおうと立ち上がる。去り際、男は女に小さくこう呟いた。
「メリークリスマス、姉上」
女は答えず、眉をしかめ、呆れ半分でふう、とため息を一つした。
これは今の彼女にとって、子供の前で出来る精一杯の感謝と、愛情の表し方だった。
短編企画『イヴに世界とキミと』のために書いたものです。
今さらですが、趣旨にそぐわないものになっていないか心配でなりません。
締切5分前に上げるなんて、だらしねぇし。
よろしければ、どうぞ。