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03---鯨の夢---

 帰りしな、彼女はふいに私の袖を引いた。手つきが小さな子どものようだった。実際、百年もの歳月を経ても未だ人間社会に馴染んでいない異界の民は、私から見ればものを知らぬ幼児めいている。

 白く塗られた灯台の外壁も、間近に見るとそこここに錆が浮いていた。かくのごとく潮風は万物を平等に嬲るのに、ドロドロ人間が擬態する少女は、私と違ってどこも錆び付いていない。


「どした」

「……あの、また、来てくれる?」


 私は瞬きをした。

 そうして思い出した、最初に彼女が言ったことを――見えないから見ている、その言葉の本意が、今なら汲める。故郷を離れ同胞と別れ、たったひとりで異郷の海に暮らすドロドロ人間だ。ここからでは遠すぎて見えもしないふるさとを、見えないほど遠いからこそ慕わしく思うのだろう。

 言葉遣いは少し変だし、私なんぞ一般市民の平々凡々な生活すら話題になるほど世間を知らない。即ちそれほど他人と交流のない暮らしに甘んじている。

 つまり、彼女は寂しいのだ。


「来る。今度はおやつも持って来るよ」

「……おやつ!?」

「食べたいでしょ?」

「……、うん、うん、うん! 口から!」

「あはは。どこからでもいいけど」


 目をまるくしてはしゃぐ彼女はやっぱりお子様だ。夕陽を吸い込んだ瞳はキラキラと輝いて、私はそこに、一番星を見た気がした。



 かくして私と彼女の交流はその後も続いた。昼間は学校で、夕方は灯台で、私たちはこれといった目的なく互いの時間を分け合って過ごした。

 我が町のような田舎の学校では、彼女のような美少女と連れ立っていたら良くも悪くも目立ちそうなものだが、不思議なほど誰も私たちには目を向けない。そういえば私も海辺で出逢うまで彼女を知らなかった。普通なら、飛び抜けて容姿の優れた生徒というのは、それだけで校内の共通認識になるものであるが。

 恐らく彼女の特性のようなものなのだろう。私がそれに気づいたのは、もう少し後になってからだったが。


 あるとき彼女は海を指して、見てて、と悪戯っぽい笑みを浮かべた。灯台から少し歩いたところに小さな入江があって、そんな奥まったところは地元民でも滅多に来ないので、そこでなら彼女は本来のドロドロ人間に戻れるのである――が、このときはまだ輪郭を崩してはいなかった。

 ゆえに私は、その微笑の思わぬ艶めかしさにハッとして、寸時呼吸すら忘れた。

 よく民話に語られる海の魔物は美しい女の姿をして人を惑わすというが、陽光の薄虹をまとった彼女は、まさしくそういう異形の類を思わせる妖しい気配を漂わせていた。


 白い指が宙をなぞる。可憐な舞にも似たそれに合わせて、打ち寄せた白波がざわざわと揺れた。

 飛沫が宙に躍り、視えない力で汲み上げられた青鈍色の水の塊が、私の目の前で意志のある生きもののようにくねる。蛇に似た動きだ。それが私の周囲をぐるぐると取り囲むものだから、私は歓声を上げて一緒に回った。


「すごいすごい! これどうやってんの!?」

「ふふー、腕伸ばしてるだけ」

「うでぇ?」


 見れば彼女の片方の肩から先が半透明の流体に戻って、踊る海水と混ざっていた。どちらもほとんど色がないから境目がわからない。彼女は人に化けられるだけでなく、海にもなれるのだ。

 私は面白がって、水の塊を粘土のようにあれこれ形作って欲しいと要望(リクエスト)した。彼女はニコニコしながら何でも叶えてくれた。

 海水の鯨が大空に跳ね、私は飛沫を散らすその背に跨って、夢のような体験をしたのだ。陽射しを乱反射してきらめく水鯨をずっとその場に留めておきたかったけれど、そのうち彼女はすっかり疲れてしまった。水を操るのには相応の気力だか体力だかを消耗するらしい。

 彼女がドロドロになって波打ち際に広がっていると、その姿は水母の死体そのものに見えた。


「あのさ、***」


 彼女の本来の名前はどうしても発音できなかったので、適当なあだ名を着けて呼んでいた。今となっては思い出せないけれど、彼女はその呼び名を気に入ってくれていたようで、ちょっとくすぐったそうな顔でこちらを見る。


「恰好さ、どうして女の子にしたの? 本当は性別ないんでしょ」

「ないというか、こっちの人とは違うですね。んー、男性の学生は、首にタイがないので」

「あ、意外な理由。お洒落なんだ?」

「う? これは本物、海岸で拾ったの。部品あると想定しやすい」

「全然違った。はは」


 私は彼女と反対向きに寝転んだ。天上に広がる青は海に似ている。主張の激しい夏の太陽が少しうるさいが、両眼を閉じれば潮騒だけが辺りを支配した。たゆたう波の壮大な音色に身を委ねると、己が海上を彷徨う船になったようだ。

 このころの私は、こんな日々がずっと続くことに何の疑いも抱かなかった。頭にあるのはまた明日、今度は何を形作ってもらおうかという心地よい空想ばかり。人生が航海だとして、己の海図には何の障害もないか、あっても容易く越えられるだろうとたかを括っていた。


「……もう帰らなくちゃ」


 ふと彼女がそう呟いたので、私は焦って跳ね起きた。


「なんで!? もう住めないんでしょ!?」

「え? ……あー。帰るのはねー、灯台ですよ」

「あ……。ごめん。……そうだよね、点けないと船が帰って来れないもんね」

「時間は守るって、トーダイモリさんと約束したっ」


 私の失言など気に留めていないかのように、彼女はけろりとそう言って立ち上がる。ざばあ、と海水が流れ落ちていくと、そこにぼんやり人型の影だけが景色を切り抜いたように残っているのが、何度見ても慣れない光景だ。この状態の彼女はどこに目鼻があるのだろうか。

 じゅるじゅる音を立てて海水を吸い上げた彼女は、あっという間にいつもの少女の形になる。


「……ところで、頭に珊瑚着けてるのはやっぱり変だよ」

「えー、そうなのです?」



 →

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