さくら
冬の寒さも和らぎ、桜の花が咲き乱れる季節。それは出会いの季節であり、また別れの季節でもある。ここにもまた別れを控えた一組の男女がいた。
男はそこそこ背が高く、髪も短く切りそろえられている。まだ新しく着慣れていないであろう背広を拵え、手には大型トランクを持っていた。対して女の方はというと、男の肩のあたりに目線が来る程度の身長で、黒い艶のある髪を腰のあたりまで伸ばしていた。紅色の着物と紫の袴を身に纏い、草履ではなく靴を履いている。
男は教師になるため都会の師範学校へと進学するのだ。故に上京し、向こうで生活する事となる。卒業してもこっちに戻ってくるかは定かではない。女はそんな男を見送りに来たのである。卒業を翌年に控え、進路のことも考えなければならない。特に女性が就職できる確率は低いのだ。連絡など取っている余裕はなく、これが今生の別れといっても過言ではない。ちなみに同級生達は進学や就職の準備で忙しいため、見送りは前日にすましいている。
二人は駅までの道のりを肩を並べて歩くが、どこかぎこちない。そのぎこちなさは、互いに気持ちを寄せているにもかかわらず、あと一歩踏み出す事が出来ない不甲斐なさから来るものである。
男が乗る列車の発車時刻までかなり時間が余っており、少しでも長く一緒にいたいという想いが二人の足取りを重くさせた。しばらくすると、二人は桜並木の下に出た。この道は明らかに遠回りなのだが、どちらからともなく自然と足が向いたのだ。
時折、春特有の強い風が桜の花を吹き上げる。男は桜吹雪の中を髪をかき分けながら歩く女に見惚れ、頬を赤く染めた。思わず内に秘めた想いを口走りそうになる。それほどまでに美しかったのだ。だが男は想いを伝えることが出来なかった。いや、やろうと思えば出来たのだろう。だがそれをしなかった。女を、そして自らを傷つけることを恐れたからだ。
気持ちを伝えないことは決して悪いことではない、だからといって良いことであるはずもない。今伝えなかったことをこれから先、ずっと後悔し続けるだろう。男もそれは分かっている。だから自分を正当化しようと、心の中で言い訳を続けるのだ。
二人が駅に着いたのは、列車が駅のホームへ入ってくる直前だった。それもそうだろう、なにせゆっくりと歩いていた上に遠回りまでしたのだから、間に合ったことが奇跡というものであろう。
男は女と最後の言葉を交わし車両へと乗り込んだ。いざその時になると、お互い何を言えばいいのかわからず、別れの挨拶は簡単で味気ないものとなってしまった。
二人は別れを惜しむように見つめあう。女の目には次第に涙が浮かび、頬を伝って流れてゆく。男は狼狽えることしかできず、女はそんな男に想いの丈を伝え、崩れ落ちた。それと同時に扉が閉まり、駆け寄ろうとした男を阻む。
うずくまる女を、男はただ窓越しに見つめるしかなかった。そして窓から女が、駅が、町が見えなくなったころ、男もまた、列車の中で泣き崩れるのだった。
そんなことがあった日から今日で丁度六年目、町は例年よりも少しだけ賑わいを見せていた。といっても一部の人間が騒いでいるだけなのだが。彼らが騒いでいる理由はある手紙が届いたからだ。その手紙は六年前、この町から旅立った男からである。内容は今日この日に帰ってくるというものだ。男が帰ってくるのは夢を諦めたからではない。むしろその逆で、夢を叶えたからこそ戻ってくるのである。
そんな男の歓迎会を開くために皆ここに集まったのだ。同級生や少なからず縁のある者達は大抵集まっており、男が町に着いたら直接この店に来る手はずとなっている。だがここに女の姿はなかった。
歓迎会の準備が出来た頃、男の乗る列車も駅に着いていた。列車から降りてきた男の姿は、髪が少し伸び、あの背広もしっかりと着こなせていた。
駅を出ると、前に一人の女性が立っていた。艶のある髪は長く、白いワンピースを身に纏っていた。
男はその女性の所へと向かう。駆けだしそうになる気持ちを抑え、気持ちを整えながら歩いていく。最初は再会の挨拶から入るはずだった。だがこの短い距離では気持ちを落ち着かせることが出来ず、気づけば違う言葉を男は口にしていた。それはあの時言えなかった、言わなかったあの言葉だ。
女の答えは、優しい抱擁だった。女もまた男を思い続けていたのだ。そんな二人の再開を祝福する様に桜の花が舞う。
桜の花が咲き乱れる季節。それは別れの季節であり、そして出会いの季節でもあるのだ。