1話
読んでくださりありがとうございます。
時計の針が八時を少し回ってた。
カーテンの隙間から差し込む光が、まぶしい。
「……行くか」
小さくつぶやいたけど、体は動かなかった。
頭の奥がぼんやりして、まるで自分がまだ夢の中にいるみたいだった。
島倉翔琉、十九歳。
東京の大学に通って半年。
愛知の田舎から出てきて、思ってたほど自由じゃないって気づいた。
朝はいつもギリギリ。
原付きで大学まで二十五分。
アパートは古くて、壁が薄い。
隣の部屋の目覚ましが、こっちまで聞こえる。
洗面所の鏡に映った顔が、少しむくんでた。
目の下にクマ。
昨日もバイト終わったの、夜の十一時過ぎだった。
ラーメン屋のスープの匂いが、まだ手に残ってる。
ポケットの中の小銭を数えた。
五百七十円。
昼飯、学食のカレーでギリいける。
たぶん。
大学についたときには、一限がもう始まってた。
講義室のドアの前で一瞬迷って、結局開けた。
「お前、また遅刻かよ」
後ろの席から小声が飛んでくる。
多田仁。
明るくて、よくしゃべる。
何かと首を突っ込みたがるタイプ。
「電車?」
「原付き。信号で詰まった」
「お前んとこ、もう信号三つしかねえだろ」
「その三つが長いんだよ」
「……相変わらずだな」
仁が笑って、ノートを押しやってきた。
黒板の文字を写しただけの、丁寧な字。
「助かる」
「まあ、サボるよりはマシだろ」
教授の声が遠くで響く。
内容は頭に入らない。
ノートを開いてるけど、ページの端に落書きをしてた。
“音”
“ギター”
高校のとき、軽音部でギター弾いてた。
今は触ってもいない。
アパートの隅で、ホコリをかぶってる。
昼休み、学食。
仁と、もう一人の友達、湯浅広大が向かいに座る。
広大は、いつも眠そうな顔をしてる。
「昨日さ、彼女と喧嘩した」
仁が言った。
「また?」
「いや、向こうが機嫌悪くてさ」
「それ“また”じゃん」
「黙れ」
広大が笑いながら箸でカツを割る。
「翔琉、金貸して」
「またかよ」
「今週バイト減らされた」
「……一千円まで」
「優しい」
渡したあとで、ちょっと後悔した。
でも断れなかった。
仁がそのやりとりを見て、笑った。
「翔琉ってさ、なんだかんだで人がいいよな」
「そうか?」
「そう。騙されるタイプ」
「うるせぇ」
笑い合って、箸を動かす。
周りのざわめきと、食器の音。
それが昼の音だった。
夕方。
バイト先のラーメン屋。
厨房でスープを混ぜながら、油の匂いに包まれる。
店長の川原が、奥で餃子を焼いていた。
無口な人だけど、悪い人じゃない。
「島倉、ネギもう切れたぞ」
「はい」
包丁の音だけが響く。
店内のテレビでは、音楽番組が流れてた。
ボーカルがギターを抱えて歌ってる。
何となく手が止まった。
でもすぐまた動かす。
今さら戻る場所でもない。
閉店後、店の照明が落ちる。
外はもう暗くて、街灯が静かに光ってた。
原付きのエンジンをかける前に、ふと空を見た。
曇ってて、星は見えなかった。
でもその静けさが、少しだけ心地よかった。
最後まで読んでくださりありがとうございます。
どうでしたか?
少しでも楽しんでもらえていたら嬉しいです。