皇太子、じりじり
──落ち着け、落ち着け。
先程から何度繰り返しているか分からない。
腕の中に抱いたリーリアが怖がっているから、尚更だ。
なのに、どうしても、感情が抑えきれなかった。
見張っていた女子寮からリーリアが出てきたとき、嫌な予感がしたのだ。すぐ前に、エミリ・アーデムがいなくなったと聞いていたから。そういう状況で、リーリアが慌てて出てきたとなれば、また、何か危ないことに巻き込まれてしまったのだということは明白だった。
危ない目に遭う前に捕まえられたと、少しばかり油断してしまったのが原因だろうか。黒い煙が広がったかと思えば、そのままリーリアに逃げられてしまった。
「リーリア、リーリア!」
「殿下?!」
ディートリヒが慌てて近寄ってきた。少し離れた場所で待機するように言ったのだが、この黒い煙だ。何事かと思うのも無理はない。
「……ディートリヒ」
「は、はい。珍しいですわね、学園で私の名前を呼ばれるなんて……」
「いいから、女子寮で許可を取ってきてくれ。リーリアの部屋に行く」
「へっ?!」
未婚の令嬢の部屋に、他でもない皇太子が入るなんて色々な意味であり得ない。ディートリヒの顔にははっきりそう書いてあった。ジルディオとてそんなことは百も承知だ。だが。
「……リーリアがどこかへ消えてしまった。僕を煙に巻いてね。さっきの……アーデム嬢の話もあったし、リーリアはアーデム嬢のところへ、そうだな、誘い出された可能性が高い」
そうでもなければ、未だたまに他人行儀──よく言えば礼儀正しい──が顔を出すリーリアが、他でもない皇太子であるジルディオに制服の上着を投げ、よく分からないものを投げつけてまで逃げたりはしないだろう。
「部屋の中に手がかりが残っているかもしれない」
予想通り、部屋で脅迫状を発見したジルディオは、急いで旧図書館に向かった。確かここには何人かしか知らない、隠し通路があったはず。
そして見つけたのだ。ジルディオの制服も汚している黒い煙で、一冊の本が汚れているのを。
「……」
本を抜くと、本棚が動いて隠し通路が現れた。きっとこの奥だ。
「ディートリヒ!この隠し通路の先だ!僕は先に行く!お前は応援を連れてこい!」
「え、あ、殿下!普通逆……っちょっと、殿下!!」
ディートリヒは喚いたが、ジルディオは気にせず通路へ足を踏み入れた。気が急いて仕方がなかったのだ。
(リーリア!)
そして、角材を振り上げた男子生徒の先。今にも倒れそうなリーリアを見て、ぷつん、と何かが切れた。
そこからは怒りで視界が真っ赤になった。その怒りのままに、男子生徒を蹴り飛ばしてしまう。怒りで我を忘れてしまったのだ。きっと、リーリアの声が聞こえてこなかったら、男子生徒がどうなっていたか分からない。それくらいに。
意識がリーリアに戻る。リーリアが脚を傷つけられたこと、そして、額から頬が赤くなっていて、叩かれたことが分かると、たまらなかった。
(すぐに、手当てをしないと……)
そうして抱き上げた彼女は、いっそう小さくて華奢だった。
ふつふつとまた激情が込み上げてくる。リーリアを抱いて医務室へ向かいながらも、ジルディオは未だに口を開けないままだ。
こんな暴力的な気持ちになるのは初めてだった。
(リーリアが怖がってる……わかってる)
リーリアに必死に呼ばれて、ようやく男子生徒への攻撃を止め振り返ったとき、リーリアの肩は震えていた。
(僕は……どんな顔をしていたのかな……今もか)
きっと、酷い顔をしているに違いない。
このまま皇宮まで連れ帰ってしまえたら、どんなにかいいだろう。
そうしたら、こんなことに巻き込まれないよう、ましてやこんな怪我なんかさせないよう、閉じ込めて、大切に守るのに。
そんな考えが、頭から離れないから。
「……で、でんか……」
「……ん?」
「お、おこって、います、よね……?」
「……うん」
ああ、嫌だな。子どもみたいだ。
「ええと、色々……あの、黙って行ってしまったこと、あと、上着も投げてしまいましたし、それから、あの黒い煙玉も…………本当に、すみませんでしたっ!」
リーリアはジルディオの腕の中で、思い切り頭を下げた。その振動で怪我をした脚が痛かったのか、低く唸り出す。
「……っ、」
ジルディオは慌てて傍にあったベンチにリーリアを降ろした。ジルディオはそのまま地面に片膝をついて、リーリアの顔を覗き込む。
「大丈夫?」
「うぅ……はい」
「……無理しないで」
「ありがとうございます……って、殿下!地面は冷たいですわ!こちらへ座ってくださ……ぅっ!」
「リーリア!僕のことはいいから、本当に……無理をしないでよ……」
「殿下……」
ジルディオは、リーリアの手を取り、祈るように握り込んだ。
「……君を助けるって約束したのに、うまくいかないな……」
「……えっ?いいえ。殿下は助けてくださいました。人身売買の事件のときも……今だって、私がこれだけの怪我で済んだのは、殿下が助けてくださったからですわ」
「……」
「あっ!殿下、手の甲に傷が……」
リーリアの手を握り締めたままだったから、よく見えたのかもしれない。確かにジルディオの手の甲に傷が出来ていた。恐らく、角材を手の甲で受け止めたときのものだろう。だが、それがなんだというのだ。
「……僕より、リーリアのほうが酷い怪我じゃないか」
「……まぁ、殿下。怪我をしてるのにどちらのほうが酷いもなにもありませんわ。さぁ、手の甲を貸してください。ハンカチがありましたので、これで縛っておきますね。後でしっかり手当てしてもらってください」
「……本当に、君って人は……」
自分が、一歩間違っていれば命を落としていたかもしれないあの状況で、エミリを心配したとき。本当に苦しくなった。どうして、この女の子は、自分より誰かを優先してしまうのだろう。
どうして、自分を一番に、考えてくれないのだろう。
「……」
(僕は……)
君が大事にしない君を、なによりも大事にしたい。
(ふ、)
この思いは、伝わらないように大事にしまっておかなければ。この激情が、大事なこの女の子を、万が一にも傷つけてしまってはいけないから。
「……医務室に行こうか」
「ええと、はい……」
今はこのまま、この女の子を助ける、立派な騎士でありたい。
ジルディオは、うまいこといかない顔で、それでも笑った。
それから、お姫さま抱っこのくだりでひと悶着あったが、これが手の甲の傷が一番痛まないのだと伝えると、リーリアは渋々と了承してくれたのだった。
(全く。心配だなぁ……)




