藍田 音耀
僕は毎日優秀な誰かと比較され結果を求められた。何処までも何処までも要求は高くなっていき終わりがない。
僕は身体が小さく、内気で大人しかったので、幼稚舎でも揶揄われることが多かった。
その都度誰かが囁くのだ。
『藍田君に酷い事しちゃ駄目だよ。お家のお仕事が上手くいかなくなるよ。』と。
日に日に周りは僕を腫れ物の様に扱った。
だけど田丸 澄生だけは違った。
『なぁ、お前と喧嘩すると、家潰されるってホント?』
砂場で一人で遊んでいたら、近くの雲梯にぶら下がりながら大柄で短髪の子が話し掛けて来た。
『そんな訳ないでしょ、そんな変な事出来るんならとっくに何人も幼稚舎から消えてるでしょ。』
余りに真っ直ぐな物言いに何だか嬉しくなったが、天邪鬼な僕は呆れた様な顔をして見せた。
するとその子は今度は雲梯に両足を引っ掛け逆様にぶら下がった。
『だよなぁ、俺もそう思うわ。』
沈黙が少し流れた後その子は雲梯から降りて僕の側に寄って来た。
『俺、澄生って言うんだ。宜しくな。』
僕は砂場から立ち上がった。澄生は見上げる程大きい。頭1個分は違う。
『あ、ああ…。宜しく。僕は音耀。』
僕を見下ろしながら彼はニコッと笑った。笑うと厳つい顔が優しげになる。
『俺の名前も珍しいけど、お前も珍しい名前だな。宜しく。』
僕も思わず笑い返した。
『うん、宜しく。』
それから僕と澄生は砂場で遊んだ。実は同じ組だったらしい。本を読んだり、絵を描いたり一人で遊んでいるので全く気付かなかった。
澄生は身体は大きいが運動は得意では無く、足も遅かった。だから鬼ごっこでは万年鬼だ。僕は小さいけれど足は早かったので、その度鬼を交代して回った。
澄生といるといつの間にか皆の輪に入れるようになった。
身体を動かして遊ぶのは楽しかった。案外運動神経が良い方だと気付けた。それに一人じゃ決して遊べない遊びが出来た。悪役は一人も居ない6人皆がヒーローなごっこ遊び。馬鹿みたいだけど楽しかった。
澄生は騙されやすくて単純でドジだけど。裏表の無い人柄に救われた。
帰宅すると祖母に今日あった事を逐一話す。嘘偽りは無駄だ。学園からも報告を受けるのだから。
『貴方は藍田家を継ぐのだから、このままだと苦労するのよ。大丈夫、貴方はお父さんの子だから。何事も努力が解決してくれるわ。あの子が子供の頃は朝から勉強に取り組んだものよ。出来ない事が悔しくて出来るまで何度も何度も頑張っていたわ。』
窓辺の陽射しを受けて祖母の髪は明るく光る。柔和な笑みを作り僕の手を取った。
『有難う、お祖母様。僕も悔しい。今から取り組んできます。』
悔しい、とても悔しい。
でもそれは、出来ない事が悔しいんじゃない。母が僕の事で謂れのない中傷を受けることが我慢ならないから。
祖父母は口先では僕を褒め信じていると言う。けれどその実は違う。僕のいないところで何が起こっているか知っている。
僕が祖父母の思う様に出来ないと、母が執拗な追求を受けることを。
『透子さん、だから私は言っていたのよ。音耀さんには早くから先生を付けなさいと。ご覧なさいな、あんな初歩で躓いているわ。初等科に入ったらいい笑い物にされますよ。』
『お義母様申し訳ありません。音耀には先生を二人付けました。今年中には遅れを取り戻せるかと思います。』
母の声は震えていた。
『まぁ、まぁ、まぁ、二人付けたですってどちらの先生なのかしら、貴方に任せていたけれど心配だわ。可哀想に…。あの子せいじゃ無いのに。あんなに苦労して。勉強勉強とやらされているから駄目なのよ。私が若い頃は遊びの中に自然と学びを取り入れたものよ。そうすれば子供は自然に興味関心を持つものなのよ。』
『申し訳ありません。』
祖父が大きく溜息をつく音が響く。
『もうそれ位にしておけ。もう分かっているだろう透子。中条の伝手で先生を探すのは辞めなさい、家格というものがある。うちで懇意にしている先生がいる。その先生方にはお断りするんだ。』
沈黙が流れた後に
『有難うございます。はい、承知致しました。』
母は消え入りそうな声で答えていた。
漸く断罪が終わりを告げたかに見えたが、いつもの様に祖母が追い討ちを掛けてくる。
『そういえば、あの子理さんに少しも似ていないわね。何だか貴方に似ているわ。』
母が短く息を飲んだ音の後直ぐに話し出した。母の声が少し高くなる。
『お義母様、音耀は理さんに似ていますわ。大きな目も瞳の色も、手や足の形も本当によく似ていますわ。』
祖母が鼻で笑う声が聞こえる。
『そうかしら、あの子より貴方に似ているわ。』
祖父がまた大きく溜息をつく。
『もう、やめないか。確かに音耀は透子に似てる。それをこの件と引き合いに出すんじゃない。理があんな事をしでかしたんだ。中条には感謝しかないだろう。音耀の事は少し目を瞑りなさい。』
何か責める理由を見つけては母を甚振る祖母が嫌いだ。
庇っている様に見せかけて、結局母を貶す祖父が嫌いだ。
無関心を決め込み、帰宅しない父は大嫌いだ。
僕は母に似ていて嬉しい。弱いけれど、優しい母が大好きだ。
母は食事を口にしてももどす様になった。祖父母と同席していても粗相をしてしまい、それ以来食事の席を同じにする事は無かった。
夜も眠れなくなり、僕の布団に入り込み啜り泣くのをよく目にした。
僕はその度母を慰めた。
『音耀ごめんなさい、私がお母さんだからいけないの。駄目なお母さんでごめんなさい。』
震える母の身体に抱き付き、袖口で涙を拭いながら、母の頭や背中を撫でた。
『大丈夫、大丈夫だよ。お母さん、お母さんは良いお母さんだよ。お母さんの子供で幸せだよ。お母さんの好きな事や楽しい事を考えよう。きっと幸せな気持ちになれるよ。』
お母さんが寝付くまで、僕はお母さんの話を聞き慰め続けた。
お母さんと僕はこの広い家に二人ぼっちだ。
僕は母の為に来る日も来る日も頑張った。先生に薦められるものは何でも飛び付いた。どんなに苦しくても眠る時間を削ってでも。
賞や級を貰うと直ぐに母に報告した。
その頃の母は血圧や胃腸の不調で床に伏せる日が多くなっていた。
『よく頑張ったね。でも無理しちゃ駄目よ、心配だから。』
手足は枯れ枝の様に細くなり、髪も艶を無くし、目は大きく窪んでいた。
母が母を失い始めたのはこの頃からだ。
次第に不穏な言動を目にする様になった。
『死ね、死ねと男の人が言うの。そうかと思えば女の人が殺せ、殺せと言うのよ!』
母は身嗜みも整えず、髪を振り乱し周囲を警戒する様に目を配る。
『お母さん、僕には何も聞こえないよ。誰も側には居ないよ。何か見えるの?』
僕は小声で母になるべく優しい声で語り掛けた。
母は大きく頭を振る。
『何も、何も見えないわ。でも、ずっと、ずっと誰かが言うのよ!』
取り乱す母を見ながら、僕は涙を流すことしか出来なかった。
ある晩母は靴も履かずに寝巻きのまま外に出て行った。
僕は母の腕に縋り付いた。そして小声で囁く。
誰かに見つかれば、母の異変に気付かれてしまう。
『お母さん、何処に行くの?
家に帰ろう。靴を履かないと怪我しちゃうよ?』
母は歩みを止める事なく道を進む。
『呼んでいるの、聞こえるでしょう?』
そう言い僕を振り返る事無く、闇の前方を見つめている。
『お母さん、僕には聞こえないよ。夜だよ、危ないよ、帰ろう。』
必死になって母の腕を取る。一瞬母は僕を見る。その顔は見た事がない程険しかった。睨みつけ、勢いよく手を振り解く。僕はその場に尻餅をついた。
『私行かなくちゃ、呼んでるの。』
僕は急いで母に駆け寄り、縋り付いては突き放され、いつの間にか知らない場所を歩いていた。
車の往来が多い大通りで、橋が掛かっている場所だった。
『お母さん、危ないよ、戻ろう!』
僕は必死に母の服を掴む。何度も僕を一瞥しては振り解いて歩き出す。僕は諦めず、今度は力一杯母の腕を取り後ろに引っ張る。母は問い掛けに答える事も無く、僕を引き摺りながら歩いて行く。
道路の中程に来ると、母は橋の端に進み出す。
『お母さん、何処に行くの、そっちは危ないよ、落ちちゃうよ!』
母は何も答えず、歩いて行く。
僕は堪らず叫んだ。
『誰か、誰か助けて、お母さんが、お母さんが!』
車が走る音に掻き消されていた僕の声は周りに届いていた。
『大丈夫か!』
僕の後ろから駆けてくる足音が聞こえた。
何人かの男の人が母を取り囲み説得し、橋の端に行かない様引き止めてくれていた。
母は必死に抵抗し、神だとか、直接声が届いたとか、呼んでいると繰り返していた。
その暫く後、パトカーが到着し僕達の側に停まった。警官が降り立ち僕と母を保護した。
僕は母の実家の連絡先を告げた。
母を追いつめるあの家から逃してあげたかった。例え僕があの家に一人ぼっちになったとしても構わない。
母が笑顔を取り戻してくれるなら。
母が好きな事、楽しいと思う事を思い出せるなら。
母が母に優しい人達に囲まれて過ごせるなら。
大事な大事な藍田家は大事な大事な父に似ていない僕が継ぐ。
それ以来、母が藍田家の敷居を跨いだ事は無い。
母を引き取りに来た中条の祖父母は母の姿を見て言葉を失っていた。祖母は母の側に寄るとその場で崩れ落ちた、祖父も声を殺して泣いていた。二人で母に寄り添い抱きしめた。
『もう大丈夫だ。もう大丈夫だ。』と祖父は繰り返した。
車中では祖母が祖父と話していた。
母はその間祖母に寄り掛かって窓の外を見ている。
祖父は車のハンドルを握りながら呟いた。
『透子一人養う位やっていける。従業員にはいざと言う時の事を伝えておこう。』
祖母は母の手を摩り見つめていた。
『ええ、透子は十分頑張ったわ。大丈夫よ。志津も要も田丸さんが面倒を見てくれるから、家が駄目になっても何も心配は要らないわ。あの方は信頼の置ける方だもの。あんなに酷い仕打ちをしたのに、家の事情を慮って変わらず付き合ってくれていたのよ。透子の事もあれからずっとずっと気に掛けて下さっていたのよ。』
母はその言葉に目を伏せ、静かに涙を流した。
僕は他の子が言っていた事を思い出した。あれは遠からず真実だった。僕の知らない所で行われていた。
父は同じ家格の家から嫁を貰えない何かをしでかした。それでも家として体裁を取り繕う為に付き合いがあった中条に弱みをちらつかせ母との婚姻を進めた。
僕は僕の中に流れる藍田の血を嫌悪した。
その晩の内に藍田家から迎えが来た。もう遅いので中条の祖父母は藍田家に連絡を入れ、一晩僕を預かろうとしたのだが受け入れられなかった。
内を取り仕切る本間が訪れ、そこには祖父母も父も姿はない。
その後どんな話が交わされたかは知らない。僕は母に会う事をこの日以降禁じられた。長期休みだろうと、盆や彼岸だろうと、その話を持ち出すと祖父母は激昂し、母への不平不満をぶち撒け話を打ち切った。
何度か繰り返し要求を挙げたが受け入れられる事は無かった。母への批判で終始したので、話題に挙げる事も無くなった。
母の部屋も早急に片付けられ、何もかも処分された。
初等科に上がる時も母も中条の祖父母も姿を見せず。僕の側には藍田の祖父母と父だけだった。父は式前に姿を表したかと思えば、式が終わると仕事に戻って行った。
式では相変わらず澄生は空気を読まずに陽気に話しかけて来た。澄生の家は両親が揃っており、澄生同様朗らかで明け透けな物言いの人だった。顔付つきや身体つきから澄生は父親似だと感じた。母親は綺麗な人だが、夫同様声が大きく快活で大口を開けて笑うタイプだ。
祖父母に何を言われるか気が気で無かったが、祖父母自ら田丸家に丁寧に挨拶しに行った事に驚いた。澄生と友人である事実に喜んでいる様な口振りだった。
車中で祖父母は口々に言った。あそこの家は旧家で戦後衰退していたけれど、最近急激に力をつけている事、澄生の母にいたっても名家出身である事。そんな家と繋がりを持てて良かったと。
そして僕の母は澄生の父母とは幼馴染で仲が良かったと伝えられた。
祖母は意地悪な笑みを浮かべ言い放った。
『不思議なものね、同じ様に惹かれ合うものなのね』