入学式
あれから希乃華は澄生と音耀が会話するのを横で静かに聞いていた。その前を通る生徒は澄生さんや音耀に気安く話しかけていく。その度に澄生さんは希乃華の事を紹介するので、それに合わせ挨拶を繰り返した。
どうやら澄生は皆に好かれている様だ。誰も彼も澄生から紹介を受けた希乃華に好意的に接してくれた。
ただ挨拶を交わすだけだったが、自分から声を掛けるのは難しいと感じていたので澄生の心遣いは有り難かった。顔を覚えるまではいかないが、どんな感じの人がいるのかが分かった。
きっと澄生は良い人だ。だから皆に好かれるんだ。同じクラスにこんな人がいて良かったと思った。
そんなやりとりがあり、少し気持ちが軽くなったのか、心なしか調子も良くなった。身体を起こしていても苦ではない。
ただ時折音耀の視線が気になった。優しい顔で微笑んでいるが、その笑顔が作り物の様で怖かった。音耀の笑みが同じ様でいていつもと違うのが分かる事に苦笑いが溢れる。
後で体調管理に気を付けろとか言われるのだろうが。布団に入ってから寝付くまでの事をあれこれ聞かれ詮索されるのはしんどい。何が音耀の気に触ったのだろう。
そうこうしているうちに教室に先生が入って来た。年は30代位の女性だ。担当科目は国語だと言う。
今日の流れが説明され、一同は入学式が行われる記念館へ移動となった。
新入生が入場する頃には、既に保護者は着席していた。吹奏楽部の演奏する曲が鳴り響く中で式は進んでいく。
昨年の11月まで吹奏楽に所属していたので、知っている曲が流れると懐かしく感じた。
会場となる記念会館は広い造りだ。内部は暖房が完備されており春先でも暖かい。9クラスもある学年の生徒と保護者を収容しても窮屈ではなく余裕を感じられた。
幸いにも入場後から隣の席に音耀はいない。保健委員の先輩が言った通り、音耀は新入生代表の挨拶に選ばれている様だ。
式の間は誰かが登壇した時だけ起立すれば良かった。身体への負担は余り感じられず、式の最中も貧血様の症状が現れ無かった。
式が終わると皆で教室に移動した。先生から明日の流れを説明されてクラス委員の選出に移った。
今期は先生からの推薦で委員の経験がある希乃華と、希乃華と並んでも引けを取らない坂本菫という女生徒が務める事になった。
坂本は名前を呼ばれると嬉しそうに笑顔で音耀の方に顔を向け、目配せし視線が絡むと前に向き直った。
HR終了後はクラスは解散となり、澄生と共に母と義父が待つ記念館へと向かった。
その間澄生は明日から朝から夕まで学校があるのを嘆いていた。その様子に思わず笑っていた。
記念館に入場すると直ぐ、リボンの色は違えど同じ制服を着た同じ位の背丈の少女が走って来た。
『お兄ちゃんおかえり。音耀さんもおかえり。』
『おう、ただいま。紗綾は家に戻らなかったのか。それじゃあ腹減ったろ。』
澄生の妹の背後には両親が控えていた。少女は母親似で澄生は背格好や顔の雰囲気から父親似だと分かる。見比べると血の繋がりを感じ興味深かった。
少女は笑顔を崩しムッとした顔で澄生を睨む。
『ちょっと、音耀さんの前でそんな風に言わないでよ〜。腹ペコじゃないわよっ。さっき車の中でちょ〜っと摘んで来たんだから!』
どうやら紗綾は音耀に空腹なのを知られたくなかったらしい。
『ふふ、紗綾ちゃんは今日も元気だね。お腹が空いてるのは大変だ。早く帰宅してご飯食べないとね。』
音耀の一言に少女は頬を赤らめ、澄生に向けていたのは違う恥らう様な眼差しになる。音耀の事が好きなのかもしれない。
『大丈夫です、減ってません。そんな事より、音耀さん、また是非家に遊びに来て下さい。ユウも寂しがっているんですよ。音耀さんにワシャワシャされたがってるみたいです。』
身長差のある音耀を見上げ紗綾は微笑んだ。
『ははっ、ユウちゃん本当に可愛いよね。僕もユウちゃんに会いたいよ。今度は妹も一緒に良いかな?』
突然自分が話題に挙げられ驚く。
紗綾はこちらに目線を移し、優しげな笑顔で答える。
『妹さんですか。初めまして、田丸紗綾と言います。中等部の二年です、宜しくお願いします。是非遊びに来て下さい。ユウはうちで飼っている犬なんです。もう10歳になります。人懐っこいので直ぐに仲良くなれると思います。』
好意的な様子に安堵する。兄に好意を持つ人から冷たく接せられた事がばかりだったので少し不安だったが紗綾は大丈夫な様だ。
『初めまして、藍田希乃華です。今日からこちらに通う事になりました。宜しくお願いします。はい、有難うございます。その時はどうぞ宜しくお願いします。』
すると背後から澄生の両親からも声が掛かった。
『初めまして、澄生と紗綾の父です。いつでも遊びに来てくれて構わないから。私は留守かもしれないが、この子達に妻やユウもいるので楽しめると思うよ。』
その声に被さる様に隣に立つ、ショートヘアの年嵩の綺麗な人が声を上げる。
『あら、あたし達がお喋りみたいな言い方じゃない。だけど本当よ、私達もあなたみたいな可愛い娘さんが来てくれたら嬉しい。ユウは本当に人が大好きだから、あなたに会えたら友達が増えたと尻尾をブンブン振って喜ぶと思うわ。』
澄生の様に大らかで優しい人達だ、心が温まり解れていく。
『有難うございます。はい、その時はどうぞ宜しくお願いします。』
澄生達に別れを告げ、二人は両親のいる席を探し歩き、姿を確認し側へ歩み寄った。
両親は口々に兄の挨拶が素晴らしかった事や希乃華や兄の様子に成長を感じたと話してくれた。
車に乗り込んだ後はどこかで食事を摂るかという話になったが、兄は家で待っている祖母や亡くなった祖父に報告してからと言う話になった。私達は一度自宅に戻る事になった。
家に着き制服のまま祖母の部屋を訪ねた。入室の際声を掛ける。
開かれた扉の向こうは日当たりが良い明るい室内で、祖母と専任の使用人がいた。穏やかな時間が流れる室内にはクラシック音楽が流れ、丁度お茶の時間を迎えたらしい。
父と母が先ずは祖母に歩み寄り挨拶し体調を尋ねている。それに使用人が答える形だ。
兄と共に日に何度か希乃華も祖母の元を訪れている。祖母は身体が不自由で日中は車椅子に乗っているか、椅子に腰かけている事が多い。脳出血が原因で言葉を満足に話せずにいた。
『お祖母様、只今帰りました。お変わりなくお過ごしでしたか?今日は入学式だったんです。』
音耀は笑顔で祖母に近付きその手を取る。
『見て下さい。変わり映えしないかもしれませんが、高等部の制服です。首元の細いラインが赤になったのが見えますか?』
祖母は唸る様に声を出すばかりだ。顔の右側には力が入らず目の開きは小さく、口も右側は閉じきれずに開いていた。
『希乃華ちゃん、こちらにおいで。一緒にご挨拶しよう。』
音耀は希乃華を招くが足が重くなる。希乃華はこの間家族になったばかりだ。初めて会った時は正直祖母の様子に衝撃を受けた。後遺症だとは分かるのだが、何となく恐ろしく感じるのだ。
希乃華は膝を折り音耀の隣に並び、倣う様に挨拶をした。会話を幾らか交わした後兄は立ち上がり、私を伴い仏壇に向かった。
『お祖父様にもご挨拶しようね。』
先に父母が仏壇に手を合わせ、その後促され希乃華も音耀に倣い仏壇の前に行き線香をあげた。
こうしてみると音耀は穏やかで心遣いも出来る優しい人だ。
それから暫くそこで過ごし時間が過ぎたので結局外には食事に行かず、自宅で祖母と食事を摂る事になった。希乃華は余りこの時間が好きではない。覚えたての作法に気を配りながら摂るというのもあるが、祖母の口から溢れる食物等で汚れた口元が気になるのだ。それを目で追ってしまうのと自然と食欲が失われた。
食事が済み、希乃華は食堂を出て直ぐに音耀に声を掛けられた。
『希乃華ちゃん、今日は色々あって疲れたよね。勉強はいつもより少しにしよう。』
音耀は希乃華に笑い掛ける。
『少ししたらいつもの部屋にいるから来てくれるかな。』
嫌だが頷くしかない。藍田家の人間になってしまったのだから。
一旦部屋に戻り筆記用具とテキストを持ち、学習で使う部屋に移動した。
部屋に入ると音耀は机の前に立っていた。
『待たせてごめんなさい。』
希乃華は音耀に謝罪し直ぐに席に着いた。音耀は希乃華の前に座ると、両肘をついて手を組み無表情でこちらを見つめた。
『ねぇ、希乃華ちゃん。君は藍田を名乗っているけれど、実際藍田の血は一滴も流れていない。どう言う事か分かる?家と家を繋ぐという目的では君は何の意味を成さない駒なんだよ。』
やれやれという様に頬杖をついて希乃華の目を覗き込む。
『それどころか親しくなればなる程、付け焼き刃にしか過ぎない君の粗が目立つだろうね。』
そんなの言われなくても自分が一番分かっている。希乃華は膝の上で組んだ手を強く握りしめた。
『澄生に優しくされたからって思い上がらない方が良いよ。あいつは誰にでも優しいんだ。』
(それだって分かってる。)
『そんなに僕といるのが嫌かい?具合が悪くなる程…。僕が気付かないとでも思ってた?』
希乃華は慌てて、俯いていた顔を上げ兄を見る。
『それは違います、本当に寝不足で。新しい学校で上手くやってけるか心配で眠れなかったんです。』
音耀は意地悪そうに笑みを浮かべる。
『へぇ、そうなんだ。寝付くまで僕が本でも読んであげようか。』
その様子に青褪める。寝入る直前までまでこの人といるなんて御免だ。ただでさえいつも離れてくれないのに。
『大丈夫です、眠れなくてスマホでニュースを眺めていたのがいけないんです。今日から改めます。』
希乃華は必死に兄に頭を下げる。
『でも、そうだね。夜のスマホはいけないな。寝る前は僕が預かろうか?』
音耀はニッコリと微笑む。
『大丈夫です、もうしません。だからスマホは手元に置かせて下さい。』
『どうしようかな…。でも心配だなあ。』
音耀は少し考える素振りを見せ小首を傾け流し目をする。その沈黙が重い。寝る前にお絵描きアプリでイラストを描いたり、イラストを見て回ったり、音楽を聴くのが今の唯一の楽しみなのに…。それさえ奪われたら何で心を支えていけば良いんだろう。
心配で心臓が早鐘を打つ。息が苦しい。
『ふふ、良いよ。心配しないで希乃華ちゃんもそれ位したいよね。』
音耀は楽しそうに私の様子を見ながら笑っている。
『でもさあ、僕は今日悲しかったんだよ。』
音耀は思わせぶりに困った様な顔をする。そして少し前屈みになり希乃華に近付く姿勢を取る。
『僕は希乃華ちゃんを心配して、君の為に藍田家の作法や必要な勉強も教えているのに…。何か粗相をしてもフォロー出来る様に側にいるのに…そんなに窮屈なのかな。』
音耀はこれ見よがしに溜息をつく。
『僕は可愛い妹が出来て嬉しいのに、君にこんなに優しくしてるのに何が苦しいの?』
音耀は少し間を置いたかと思うと、頬が接するのではないかという程の距離まで顔を近付けじっと私の目を見つめる。そして低く囁いた。
『知らない先輩や澄生に救いを求める程。』
希乃華は喉をヒュッと鳴らし息が出来なくなった。驚きに目を見開き音耀をただただ無言で見つめるしかなかった。