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俺にとっての希望はあいつだけだった。

あいつとあいつの周りだけが俺に優しかった。


俺が俺という人格を意識し、周りを認識出来る様になったのは3歳か4歳だった。残る記憶は断片的だ。


物心ついた時には俺の周りが異様なのに気付いた。


テレビで流れるドラマやアニメとはかけ離れていた。俺くらいの年の子は保育園や幼稚園に行き、母親や父親に守られ暮らしている。温かな食事を与えられ、優しい言葉をかけられ公園や近所で駆け回っている。


俺は食卓の上に置かれたクリームパンを齧りながらテレビのそれを見つめていた。


あの中は何て幸せそうなんだろう。俺の世界は怒りが渦巻いている。


俺は幼稚園に通った事はあるが冬を迎える頃には行けなくなった。幼稚園でも浮いていた。


何しろ誰かと遊ぶという事は無く、家に無い絵本や玩具に夢中なり遊んでいた。朝の会が始まろうと、皆で歌を歌い始めようと、先生に呼び掛けられようと。


幼稚園が終わる頃、皆は通園バスに乗って帰るか、母親の迎えがあった。一人で帰宅していたのは俺だけだった。朝も勿論そうだ。よく吠える犬がいる家を通る時は、恐怖から死に物狂いで走り抜けた。


古びた木造のアパートを何度か移り住んだ記憶がある。多分その転居のドタバタで幼稚園を辞めたのだろう。アパートでは猫型ロボットのアニメを見ながら小さいカップ麺の乾いた麺を砕いて口に運んだのを覚えている。


子供用でナルトがキャラクターを象っていて、それを食べるのが好きだった。誰にも邪魔されず、自分のペースで好きな様に食べられる。猫型ロボットの世界も優しさで溢れていて大好きだ。終わるのが名残惜しくてしょうがなかった。


食卓で食事を摂った記憶もあるが楽しい物では無い。義父がいる時は食事も豪華で品数がありはしたが。大人好みの味付けで、肉や魚もよく噛まないと擦り潰せず食べ辛かった。義父に食事のペースが遅い事を詰られたり、食感や味が苦手で食べられない物で手が止まっていると、張り手や拳骨が飛んで来た。それを回避しようと食べ物を無理矢理口に押し込むが上手く飲み込めることもあれば、飲み込めず吐き出して怒りを買い殴られることもあった。他にも口に入れても飲み込めない食べ物を気付かれない様トイレに行き、ちり紙に包んで捨てて難を逃れたこともあった。


母と二人の時の昼食や夕食は比較的平和だった。一人で食べているが、時折早く食べなさいと急かされる程度で酷く叱られる事は無い。食べ易い目玉焼き、肉じゃが、カレーライス、野菜炒めといった食べ物だった。


義父のいない日の方が気楽だった。


団地に居を移してからは部屋が少し広くなった。


俺が起きるのは朝方や真夜中に母と義父が言い争っているか、甲高い母の嬌声で目が覚めた。それかまだ薄暗い中義父が出勤で扉を閉めた音だ。


母と義父が言い争っている時は酷く緊張した。ベッドの下に潜り込み、身を縮めて丸くなって震えていた。髪の毛を掴まれ引き摺り出されたらと怯えながら。


朝目覚めた時の行動は決まっている。真っ暗な中手探りで移動し、カーテンの隙間から溢れる月明かりを頼りに壁伝いに炬燵へ向かう。探り探り足を一歩前に出した。炬燵に辿り着き中に潜り込んだらスイッチをつける。淡いオレンジの光に包まれ、身体が暖まっていくのを感じるのが細やかな幸せだった。炬燵や布団は大好きだ。何も言わず受け入れてくれる。大きく暖かく包み込んでくれる布団に頬を擦り寄せ甘えた。無機質な物なのに。


真っ暗な部屋で頭だけ出し、音量を極小にしてテレビをつける。


テレビから流れる人の映像を眺めていると、感じていた寂しさや恐怖心が紛れるような気がした。


外に出る事が無い俺の日中の楽しみといえば、母が観る再放送のドラマを見たり、ひたすら人物の絵を描いたり、自分の部屋や居間から外を眺め、動く人や景色を眺めることだった。特に遠くで作業する工事車両の様子や午後に歓声を上げながら遊ぶ子供達を眺めるのが好きだった。


母は比較的汚したり、手間を掛けるような事が無ければ怒る事は無い。服やテーブル、トイレ等を汚すと平手を食らったり、罵られる事はあったが、義父に比べたそれは優しいものだ。


シャワーを浴びる時間はよく怒られた気がする。頭を洗う時に目を瞑る様言われていたが、泡がよく目に入り言う通り大人しく出来ず、シャワーへッドで頭を殴られることが度々あった。


母はそれに付き合うのが大変になったのか、小学校に上がる頃には一人でシャワーを浴びていた。


義父に対しては罵声や暴力以外にも避けたい理由があった。


あれは母が食事の支度をしていた時だ。義父と二人、義父と母のダブルベッドがある部屋にいた。突然意識が覚醒した俺は両手で義父のソレを握っていた。


『嫌だ、嫌だ、やりたくない!』


両目に涙が滲んで許しを乞う声を上げていた。


『煩い、騒ぐな。いいから上下に手を動かせ。』


『嫌だ、嫌だ、もう嫌だ!!』


俺は泣きながら部屋を飛び出した。


その後の記憶は無い。連れ戻されたのだろうか。逃げ切れたのだろうか。



神様には良く祈っていた様に思う。


(父さんが早く帰って来ません様に。)


(父さんが怒り出しません様に。)


(父さんに肩揉みや背中揉みや耳掻きで呼ばれません様に)


何か作業をしていて手が離せない状況で人に触られるのは好きじゃない。


好きな人でも耳掻きやマッサージはしたくない。


男である自分を嫌悪する時がある。


俺が俺じゃなければ良い方に変わっていたのだろうか。それとも、もっと酷い目にあっていたのだろうか。


俺は母さんに似ていなかった。


小学校に上がり俺の世界は開けたけれど、余り良い物では無かった。


変化が恐ろしく感じる性質の様で、叶うなら家の中に居たかった。


家で母や義父と会話らしい会話をした事がなかったかので、上手く人と接する事が出来なかった。クラスの子は最初は俺に話しかけてきたが、少しすると側に寄らなくなった。俺は話のつまらない変なやつだったんだろう。


沢山の子供が一室に集められていたが心を通わせられるやつは居らず、やりたくない事をやらされる場所だった。


だが悪い事もあれば良い事もある。


休み時間や放課後の校庭、学校帰りの公園には教室より多くの子供が溢れていた。遊ぶのに人数が必要だからか、よく知りもしない俺を入れてくれた。野球もサッカーもよく知らなかったが、いつも眺めるだけだった俺が必要とされ幸せだった。


夕方になって一人二人と居なくなっていくが、いつも同じ顔のやつが残る。


その中に希乃華がいた。


親に愛されている事が充分に分かる格好だった。


髪はいつも結われていて髪飾りをつけている。日によってポニーテールだったり、編み込みだったり、三つ編みだったりと違っていた。


ポシェットをいつもお気に入りで着けていた。それも幾つか持っているのか日によって違った。


手を洗う時はそこからハンカチを取り出したり、足や腕を擦り剥けばポケットティッシュや絆創膏が出て来た。


靴も何着か持っていて服の色合いに合わせていた。可愛らしいと感じる凝ったデザインのものもあった。


側に寄ると良い匂いがして驚いた。


話し方は優しく、性格も内気で大人しいので俺が優位に立てた。人が集まって来るまではよくおままごとをして過ごした。可笑しいが希乃華が妻で俺が夫だ。


希乃華に託つけて、何度も何度も繰り返す遊びを楽しんだ。『おかえり。』『ただいま。』『お風呂先に入って来て。』『今日は仕事で疲れたよ。先に飯が食いたいな。』テレビで見た場面を模倣するのに夢中になった。


二人で居ると嫌な事は一つも無くて、ずっとこの時間が続けば良いと感じた。


俺達はいつの間にか仲良くなって、毎日一緒に遊ぶのが当たり前になった。


希乃華の家にも遊びに行く様になった。


希乃華に会いたくて、風が強く吹く雨の日に公園にいた。土管のトンネルの中に蹲って。


(来る訳なんか無いじゃんか、でも…でも…会いたい。)


膝を抱えて泣き出したくなるのを堪えた。


『節君、一緒に遊ぼう。希乃華ん家来る?』


呼び掛けられて横を見ると、水色の傘に同系色のレインコートと長靴を履いて土管を覗き込む希乃華がいた。


その顔は心配そうに眉を寄せていて、泣き出しそうな顔だった。


俺は思わず涙ぐみ、目を擦りながら頷いた。


『うん、遊ぶ。』


希乃華の家は公園から近い平家の一軒家だった。中に入ると優しそうなおばあさんが出迎えてくれた。


中に進むとおじいさんが長椅子に腰掛けて時代劇を見ていた。


居間から続き間に和室があり、テレビがもう一台あった。俺と希乃華は雨の日は二人でそこで遊んだ。


おままごとをしたり、塗り絵をしたり、お絵描きをしたり、折り紙をしたり…女の子の遊びばかりだったけれど全然苦じゃなかった。


寧ろこんな俺を受け入れてくれる希乃華にも、希乃華の家族にも感謝しかない。


今思うと俺は薄汚れた子供だった。


いつの頃からか母は俺に無関心になり、同じ服を何日も来て過ごしていた気がする。寝床に入るのも同じ服。風呂には週1回入っていたんだろうか…。歯磨きや洗面も高学年になって意識する様になるまでいつしていたか怪しい。


髪も伸び放題。冬場になっても、雨の日でも薄っぺらいデッキシューズを履いていた。


俺には希乃華しか居なくて、希乃華のクラスまで迎えに行ってしまうことが増えていた。希乃華はそんな俺を疎ましく思う事も無く暖かく出迎えてくれた。


委員会で帰りが少し遅くなった雨の日、希乃華が図書室にいなかったので教室に足を運んだ。


教室まで後僅かというところで、廊下まで声が聞こえてきた。


『佐々木さんって、小柳節の事好きなの?』


『小柳節も佐々木さんの事好きだったりして。』


何人かの嘲笑が聞こえた。俺と仲良くしていることで希乃華が揶揄われていた。胸が締め付けられる様に痛んで足がそれ以上前に動かなかった。


『うん、友達だから。』


優しい声で希乃華は答えていた。


『小柳節ん家って貧乏なんだよ、汚いとこに住んでんの。いつも同じ服着てるしさ、何か匂うし。』


『いつも小柳ん家から怒鳴り声とか聞こえるんだって。小柳節がお父さんに殴られてるのを見た人も居るって言ってたよ。お母さんも朝帰りしてて、飲み歩いてるんだって。掃除当番とかもサボるし、変な家だから近寄っちゃ駄目なんだって。』


『一緒に居るとバイ菌が感染るよ。』


再び嘲笑が聞こえる。


それに対し希乃華は懸命に声を挙げ答えていた。 


『でも、節君は良い人だよ。優しいんだよ。』


俺はそれ以上聞いていられず、その場から逃げ出した。


俺と希乃華は住む世界が違うんだ。俺のせいじゃないのに。俺のせいじゃないのに。


誰も居ない廊下の片隅で俺は声を殺して泣き出した。


学校も居場所は無いけれど、家にも居場所なんて無い。希乃華といる時は幸せだけど、希乃華を馬鹿にされたく無い。巻き込みたくなんて無い。


暫く泣き続けていた。あの時は名前も知らなかったけれど、ショパンの『別れの曲』が校内に響き出す。完全下校を知らせる放送が始まった。


俺は希乃華を置いて逃げ出した事を思い出し図書室に走った。図書室には閉館の札が掛かっていた。


息を切らしながら希乃華のクラスに走る。薄暗い教室の席に座って本を読む希乃華がいた。


足音に気付いて俺の方を振り返る。


『遅いよ、節君。待ちくたびれちゃったよ。』


膨れ面を作って、こちらを睨む様子に安心して俺は声を上げて泣いた。


泣き止まない俺の背中を撫でながら、希乃華は優しく囁いた。


『明日は雨だから家に来て一緒に遊ぼうね。』

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