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僕、命、世界

作者: 野分 京

 僕には「命の価値」というものが分からなかった。「命の重さ」というものが分からなかった。

 例えばある日、学校で担任の先生が道徳の授業をした。女の先生で美人で優しくみんなから人気のある先生だった。彼女はウミガメの産卵について映像を交えて話してくれた。

 ウミガメは一度に100個程度の卵を産みますが、魚や鳥に襲われて大人になることができるのはわずか数匹と言われています。母親ウミガメはそのことが分かっているので、これから自分の子供たちに訪れる試練を嘆き涙を流すのです。

 僕はその話を聞いたときに思わず泣いてしまった。ああ、命というものはなんと尊いものだろうか、美しいものなのだろうか、と。休み時間になっても涙を流す僕を見て不気味がる子もいたけれど、先生は優しい子ねと言って慰めてくれた。

 先生に慰めてもらい徐々に涙も収まってきたころ、急に教室が騒がしくなった。どうやら廊下からゴキブリが入ってきたようで、まるで爆弾でも見つけたかのようにみんなが一斉に身を引いていた。

 僕はその様子を見てなぜみんな逃げるのだろうかと不思議に思ったが、先程までの授業のせいか教室に迷いこんだゴキブリについての思いや考えが頭の中に浮かんでいた。きっと彼にも産んでくれた親がいて、その親にもまた産んでくれた親がいるのだろう、と。命というものは確かにここにあって、川を流れる水のようにいくつも枝分かれしながらもいまここに流れている。僕も彼もその流れのひとつなのだと思うと、その偉大さに震え上がる気持ちだった。

 僕が感傷に浸っていると頭蓋骨を揺さぶるような怒号で現実に引き戻された。声の主はさっきまで僕を慰めていた先生で、どこかに指をさしながら叫んでいた。彼女の指の先にはゴキブリがいてその脇には丸めた新聞紙を力いっぱいに振りかぶった生徒がいた。

 ゴキブリを殺す気なのだとすぐに分かった。止めに入ろうと駆けだしたが間に合わず、僕が彼のそばに着いた頃には彼は床と新聞紙の間で押し花のように潰れてしまっていた。

 僕にはゴキブリが殺されてしまった理由が全く分からなかった。彼がなにか悪いことをしたのだろうか。彼はただ迷い込んだだけだ。僕にはそれだけのことで彼を殺してしまう理由が分からなかった。

 生きていた頃の面影はもはや無く、命を叩き潰され床の染みとなったゴキブリを見て僕はまた泣き出してしまった。尊いはずの命がこんなにも無残に跡形もなくなってしまうのは、言いようもなく悲しかった。それを行ったのが同じ命をもつ人間だというのがなおさら悲しかった。

 そんな僕を見て先生がそっと肩に手を置いてくれた。先生は動物が好きだとよく言っていた。だからウミガメについて授業で話してくれたし、今思えば授業で話しながら彼女はすこし泣きそうになっていた。

 こんなことが起きて先生もきっと悲しんでいるんだ、と思った。だから徒に命を蔑ろにした生徒に対して叱責してくれるだろうと期待した。

 けれど先生は染みがついた床を見ながらため息まじりに一言、床が汚れてしまったわねと言った。

 授業で命の尊さを教えていた先生が、無意味に命が弄ばれた現場を見て、床の汚れを心配した。その汚れがなにでできていて、なんだったのかを知っているのに、吐き捨てるようにそう口にした。

 僕はその言葉を忘れなかった。


 例えばある日リビングでテレビを見ている時だった。

 番組の内容は病気で余命僅かとなった犬とその飼い主の家族についてのドキュメンタリーだった。一緒に見ていた年上の姉と母親の3人でハンカチで目元を抑えながら見ていた。

 ガリガリに痩せこけた枝のような脚でそれでも気丈に振る舞う姿を見て、僕はなんて健気なのだろうかと思った。犬と人間、言葉が通じなくともこれだけ心は通じ合うのか、と。

 最後、懸命に病気と闘いながらも死んでしまった犬を飼い主の家族が涙ながらに看取るシーンがあった。そこでは恥ずかしいのか終始顔を隠していた姉でさえ声をあげて泣いていた。終始泣いていた僕はもはやどのような気持ちで泣いているのか分からないほどに溢れた感情を涙として流していた。あれだけ体は弱っても心は美しくあり続けた彼に対する称賛の涙なのか、それでも愛する家族と離れてしまった彼に対する悲痛の涙なのか分からなかった。でも僕はその複雑さこそが命の美しさだと思った。言葉では簡単には表せず、背反二律喜悲交々こそが命の尊さだと感じていた。

 番組が終わって僕がたれていた鼻をすすっていると画面はニュースに切り替わっていた。ローカルニュースで市内の事故や事件についての内容だった。画面に目を向けるとちょうど交通事故についての内容が終わろうとしていて、死傷者0名、軽傷者2名とキャスターが伝えていた。

 僕はそれを聞いてまた泣きそうになってしまった。軽傷ですんだものの、もしかしたらその人は恐怖で心に怪我を負ってしまったかもしれないと思った。心の傷は体の表面よりもなおすのが困難だと聞く。それに傷を負ったのは被害者の方だけとは限らないのだ。加害者の方もそれによって社会的な罰を受けるだろうし、事故を起こしたことによって心的なショックを受けた可能性もある。当然、一番の原因と罪は加害者にあるが交通事故は関係者全員が損をするのだ。

 僕はそれを思うと交通事故とはなんて悲しいのだろうか、と思い堪え切れずに泣いてしまった。そして死傷者がいなかったことに安堵して、また涙を流した。

 母親がまた泣き出した僕を見て、しょうがない子ねえと言って背中をさすってくれた。その間にもテレビの画面は次の報道内容に切り替わっていた。内容は電車内で女子高生に痴漢をした男性についてのもので、常習犯だった彼についての個人情報や痴漢に対する警戒を警察官が訴えていた。

 常習犯だった、ということを聞いて今回捕まるまでに被害にあった女性について僕は考えていた。体格的に不利な女子高生が電車の中でひとり恐怖を感じているところを想像する。誰にも相談できずにただ恐怖が過ぎ去るのを待っているだけなど僕には想像に堪えないもので、全身の肌が裏返るように鳥肌がたった。

 今度は逆に常習犯だといわれるほどに痴漢を繰り返すその男性について考えた。普通は痴漢など起こそうとも思わない。しかし彼はその常軌を逸した行為を何度も繰り返したという。もしかしたら彼にはそうさせるほどのストレスや悩みなど、心に黒い闇があったのかもしれない。痴漢は許されるような行為ではないけれど、彼のことを思うと言いようもなく悲しかった。

 ふと女性である姉はこの件についてどう思うのか気になった。僕はシャツの袖で涙を拭いながら彼女に注目した。すると彼女は僕が質問するよりも早く、それを言うのが当然だというように、こんな奴さっさと死ねばいいのにと言った。

 ついさっきまで一緒にドキュメンタリーを見て命の尊さ美しさに涙していた姉が、まるで息を吸うように、一桁の計算を解くような簡単さでそう口にした。

 僕はその言葉を忘れなかった。

 

 僕には「命の価値」というものが分からなかった。「命の重さ」というものが分からなかった。

 僕は物心ついたころから命というものを強く感じていた。僕も家族も近所のおばさんもそのペットの犬のジョンも彼の散歩道にある花壇の花もその脇に生える名も知らない草も、そのすべての命を感じ、ひとつひとつ確認するように生活していた。僕にとってはこれが当たり前で、目が乾いてきたから瞼がおりるような、意識するまでもなく体の仕組みとしてそれを行っていた。

 だが他のみんなは違うようだった。

 例えば、ほかのみんなは食事の前後最中に命を感じないらしい。一日三度出る食事の際に、いただく料理に使われている命を感じないらしい。ハンバーグはこの世に初めからハンバーグとしてあるわけでは無く、その工程でいくつもの命が使われていることを感じながら食事をしないらしい。彼らにとっての「いただきます」とは、今から食事を始めますという挨拶であって、あなた達の命を頂きますという感謝の意味ではないらしい。僕は年齢を重ねていくうちにそのことに気がついた。

 みんなが命をどう考えて生活しているのか分からなかった。彼らはよく「命の価値」について説いた。学校の先生からテレビのタレントまで、命とは斯くも尊いものです、と謳った。しかし彼らにとっての「命の重さ」は個人や状況、感情や好みによって違うようだった。

 天秤のようなものに命をのせた時、その傾きは個々人によって千差万別らしく、また人によっては天秤に端からのせずにその場で踏みにじるような場合もあった。だが僕からすれば天秤が傾ぐこと自体信じられなかった。

 まわりのみんなは命が尊いものだと口では言いながら、あまりにも命を蔑ろにし過ぎていた。僕からすれば到底考えられないような行為も、平然と行っていた。

 そうして僕は中学にあがる頃には、僕とみんなは違う世界で暮らしているらしい、と感じるようになっていた。僕の考えている命と、ほかのみんなが考えている命は、違うものだからだ。僕がイエスでもほかのみんなはノーで、まるで世界の仕組みそのものから違うようだった。

 そう感じるようになってから僕は酷く孤独を感じるようになっていた。世界がとても寒く感じるようになっていた。

 泣き虫の僕には、孤独に耐えて生きていくなんてとてもじゃないが無理だった。僕だけが別の世界にいるなんて考えるだけでも恐ろしかった。

 だから僕もみんなとおなじ世界にいたくて、みんなと同じように振る舞うことにした。右手で命を優しく抱きかかえながら、左手では別の命を吐き捨てるように放り投げた。こうして周りに姿勢を合わせながら生きることはとても困難で、同時にとても辛かった。夜、ひとり布団の中で己にたまった感情を眼から濁流の如く吐き出す日が続いた。

 高校にあがる頃にはみんなと遜色なく振る舞うことができるようになっていた。しかし、感じる孤独は増すばかりだった。

 自身の表面と内面の乖離がすすみ引き裂かれそうになっていた。表面では命をおもしろ半分で貶すようなことを口にしても、僕は内面で泣きながらに懺悔しているからだ。本来ぴったりと寄り添うはずの外と内が月日を経たれるごとに離れていき、孤独を慰める為の行為が却って内側の孤独を強めていた。

 まるで二重人格だな、と自嘲的な気分になることも少なくはなかった。もちろん二重人格などでないが、僕の装いと内心の違いはそうと言っても過言ではなかった。命など取るに足らないものだといった動作をしながら、心の中では懺悔と後悔で溢れていた。みんなと仲良く楽しい毎日を過ごしているのは僕の表面で、僕の内にいる僕自身は昔からずっとひとりで泣いていた。

 辛いことばっかりで、逃げ出したいことばっかりで、泣いてばっかりだったけど、ここまでしても分からないことが何よりも悲しかった。数年間で身についたことはみんなと同じポーズのとり方で、なんでそんなことをするのかはずっと分からないからだ。

 やがて僕は僕の表面すらも僕自身から離れ去って本当にひとりぼっちになってしまうのではないか、そう思い始めた。

 どうにかしなければならなかった。僕は独りはいやだった。

 なぜならそれはあまりにも悲しい。

 命を常に身近に感じて、感じていることを意識するまでもなく実感するのに、僕だけがそこにはいない。常に目で捉えていて、頭で考えているのに、触れ合うことはできない。違いを感じて意識すればするほど、僕だけがいないことに気がつく。

 みんなの手を常に見て意識しながら、それでも決して掴めない場所に僕はいた。掴む方法も知っていて、同じように掴む素振りまではできるけど、その手は決して交わることはなかった。なぜ掴むのかが、分からないから。

 理解しなければ、理解する努力しなければいけない、僕はそう決心した。仕草をただ真似るのではなく、そうするに至った理由動機感情等々を理解する。みんなが感じている、「命の価値」「命の重さ」を理解する。理解ができればそれを自分に取り込むこともできるかもしれない。そこまでして初めてみんなと同じ世界で暮らせる、そう思った。

 じゃあ理解するにはどうすればいいのか。

 じつはまだしていないことがひとつだけ、あった。

 理解することを決心した大学一年目の夏、それまで避け続けてきたあることを、これから頑張っていこうと心に刻みこんだ。

 そうして、その日はじめて、殺しをした。



 蛇口をひねって出てきた冷たい水で、殺しで汚れたナイフや洋服を洗う。いまは12月、真冬の水は凍るように冷たくて指先の感覚が少しずつなくなってきていた。

 社会人となった今でも、僕は殺しを続けていた。

 けれどいまだ理解には及ばず、僕は孤独のままだった。

 結局僕の表面も完全に僕の内面と離れて、真に僕はひとりとなった。表面も僕の一部には変わりはなかったが、もはや僕自身と呼んでいいものではなかった。

 僕の表面は多くの人がそうであるように群衆の中のひとりだった。すべての人と同じ世界で生活していた。

 朝起きて同じアパートの人と挨拶を交わしながら職場に向かい、きっかり時間いっぱいまで働いたあと同僚と談笑しながら帰宅する。話の内容は仕事の愚痴から異性の話題、時事など様々だった。僕の表面は職場での信用があったため出世の話も上がっていた。そのことが話題にあがると同僚は心から祝福してくれた。そしてお互い頑張ろう、といって彼とは別れる。自宅のアパートに着くと大家さんが晩御飯を分けてくれた。男で独り身だと野菜食べないでしょ、と。僕は深く感謝してから、自分の部屋へと入っていった。

 僕はそれを自身の内面からひとりで眺めていた。まるでテレビの光だけが薄く滲んだ部屋のなか、膝を抱えひとり映像を見るように、僕の表面の行動をぼんやりと眺めていた。

 僕自身が行動するのは部屋の鍵をかけてから、開けるまで、それと殺しの時だけだった。

 その殺しも無意味なことだ、と疑うこともあった。それでも続けているのは、偏にみんなと同じ世界で生きる希望を捨てきれないからだ。

 今日も殺しをした。だが何故こんなことをしなければならないのか、殺した命が沈黙した今なお、分からないままだ。

 この作業は雲をつかむようだった。文字通り掴みどころのないものを、みんなできているからといった曖昧な理由で行う。雲を掴むために思い切って羽ばたいてはみたものの、結果はまわりと衝突して相手を突き落とし、自身の羽も傷つく一方だ。本当は人は飛べないし、危ないからしちゃいけないのに、こんな事をする理由が実際に羽ばたいても、尚わからなかった。

 そうこうしているうちに、汚れもだいぶ落とせたようで、暗い部屋の中で濡れたナイフが表面をなめるように光った。

 そこで初めて部屋の電気が消えたままだったことに気がついた。僕はため息を吐きながら部屋の電気をつけた。

 僕は明らかに動揺していた。でもそれも仕方のないことだった。何度繰り返してもこの、殺し、という行為は僕を苦しめるのだ。

 例えば食事のように、自らの糧とするべく意味のある殺しならば、まだ良かった。それならば、悲しいことだが生きる上では仕方ないと思い、最大限の感謝とそれに相応しい生を営むことで償いの代替行為ができる。

 しかし、ぼくが続けている殺しはそうではなかった。

 僕は理解できないことを理解するために、殺しをしている。だからこの殺しは理解ができない、意味の分からない殺しでなくてはならない。

 僕が今までの人生において幾度か目にしてきた唐突で理解不能な殺し。理由を説明されても、その言葉の意味は分かってもそれを何故したのかが分からない殺し。

 僕がみんなと同じ世界に生きるためには、唐突で無意味に見えるような殺しをしなければならなかった。

 たしかにこの殺しは、いずれ僕の糧となるかもしれない。だがまだ糧となり、理解することはできていない。僕がした殺しは、気まぐれで意味のない殺しだ。そのことが僕をひどく苦しめた。

 僕は軽い眩暈とふらつきから覚醒するべく、冷水で顔を洗った。

 水で顔を洗うと、皮膚がひっぱられるような感覚とともに、僕自身もようやく落ち着くところまで引っ張ることができた。

 僕は息抜きをしようかな、と思った。

 職場から帰ってきて晩御飯を食べてから殺しを行ったので、時刻はもうすぐ早朝といったところだった。だが眠気は全くなく、完全に意識が覚醒していた。眠りにはつけそうもなかったが、せめて心だけでも落ち着けたかった。

 僕はどうしようかと視線を巡らせていると、あるものが目に入った。

 それは同僚の女性から貰った花だった。

 正確には僕の表面が貰ったもので、僕自身が貰ったものではない。だけどその名も知らない白い花は、この冷たい冬にしっとりと降る雪のようで、僕も好きだった。

 僕は手のひらに収まるくらいの小さなじょうろに水を入れた。それから日が昇ってくるまでこの花を愛でていようかな、と思った。

 その花は花瓶に移し替えていて、窓際に飾っていた。

 窓の向こうは黒一色だったが、窓際に咲くその花は闇のなかでも負けじと輝いていた。それは決してたとえなどではなく、窓に滴る結露が部屋の照明の灯りを反射して、花弁を文字通りひかり輝かせていた。光はけっして強く激しいものではなかったが、柔らかく優しい輝きが、この花の芯にある強い光を感じさせた。

 僕は強く、尊い生を、命を感じた。

 不意にあたたかいものが頬を伝った。涙だった。

 どうやら僕にもまだ涙を流すことが許されているらしかった。感動を表現することが許されているらしかった。

 生を軽んじ、命を無意味矢鱈に踏みにじっても、それでも僕は、世界は、僕自身に涙することを許したようだった。

 僕は頬を拭いながら、少し花に水をあげた。

 じょうろの先端からでた水は、花弁にのって玉になり、つるんと滑り落ちた。

 僕はそれを腫れぼったい目で眺めていた。

 お墓に行くのは昼ご飯を食べてからでいいかな、と思っていたので、あと十時間と少しはこうしているつもりだった。食欲はないし、テレビを見るような気分ではない。それに、こうしてなにもせずただ花を眺めているだけ、というのも悪くない感じだった。

 どうやら僕は花を見ているのが好きらしかった。

 理由は分からないが花が視界に入れば、自然と目で追っていた。この花をくれた同僚の女性と話すようになったきっかけも、仕事中に花を見ていたからだった。だから、たぶん僕の表面も花が好きなんだと思う。

 思い返せば幼いころから花は好きだったように思う。

 花のどこに特別な感情を抱いているのか、そもそもそんなものを抱いているのかどうかも定かではなかったが、たぶんこれは、好き、なんだと思う。

 だからこそ、僕がはじめて殺した彼女のことは今でも鮮明に覚えている。

 僕がはじめて殺したのは、朝顔だった。


 大学一年目の夏、地元の大学に通っていた僕は実家の自室からぼんやりと外を眺めていた。

 以前からこうしてなんとなしに一日を過ごすことも多かったが、大学生になってからは特に多かった。

 なにをすればいいのか、どうすればいいのか、なぜなのか、分からないことだらけだからだ。僕は完全に行き詰っていた。

 人生というものが路だとしたら、僕の路は先の照らされていない暗黒で満ちていた。

 路はいくつも枝分かれをしていて、とった行動によって進む路が異なる。路のために行動する者もいれば、行動のために路を定めて進む者もいる。

 だけどそれは路が見えるからできることだ。はっきりと見える者はいなくとも、みんな朧げには見えている。

 人は正解の確かな方法を知っていなくとも、正解への路の見当を立てることはできる。目的のためにとった行動がたとえ最適解で無くとしても、路を決め歩くことはできる。路が見えているから。

 だけど僕は違った。路が見えなかった。

 ここまでの人生で培った経験によって、路の歩き方は同じように真似できた。でもなんでその路を歩くの

か、この路がどんな路なのかが分からなかった。僕はそれが不安だった。

 例えるなら、僕はパティシエになりたいのにバットで素振りを繰り返しているようだった。みんなが素振りをしているから同じようにしているが、なぜそれをしているのか理由が分からない。それにバットは振り回すと危ないからしたくなかった。

 でもそれではだめなんだと、理解しなくてはいけないと、思い始めていた。

 暗黒に満ちた路を進む真似事ではなく、その路を照らす方法を考える。ひとりで暗い路を進むのではなく、みんなと明るい路を歩きたかった。

 だから僕は決心をした。殺しをしよう、と。

 決心が鈍らないうちに行動を起こしたかった。とても辛くて、いい加減な言い訳をつけて逃げ出す可能性があったからだ。

 今日中に殺しをしよう。

 僕は窓際に椅子を運んで、そこに腰掛けていた。

 一度落ち着きたかった。胸のあたりの動悸が激しく、上から見下ろしても分かるほどに波打っている。額から汗が滝のように流れ、髪が濡れて肌に張り付いていた。

 当たり前な話だが、緊張しているようだ。

 僕は腰を深く座り直した。タオルで汗を拭き、濡れて鬱陶しい髪を手櫛でかきあげた。それから深呼吸をしながら、窓の外へと視線を向けた。

 外は夏真っ盛りだった。

 家の正面にある大通りからは蝉の鳴き声が聞こえている。並木道に集う彼らは、夏の主役を競い合うように叫び合っていた。そこに太陽の激しい日差しが差し込んだ。空は雲の色ひとつなく、遮るものがなくなった太陽は、その存在を青いキャンパス一面に顕していた。

 僕はまぶしくなって視線を少し落とした。

 顔をしかめていると、不意に目に入ったものに、僕は息を呑んだ。

 そこには美しい朝顔が咲いていた。

 寒色を中心とした色彩は、僕から夏の煩わしさを忘れさせてくれた。熱で淀み、蜃気楼のように線がぼやけていた背景も、そこだけははっきりと輪郭を持っていた。淀んだ空気をいなし、けれど周囲をとりこんで、それでも存在感のある美がそこにはあった。水を浴びたのか、七色に輝く雫が花唇のうえをそっと這いながら落ちた。

 蔓を伸ばし青い葉を侍らせながら艶やかに佇む朝顔を見て、彼女にしよう、と思った。

 この朝顔を、彼女と呼ぶのはおかしな話かもしれない。けれど僕はそう呼ぶべきだと感じたし、初めての相手は彼女が良い、とも感じた。

 決心してからは早かった。実際には数時間にも及ぶ作業だったが、僕にはとても早く感じた。それこそ刹那の感覚だった。

 殺しにはショベルを使った。

 ハサミで切ることも考えたが、それだと殺しの後に飾ってしまいそうだった。飾ったりして活かしてしまうのはだめだった。

 活かして愛でるために刈り取るのでは意味がない。僕自身の理解の範疇を超えた唐突さと、度し難さを以ってして殺さなければ意味がない。理解できないことを、理解するために、理解できない殺しをしなければ意味がなかった。

 殺しの最中の記憶は霞がかっていたが、終わった後のことは記憶のなかに今だ鮮烈に残っている。

 土まみれの手と、抱きかかえたショベル。青く汚れたシャツと、青く汚れた庭。変わり果てた姿の朝顔と、泣き続ける僕。そして血の色で染まった空―――


 その日から僕は殺しを続けている。それは月に一度だったり、週に一度だったり、日に一度だったりしたけれど、辞めることなく決心を胸に、続けていた。

 僕の行為はさながら殺しではなく殺戮だった。世間を賑わせるような殺人鬼と同じ、殺戮者だった。

 だがこれも辛いが仕方ないことだ。なぜならみんな同じように殺しているし、僕はまさにそれを理解すべく続けているのだから。

 殺した相手のことは一度たりとも忘れることはなかった。

 二回目に殺した蝉の事も、その次に殺したゴキブリの事も、1人暮らしを始めた日に殺した犬のジョンも、そのすべてを大切に記憶し、忘却の風化から守り続けていた。そうすることがせめてもの贖罪だと感じていたからだ。

 しかしこの行為もまた、僕を悩ませた。

 なぜなら、みんなが常識を逸脱したような荒唐無稽さで繰り返す殺しを、その全てを記憶しているとは到底思えないからだ。

 この考えは決して曖昧なものではなく、僕の人生の経験として、繰り返される惨劇の目撃者として、確かなものだった。

 例えば、教室で殺されたゴキブリのことを、殺した生徒本人ですら卒業の時には忘れていた。もちろんほかのクラスメイトも同様に、あの凄惨な事件のことを覚えていなかった。彼のことを忘れずに記憶していたのは僕だけだった。

 このことが、僕がいまだ世界から弾かれていることを強く実感させた。

 僕がみんなと同じ世界に与するには殺した相手に情を見せず、空気を吸うように殺しをしなくてはならなかった。人が一日に吸った空気の量をいちいち記憶しないように、殺した相手のことをいちいち記憶せずに生活する必要があった。

 それだけは、僕には耐えられなかった。

 もちろん殺しも耐えかねるほどの懊悩煩悶の伴う行為だったが、それを忘れ、無かったことにするのは、僕には不可能だった。

 しかし諦めて、ついには殺しもやめて、ひとり昏い世界で生きるも、僕にはできない。

 僕はむかし、複雑さこそが命の美しさだと感じたことがあった。

 けれども僕は、僕の命は、あまりにも複雑すぎた。

 僕の表裏内外では多彩な情感が飛び交い、入り混じっていた。僕は、僕自身にあまりにも多くの矛盾を抱えていた。自身のためにとった行為で周囲を傷つけ、そのつけた傷を思い自身を傷つけていた。

 人間とは矛盾を抱えて生きていくものだ、と多くの人が口を揃えて言う。だが、僕は自身の矛盾を抱えきれずにいた。

 加えて、僕の内懐はいつも数多の不安で満ちていた。このまま続けても意味があるのか、このやり方で正しいのか、本当にみんなと同じ世界で暮らせるのか、と。

 僕はその不安を消し去るために自分に深く言い聞かせていた。このまま続ければ必ず成果がでるよ、みんな同じように殺しているよ、心配しなくとも暮らせるようになるよ、と。

 分からないことを分かるために、分からないことをしているのだから、分からない不安が付きまとうのはどうしても避けられなかった。

 僕は自分の複雑な不安を、自身で慰めていた。

 そこで僕は不意にあることを思った。

 複雑さこそが命の美しさだというのなら、僕の命は果たして美しいのだろうか、と。

 美しくないはずが無かった。

 僕は今までの人生において様々な命を感じてきた。命にはそれぞれの思いがあり、感慨があり、感動があった。命というものは、そのすべてに果てがなかった。

 だから同じ命である僕も、同じように美しいはずだった。

 なのにいつからか僕は、僕の命を素直に美しいと感じることができなくなっていた。



 橙色の光が目に染みて、その上から被せるようにサンバイザーを下した。

 僕は自宅のアパートから数時間かかる山奥へと、車で向かっていた。

 人里から離れ、山道を登った先にあるそこには、お墓があった。お墓といっても、そこを知っているのもそう呼んでいるのも恐らく僕だけで、通りかかる人すらいなかった。だが、僕には大切なお墓だった。

 そこには、僕が今まで殺してきたすべての命が埋葬されていた。

 まだ実家に暮らしていた頃は、家の庭を使って埋葬を行っていた。しかし、時が経ち収まりきらなくなってしまい、仕方なく土ごと今のお墓まで移動したのだ。

 その時の苦労を思い出すだけでも骨が折れる思いだが、今ではお墓を変えて良かった、と思っている。

 土地を変えて日当たりがよくなったのか、夏になると綺麗な朝顔が咲くからだ。

 僕が立てた簡素な石碑を支えに、蔓を絡ませながら清楚な艶が顔を覗かせる。

 その光景を思い出すと、胸がきゅっと軋むような、でも心地いい感覚に陥った。

 もしかしたら、僕は無意識のうちにあの光景を支えにしていたのかもしれない。彼女が石碑を支えに生を育むように、僕はあの光景を、彼女をこの目で見ることを支えに生きて、諦めずに殺しを続けているのかもしれない。そう思ってしまうほどに、お墓で目にする彼女は美しかった。

 僕はどうやら花が好きらしかった。だが、好きと言っても僕自身には何の自覚もないうえに、すべての命はすべて愛おしいのだから、この差異は無いといってもよいものだった。

 でも数ある花の中でも、彼女に関してだけは何か別のものを感じていた。命という世界共通の枠組みの中から、彼女だけは別のどこかへ移ったような、何か言葉に表せないものを感じていた。

 しかしなぜだろうか、とふと疑問に思った。

 僕はあらゆる物事に等しく命を感じていた。そしてそのすべてに、尊く麗しい気持ちを持っている。ではなぜ彼女だけは、あの朝顔の事だけは、なにか言い知れない別のものを感じているのだろう。

 これではまるで、彼女にだけは、彼女の命だけには、特別な思いを持っているかのようだった。


 不意に車体が跳ねて、僕の意識が思考から引き戻された。

 いま走っている道はもはや道とよんで良いのか疑うほどの悪路で、不安定な路面状況から酷く車内が揺れている。

 周りの景色も数時間前と打って変わり、民家はひとつも見えず、ただただ葉を落とした木々の枝が覆うように広がるばかりだった。

 今の揺れで持ってきていたものの中身が出ていないか、心配になった。

 僕は確認のために、一度車を停めた。それから後ろを振り返ると、誰も乗っていない後部座席の上に、大きなクーラーボックスが置いてあった。

 幸い、いまの揺れで開くことも無かったようで、置いた時と同じように重い空気を纏いながら静かに佇んでいた。

 その中には、昨日僕が殺した命が入っていた。

 クーラーボックスの大きさはかなりのもので、両手を広げたくらいの幅がある。重さは中身にもよるが、だいたいは持ち上げられないほどの重量なので、転がすためのころが付いていた。

 昨日殺した命の大きさもあってか、クーラーボックスはかなり重くなっていた。車に載せるときに少し苦戦したことを思い出した。

 不意に昨日のことを思い出しそうになった。時も暮れ、周囲にも暗黒が広がっているせいか、僕の中を虚無が広がる。

 落ち着こうと、息を吸って呼吸を整理しようと思った。

 すると、不意に目に入ったルームミラーに何か動くものが見えた。それは一瞬だが、確かに影のようなものが木陰からこちらを覗いていた。

 僕は誰かにつけられているのかと思い、車から出た。

 外に出るとそこは酷く寒かった。車内にいるときはエアコンをつけていたためあまり感じなかったが、音をたてて吹き荒れる風が僕の体から急激に体温を奪ってくる。

 車の後方にまわって、影が見えた場所に注目した。

 しかしそこには僕が見た影らしきものは何一つなかった。風に煽られ悲しげに揺れる木の群れが道の脇に広がっているだけだった。

 どうやら気のせいだったらしい。

 落ち着いて考えてみれば、いままで何回もこの道を通ってきたが動物に出会うことは一度もなかった。人間がここに来るのを見たことは無く、またその痕跡すら僕が残すタイヤの跡の他には見たことがなかった。

 神経質になっている気もしたが、むしろこれくらい注意深くなる必要があった。誰かにお墓を荒らしてほしくはなかったし、なにより人間に見つかってはいけないからだ。

 僕が殺しをしていると知ったら、恐らくみんなは軽蔑するだろう。

 それは殺しを行っていること自体に対する軽蔑と、それを行う理由に対する軽蔑の二つがあると思う。

 殺し自体に対する軽蔑は良かった。なぜなら僕も殺しという行為を軽蔑しているからだ。だからこれは仕方のないことで、当然のことだった。

 しかし、殺しを行う理由について知られ、それを軽蔑されるのは何としても防ぐ必要があった。

 僕の表面はみんなと同じように、同じ世界で暮らしている。だからみんなは、僕という人が当然同じ世界で暮らしている人間、命だと感じているだろう。

 だが実際には違う。僕自身はみんなと同じ世界で暮らすことができずに、ひとり膝を抱えて生きている。

 そのことが知られてしまい、軽蔑という負の感情を向けられてしまえば最後、僕はみんなと同じ世界で生きることが一生できなくなるだろう。僕自身がみんなと遜色なく命を振る舞えるようになったとしても、僕が世界の異物だと認知されてしまえば、同じ世界で生きることを許してはくれないだろう。

 だから僕が殺しをしていることを知っているのは、僕だけである必要があった。その行為と理由について知り、軽蔑するのは僕だけでよかった。

 いまだ誰も、僕が殺しをしていることを知ってはいない。だがもし誰かに知られてしまい、一生をひとりで生きていくことを周囲から望まれたとしたら、僕はどうなってしまうのだろう。

 考えるだけでも恐ろしかった。悲しくて、寂しくて、とても生きてはいけないと思った。

 僕はもう一度だれもいないことを確認した。

 それからすっかり冷え切った体を縮めながら、運転席へと戻っていった。



 

 突き立てた石碑は、まるで肋骨のように地面に広がっていた。

 僕はようやく目的地である、お墓へとたどり着いた。

 ここ一体の地面だけはなぜか木が生えておらず、屹然と立ち並ぶ石碑のその全てが見渡せた。広さは大体学校の体育館ほどで、まだ間隔にも余裕がある。

 空を見上げると、星々の粒が散らばっているのがよく見えた。街の光が届かないここでは、普段は霞んでしまうような儚げな光さえもはっきりと見ることができる。周囲を木々が囲むように並んでいるせいか、僕は幼いころにみたプラネタリウムを思い出した。

 あの頃は、分からないことを恐れていたし、悲しんでいた。僕はいまでも分からないままだ。僕は以前よりも、幼かったあの頃よりも、前に進んでいるのだろうか。成長できているのだろうか。

 僕は寒さで首を竦めながら、クーラーボックスを運んでいた。重さがそれなりにあったので、伸ばした取っ手を両手で握り、ころで転がして運んだ。

 この場所まで車だけでくることはできない。だから行けるとこまで車で行ってから、あとは徒歩で来ることになる。そのせいか、かなり着込んではきたものの冬の風が非情なまでに体温と体力を奪っていた。

 お墓の土地は歪な円を描いているので、特に入り口などは無かったが、僕はいつも入ってくる所を入り口としていた。石碑はその入り口から奥に向かって広がっている。つまり入り口側から順番に埋葬している、ということだ。

 僕はマフラーに顔を埋め、立ち並ぶ石碑を見ながら歩いていた。

 そこにはその下に埋まる命の名前と、殺しをした日付が簡素に記入されている。傍らには、枯れて薄茶色になった朝顔の蔦や葉が携えられている。

 僕はそれぞれの石碑を見るたびに、その時の記憶が蘇っていた。ショックからか一部記憶が曖昧なこともあったが、すべての命のことを覚えていた。都合よく忘れることができない自分を、誇りに思いながらも、暗澹とした落胆を感じ、その二つの感情で胸を痛めた。

 心拍が早まるのを感じながらも、ようやく目的の埋葬予定に辿りついた。

 いったんクーラーボックスを置いてから、埋葬するための穴を掘る準備をする。穴を掘るためのショベルは車から持ち運んできており、肩から背負ってきていた。

 僕はショベルを肩からおろして、その先端を地面に突き立てた。

 軽快な音と共に地面を掘っていく。疲れているとはいえこの作業も慣れたものだった。掘って出た土をその脇に盛りながら、埋葬できるくらいまで掘り進めていく。

 作業は順調に進み、半分あたりまできた頃、急にクーラーボックスの中のことが気になった。心配性なのか、小心者なのか分からないが、中を確認しないといけないと思った。

 そうして背後を振り返ると、強い衝撃と共に体が浮いた。

 背中をどこかに打ち付け、肺の空気が押し出される。そして胸に鈍い痛み。口から液体がこぼれる。胸を貫く感覚と、それによって揺れる体。口のなかに液体が溢れ、喉が詰まる。苦しい。

 何が起きた?

 ぼやける目をなんとか振り絞り、状況の理解に努めようとする。

 目に映ったのは、僕を覆う誰かと、胸に生えた何か。

 そして、目には何も映らなくなった。



 どうやら僕は誰かに殺されたようだ。

 自分が死んだことを自覚している、というは変な話だが、僕は自分が殺されたということが分かった。

 おそらく、普段から表面と自身が離れた状態で生活をしていたため、表面の死を自身で自覚し、みることができたのだと思う。

 しかしこの状態も長くはもたないだろう。

 僕が今見ているのは、俗に言う走馬灯のようなものだと思う。ただその意識が過去へと向かわずに、現在に向いている、それだけの事だった。

 僕を殺したのは、姉の婚約者だった。

 今その男はクーラーボックスのなかにいる、変わり果てた姿となった姉を見て、泣いている。

 僕はよく中を見ても姉だと気づいたなあ、と少し関心した。

 なぜならクーラーボックスに入れる際、そのままだと入りきらないので細かくしたからだ。一応顔を一番上にして仕舞ってはいたものの、少し強めに押し込んだ為に顔が崩れていた。

 僕はパズルのピースのように歪な形となった姉を思い出し、悲しくなった。

 

 姉を殺したのは昨日、相談がある、といって呼び出された時の事だった。

 僕と姉は相談事を持ち込まれる程度には仲が良かった。それは僕の表面も、僕自身も同じだった。

 相談は婚約者についての事だった。

 その婚約者と僕は特に仲が良かったわけではないが、一応の面識があった。年は僕よりも少し上で、気さくで爽やかな男性、というイメージだった。

 その彼がどうやら浮気をしているらしい、というのが相談の内容だった。

 姉と彼は傍から見ていても順風満帆だった。来年の春には結婚式も控えており、まさに幸せの絶頂という様子だった。

 だが現実はそうではなかったらしい。

 彼は元々、女癖が悪かったらしく、結婚すれば変わるだろうと思っていた矢先の出来事だったらしい。

 姉が偶然撮影したという、彼が女性を連れてホテルへと入っていく写真を見せてもらった。楽しそうにラブホテルへと入っていく彼をみて、姉はその場で泣き出してしまった。

 姉はその場で崩れ、嗚咽まじりに泣いていた。

 僕はそれを見て、殺そう、と思った。

 姉はまさかここで僕に殺されるだろうとは思っていないだろうし、僕も当然思っていなかった。

 しかし僕がしている殺しにはこれくらいの唐突さと、無軌道さが求められていた。さらにこの家には姉と僕以外には誰もおらず、それも決め手となった。

 僕が決心を固めた後も姉は泣き続けていた。

 僕は悟られないようにゆっくりとソファから立ち上がり、机に置いてある灰皿を握った。そして姉の背後にまわってから力いっぱいに灰皿を振り下ろした。

 三回後頭部を打ちつけると姉は完全に沈黙した。その間、一度も振り返ることもなかった。

 死んでしまった姉を見て、感情の波が押し寄せ、胸が締め付けられる。しかし、今は急いで行動する必要があった。いつこの家に誰か来てもおかしくなかったからだ。

 僕は急いで姉を車にのせた。それから血や僕の指紋を拭きとってから、灰皿と姉の携帯をもって車に乗り込んだ。

 僕は自宅のアパートへと向かいながら、姉の携帯を調べていた。今日僕と会うことを知っている人がいると、危険だったからだ。

 しかしその心配も徒労だった。姉はプライドが高い人だった。そのせいか、この件に関して多くの人に知られたくはなかったらしい。僕以外の人と連絡をとったような形跡はなかった。

 アパートに着いてから、クーラーボックスに入るように姉の体を切り刻んだ。その時のことはよく覚えていない。


 僕は僕自身の意識にも限界がきている、と直感した。

 姉の婚約者はクーラーボックスをもって何処かに行ってしまった。どうやら僕はこのままここに置いておくらしい。

 僕は殺されたことについて疑問を感じていた。なぜ僕は殺されたのだろう。

 姉を殺されたことに怒りを感じたのか。それとも姉を取り戻しに来たか。

 そのどちらとも、命という気高いものを殺してしまう理由にはならないと思う。殺されたことに怒り、殺してしまうのは、不毛だし無益だ。

 僕は自分が死んでもなお、なぜ人が殺すのか分からなかった。

 結局最後まで分からなかったからか、死んだあともひとりだと分かったからか、僕はとても悲しかった。涙が流せたのならきっと泣いていただろう。

 表面の僕が泣くことを許さなくとも、世界が泣くことを許さなくとも、きっと僕は我慢できずに泣いていたと思う。

 途切れ行く意識の中、僕はお墓で血にまみれている僕のことを思っていた。

 突き飛ばされた衝撃で偶然、掘っていた穴の中に、仰向けで倒れている。

 僕は死んだあとの、お墓のことを考えた。

 だれも訪れなくなった山奥に無数に広がる石碑の山。それを祝福し、包み込むように咲く朝顔の花。朝露に濡れ、石碑をそっと撫でるように蔦が這う。

 そのなかに僕もいた。

 石碑の代わりに包丁が僕の胸から聳え立ち、それを支えに朝顔が咲いていた。僕のそばに、そっと寄り添うように、抱きかかえるように咲いていた。

 それを思うと、僕の心にひとつ光が咲いた気がした。

 未来永劫、世界から弾かれている僕を見て、それでも変わらず咲く花がある。

 これからも変わらない彼女を思い、僕は死に向かいながらも、胸に暖かいものを残した。そして自身の瞼を閉じた。

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