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02---異邦人---

 ――驚かせてごめんなさい。


 目を覚ました私が耳にした彼女の第一声は、ありふれた謝罪の文句であった。彼女はすでに元の人の形を取り戻していた。

 海辺の町ではやや珍しい白い肌には、この年頃ならありがちな面皰(にきび)雀斑(そばかす)の類はない。私と同じ灰色を身にまとっているけれども、彼女は他の誰もと違った。

 細い黒髪からぽたぽたと雫が落ちている。同色のまつ毛に覆われたアーモンド型の瞳は、ぱっちりとした麗しい秘色(ひそく)色。なるほど正面からよく眺めれば相当な美人の類であった。

 私はしばし彼女の美貌に見惚れ、ややあってさきほどの異常な光景を思い出す。


 喉からひきつれた悲鳴のなり損ないが這い出た。咄嗟に立ち上がれず、私は這ったまま脚を無様にもつれさせる。逃げようとしたつもりだった。


「わたし、ここの人ではないです」

「な……な、何!? ちちち近寄るなぁっ!」


 情けないほど裏返った声で罵倒した私に、彼女は申し訳なさそうに眉根を寄せる。


「ここの人ではないですが、人間です。ええと……生まれた場所が違うから、ここの人たちと形、違うの」

「は? え? 何だって?」

「ここと、違う場所で生まれました」


 彼女の白魚のような指が、すっと窓の外を指した。嵌め殺しの硝子が絵画のように切り取っているのはあまりにも鮮やかな夏の空、妙にくっきりと影の落ちた純白の雲が、綿菓子のように蒼穹を彩っている。

 困惑したままの私に、彼女は続ける。

 ――あの向こうから、来ました。もうずっと前に。この国の暦で言えば、百年ほど。


「わたしの生まれた場所は、みんな柔らかい身体。色も形も変えられる……ただー、想定(イメージ)が変わると、戻ってしまって。さっきはびっくりしたですね、ごめんなさい」

「……え、と、つまり……タイ盗りしたから、身体、ぐちゃって……?」

「そう、そう」


 彼女はニコニコと微笑んだ。私が直前まで向けていた恐怖や悪意などちっとも気にしてないふうで、そのまろやかな笑顔に毒気を抜かれた私もまた、気付けばつられてヘラヘラと笑っていた。


 それから私はしばらく彼女の話に耳を傾けた。

 生まれ故郷は空の彼方。どこにあるのか、どうやって来たのかは説明を聞いてもさっぱり理解ができなかった。どうやらとてつもなく遠い場所らしい、ということしか。

 彼女が生まれ育ったその地は、地面も空もすべてが液体に覆われていて、人間はみな半透明の流動体なのだという。そのドロドロ人間の楽園で、彼女は家族と一緒に幸せに暮らしていたのだけれど、あるとき住み続けることができなくなった。住環境の要である液体がどんどん減っていってしまったのだ。

 彼女たちは故郷を離れることになり、長い旅をしながらあちこちに散らばって、今この町にいるのは彼女ひとり。

 それが、百年も前のできごと。


「あんた、随分と長生きなんだね」

「そうみたい? ここの人、みんな早くに死んでしまうね」


 ドロドロ人間が暮らせる場所を探していた彼女は、ここに来たとき、海を見つけて大喜びした。多量の水は必須条件だったからだ。しかしそこが生きるのに適した環境かどうかを調べていたところ、運悪く漁師のかけた網にかかってしまい、当然ながら何らかの怪物の類と見做されて騒ぎになったそうだ。

 その当時はここにも灯台守がいて、彼は漁師たちの組合にも顔が聞いた。よほど懐の深い人だったらしく、ひとりぼっちの彼女を哀れに思った灯台守は、この灯台に彼女を住まわせてやることにした。

 以来、もう灯台守は死んでしまって後継者もいないわけだが、彼女はずっとここを守っているのだそうだ。そのことは漁業組合の上役だけに代々言い伝えられている。ごく一部に留められているのは、彼女がなるべく静かに暮らせるようにという、亡き灯台守の計らいであったようだ。


 身体が乾くと動けなくなるので、彼女は定期的に海水に浸からねばならない。いささか過剰な塩分が含まれている点は問題ないらしい。夜じゅうたっぷり水を吸えば、昼間は陸上で活動できる。

 そして灯台守から人間――この場合はこの世界のヒトという意味――の言葉を習った彼女は、もっとこの土地を理解するべく、ときどき学生の扮装をして学校に通っているのだとか。それでそんな服を着ているのか。しかし、髪留めに珊瑚を使うのは我々の感覚で言ったら正直少し変だよ、と伝えてもいいものかわからず、このときの私は遠慮した。


「ここの人たちの生活、わたしたちと随分違う。面白いです」

「そう? たとえば?」

「口から食事を摂ることとか」

「えーっ、じゃああんたはどっから食べるの?」

「どこからでも」


 ほらこのとおり、と言わんばかりに、彼女は掌から海藻の干物を啜ってみせた。そして思わず見入ってしまった私に対し、何やら得意げな顔をしている。


 私にとっては未知のドロドロ人間の生態の方がずっと面白い。当初のふてくされた気分はとっくにどこかへ吹き飛んで、彼女の故郷や家族の話を尋ねた。彼女は逆に、私の暮らしや家族のことを聞きたがった。生まれてからずっとひとつ処に住んでいると、周囲はすべて子どものころからの付き合いだから、そんなことを人に訊かれるのは初めてで、なんともむず痒い心地がした。

 気付けばすっかり陽が暮れていた。灯台の明かりの下、私たちは一旦別れることにした。



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