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藍田 希乃華

青い澄み渡る空の西側には夕暮れが迫る。湿度は高いが日中とは打って変わり暑さが和らぎ心地良い。窓から入る風の空気感に心が弾む。様々な金管楽器の旋律を聞くともなしに窓辺に佇んだ。


『ずっとこうしていたいな。』


思わず呟いた。窓際にもたれかかり校庭を見下ろす。所狭しと駆け回る学生達が目に入る。少し間があり背後から低く穏やかな声がする。


『そうだね。』


振り返ると目線を合わせず、トロンボーンにスワブを通す彼がいる。


彼のいる場所が良い、こんな風に過ごしたい。ずっと、ずっと。



☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


桜が咲き誇る青空の下、穏やかな日差しを受け、藍田希乃華(ののか)は入学式の看板が立つ言の葉学園の門を潜る。


あちらもこちらも、希望に溢れた眼差しで人々が歩いている。学園は歴史ある佇まいで、文化財指定となる程の校舎や園庭だ。まるで映画の世界の様だ。


目の前の光景に居場所の無さを感じる。


行き交う生徒の所作や言葉は丁寧で美しい。希乃華の目にはそれが異様に映り、恐縮し身を竦めていた。


この場所で上手くやっていけるのだろうか。


根っから毛並みが違うのだ。傍から見れば丸わかりだろう。溜め息が漏れる。


本来なら、自宅の最寄駅から一つ目の駅にある県立校に通学予定だった。オープンキャンパスでは友人とクラブ活動の様子や食堂、購買を見学し、アレこれと夢を広げていた。合格通知も貰い今か今かと通学を心待ちにしていた。だがもう叶わない。


(何でこんなに毎日窮屈なんだろう。)


隣に並ぶ兄の声で決まってしまった。公立で良かったのに、私立校に入る事になってしまった。


藍田家が代々通う学校だそうだ。


両親が多忙なこと、昨今の世情から兄が側にいる環境が最適という話になった。反論を試みたが真綿で絞めつけられるよう心が折れるまで説得されてしまった。


母の事もあり強くは言えなかった。連れ子である負い目も勿論ある。柔和ではあるが頑として主張を崩さない義兄の様子にも困惑した。その様子を心配そうに見守る父母の様子を見て首を縦に振らざる得なかった。


思い返せば返す程心中穏やかでいられない。数少ない友人と祖父母、母だけが自分の大切な世界だった。母の為を思い再婚を歓迎したが、自分まで巻き込まれる事になってしまった。


希望していた公立校は郊外だが通りは広く、駅近の環境で文教地区だ。目指す文化部活動は18時で終わり帰宅も早いのにどうして許されなかったのだろう。


恨めしい気持ちになる。


前を向いていた新しく家族になった義兄の音耀(とあ)が気配を感じ、こちらを振り返る。目が合い大きな瞳が弧を描き細まり、柔らかく微笑んでくる。軽いウェーブが掛かった栗毛は朝日を浴び輝いていた。桜を背にすると雑誌のスナップの様だ。


『希乃華ちゃん、大丈夫だよ、クラスは同じになるか分からないけど…、同じ学年だから教室も近いし。訪ねて来て良いから。僕から行っても良いし。』


透き通った潤んだ瞳で見つめてくる。優しげな垂れ目は善人に見える。人に好かれる要素しかない。


対して自分はやや細目の吊り目で黒髪ボブに細縁の茶色の眼鏡を掛けていた。


通りすがる人が二度三度と兄を見ているのを感じる。側にいて対比で目立つ。返しづらい発言に肯定も否定もせず、この場に合う無難な返答を返す。


『中に入るのは初めてなので緊張してます。道も覚えましたし、人の流れに乗れば後は問題無くクラスや式の会場まで行けると思います。音耀さんはお友達の所に行ってもらって大丈夫ですよ。』


と返してみる。


『何言ってるの、新しい環境で不安でしょ、一緒にいるから安心して。』


人の良さそうな垂れ目がちの目を見開き眉を八の字にして、顔を覗き込んでくる。


過干渉なあなたといると息が詰まるんです。好きな様に過ごせず迷惑なんです。と口を突いて出そうになるのを抑え、曖昧に微笑み兄から目を離し昇降口に向かった。


ーーーーーーーーーーーーーーーー


昇降口に近づくと人だかりが出来ている。壁の前にクラス発表の紙が貼り出されていた。


普通に考えれば、兄妹で同じクラスになる事は絶対に無いのに胸騒ぎが止まらない。小中学校で二卵性の双子がいたが、9年間一度も同じクラスにならなかった。


立ち止まり1組から順番に目で追っていく。藍田という名字に感謝だ、直ぐに名前があるか無いか分かる。3組まで目で追っていると右肩を優しく揺すられた。


視線を向けると兄が満面の笑みで見つめてくる。貼り紙の方を指差し


『希乃華ちゃん、僕達同じクラスだよ、7組だって。離れ離れになると思ってたのに神様って本当にいるんだね。』


その言葉に身体が熱を失っていく、音耀を愛する神様はいても、自分を憐れに思う神様などこの世には居ないのだと。


打ちのめされた心は音耀と出会ってからの日々を追っていく。我慢に我慢を重ねた日々。友達に会うにも、外出するにも、家で過ごすにも音耀が目を配れる場所にいるのだ。薄々出会った当初から分かってはいたが、音耀の良い様にしか動けない現実を突きつけられた気がした。ささやかな希望も音耀の思いから外れれば叶えられることは無い。


何とか気持ちを奮い立たせようと自分を励ます。抜け道はあるに違いない。落ち込んでいては音耀に余計構われるだけだ。


当たり前だった日常を取り戻したいだけなのに。僅かな時間でも音耀の管理から抜け出し自由を得たいだけだ。憂鬱な思いを振り切ろうとする程、身体の力が抜けていく。足元から崩れ落ちそうだ。やっとの思いで立っているが、ここでは倒れたくない。倒れれば音耀と二人保健室だ。


音耀といて心穏やかには過ごせない。静かに身体を休めたい。


昇降口へと歩き出す。気付かれない様壁や靴箱に手をつたわせて身体を支え自分のクラスの靴箱まで辿り着く。


『音耀さん、私何だか朝から調子が悪くて…。実は緊張して余り眠れなかったんです…。すいませんが保健室に寄りたいので先に教室に行ってて下さい。先生に伝えて貰えると助かります。』


寄り掛かる靴箱に影が差す。音耀に背後に立たれているのだろう。後ろから声が掛かる。


『大丈夫?気持ち悪い?気付けなくてごめんね。』


大きな手で背中を優しく撫でられる。


『吐き気や気持ち悪さは無いです。貧血みたいな感じなので。』


撫でる手は止まらない。


『保健室まで付き合わせてよ。道も分からないでしょ?』


労るように背中を繰り返し摩られている。通り過ぎる人々が視界に映るが、遠巻きに何事かと見ていく。


身体を起こし、負けるものかと気持ちを強く持つ。


『駄目です、式に遅れてしまいます。私の事は良いですから先に教室に行ってて下さい。先生も近くにいると思いますから。』


『でも、やっぱり……。』


『大丈夫ですか?』


前方から低めの男の声が響く。

見上げるとやや癖のある黒髪に黒縁の眼鏡を掛けた長身の少年が立っていた。


『先程から見ていたのですが、随分辛そうですね…。今日は入学式の生徒の案内で登校していたのですが、今期の保健委員を務めているので、良ければ保健室までご案内しますよ?』


助け舟に直ぐ返事する。


『有難うございます。兄が私の為にクラスでのオリエンテーションや入学式に遅れそうだと心配だったので助かります。』


前から進み出る先輩に希乃華も歩み寄った。


日々に疲れ心が弱くなっているのか、自分を包み込めそうな程大きなその姿に縋りつきたい衝動に駆られた。


ありのままを受け入れて欲しい。今すぐ胸の内を吐き出したい。


先輩まで後2、3歩というところで突然身体の自由が奪われ前に進めなくなる。両肩を後ろから掴まれ、背後に触れる感触がある。


『申し出は有難いのですが身内の不調です。保健室まで僕が付き添います。』


兄の凛とした声が響く。


他人が入り込めない言い方に全身が強張る。この様子では頑なになり保健室へ同行されてしまうだろう。帰宅した後も難癖をつけられそうだ。その後に待っている日々の課題が後になる方が辛い。ご機嫌を損ねない様、音耀の気が済むよう振舞うしかない。


身体を休めるなら保健室より人の目の多い教室の方がずっと良いだろう。席順が50音であれば兄の隣席だからこんな風に触れ合うような距離になる事も、向かい合わせに座らせられる事もない。


希乃華は先輩に向けて一礼する。


『先輩ご心配頂き有難うございます。私は大丈夫です。保健室に行こうかと思いましたが、少しすれば良くなりそうなのでこのまま教室まで行き、様子を見たいと思います。』


先輩は訝しげな顔で希乃華と音耀を見遣った。たまたま側にいただけで面倒事に巻き込んでしまい申し訳なくなる。


『分かりました。無理だと思う時は言って下さい。何かあったら心配なのでクラスまで案内します。何組ですか?』


先程が労る様な目でこちらを見てくる。見ず知らずの自分に親切にしてくれる先輩の言動が有り難い。好意に応えたくて直ぐに返事をする。


『7組です。』


周りが自分達を避ける様に通って行く。突き刺さる奇異の視線が痛い。


こんな事にならない様にしていたのに。今まで通り振る舞えなかった自分が悔しい。


音耀は肩を掴んだまま寄り添っている。その感触が気になり声を掛けた。


『音耀さん、肩が苦しいです。歩き辛いですし…。教室に向かいましょう。』


何とか微笑めていただろうか。


廊下の壁に手を添わせながら前に進む。

先輩の話では7組は昇降口から直ぐ左に折れ階段を昇った4階にあるそうだ。


先輩と音耀を後ろに階段を昇る。具合が悪くなって後ろに倒れ込んだ際直ぐに支えられる様にとの配慮で先頭を進んだ。私の歩むペースに合わせてくれている。


貧血様の症状から言葉を返すのは「はい」、「いいえ」程度しか出来なかった。階段を昇りきるまでの間、先輩に二人の関係や音耀について質問されていた。


その会話から音耀は幼い頃から優秀で、絵画や書道、自由研究等でよく表彰されていたこと。学年が上がってからは校内の試験や模試で成績優秀者として名前が貼り出されていたこと。音楽にも秀で音楽コンクールで入賞し全校生徒の前で演奏を披露する機会も度々あったこと。容姿の華美さも相俟って学年が違えど知らぬ人はいないかったことが分かった。今日も生徒代表の挨拶をすると聞いていたそうだ。


他にも藍田家は毎年学園に多額の寄付をしており、会報誌に名を連ねているそうだ。


そんな有名な藍田の本家の当主が再婚し、音耀に妹が出来た事実に酷く驚いていた。


『同学年で妹というのも不思議でしょう?』


『それがそうでも無いんです。一緒に暮らし始めて日は浅いのですが、僕は希乃華ちゃんといると自然でしっくりくるんです。心が落ち着きます。』


『そうですか、随分と仲が良くて羨ましい。』


兄と先輩の笑い合うそんな言葉で会話は終わった。


兄が一緒にいて落ち着くと答えたのが不思議だった。藍田家を名乗らせるには出来が悪く、何を教えるにも手が掛かると思われている筈なのに。その為に恥を晒さぬ様、常に監視し指導しているのだから。


先輩にお礼を言い教室の扉を潜った。


中に入ると半数程が席に着いており、そこかしこで会話をしている。席には名前が貼ってあり、希乃華の席は一番右の廊下側で音耀はその左隣だ。


漸く席に着いた。


『おはよう音耀。俺の誘いを断ったかと思えば女子と登校かよ。』


久々に耳にした気安い言葉掛けがあった方を見ると、兄よりも上背がある短髪の少年が立っていた。


『おはよう、酷い言い方だな…。希乃華ちゃんは俺の妹だよ。コイツは田丸 澄生(すい)、僕の友達。』


『藍田希乃華です、宜しくお願いします。』


何とか頭を下げる。


『いや、敬語になってるし…。いやいや…同じ年だから。普通に喋って。』


気不味そうに苦笑いし後頭部に手をやる姿は表情豊かで人が良さそうだ。


『分かりました。今朝から貧血気味で…。先生が来るまで机に伏せって休んでいますね。』


机に突っ伏し楽な姿勢を取る。


田丸の様子に胸がキュッとする。友達や母、祖父母と暮らしていた日々を思い出す。


当たり前だったあの日が遠い。


こんな事になるとは思わなかった。ただだだ、ずっと苦労してきた母に幸せになって欲しかった。それだけだ。


あの日も桜が咲いていた。着慣れないワンピースを着て、髪飾りをつけ出掛けるのが恥ずかしかったのを覚えている。

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