ひつじのまーとん
おやおや。
あそこでのんびりと草を食べているのは羊のマートンです。
散髪を終えて、彼はすっかりごきげんのようです。
「マートン」
名前を呼んで現れたのは、この牧場で一番偉いカーニバルです。
カーニバルはマートンを優しく撫で、温かい目で見つめて言いました。
「マートン。ちょっとついてきてくれ」
マートンは動物の本能から直感しました。
いよいよ食べられるんだと。
「めえ~」
「どうした。暴れるんじゃない」
眼鏡の向こうにあるカーニバルの目が厳しくなりました。
マートンはとっさに彼から逃げようとします。
「めえ~」
「マートン」
「や~めえ~」
「え?」
「や~めえ~て~」
これは驚きです。
マートンが言葉を話しました。
「マートン、お前」
「僕を食べないでえ」
きっと神様がくれたラストチャンスだ。
そう考えたマートンは必死に語りかけます。
「食べられたくめえ」
「お前は食べられる為に生まれてきたんだ」
カーニバルはひどいことを平気で言いました。
「ち~が~う~」
「俺は食べる為に、お前を苦労してここまで育ててきたんだぞ」
「ぼ~く~は」
マートンは、ここでお母さんのことを思い出しました。
「ま~ま~は~?」
「ママ?ああ、とっくの昔に食われたよ」
「めえ~めえ~」
マートンは、めえいっぱい泣きました。
いつもとは違いヤギのような高い声で。
「さ、天国のお母さんに会いに行こう」
「食べられたくめえ」
マートンは後退り、首を振って拒否します。
「大丈夫。痛くないし、それに美味しく食べるから」
「い~き~た~い~よ~」
「そうだ。お前は今日のパーティーの主役なんだぞ」
「死にたくめえ」
「マートン。これ以上わがままを言うな」
カーニバルは怒鳴って、マートンの頭を思いっきりひっぱたきました。
「や~めえ~て~」
「言うこと聞かないと、痛い目に合わせて殺すぞ」
カーニバルはずいぶん勝手な奴です。
マートンのことを、もはや食料としか見ていません。
「え~い」
マートンは前足をつき出して、マトンチョップをカーニバルにくれてやりました。
「マートン、貴様」
マートンが手加減したので、カーニバルは直ぐに立ち上がりました。
「ズタズタに裂いてやる」
カーニバルはとうとう怒って、全力で逃げるマートンを牧羊犬のように追いかけました。
マートンは遠くにある森に向かって、一生懸めえ走ります。
「や~めえ~て~」
「覚悟しろ、甘えんぼうのとんちきめ」
「仲良くしてえ」
「羊なんかが生意気に」
「一緒に生きてえ」
「羊なんかが偉そうに」
ここで、ターン、という聞き慣れない大きな音が牧場に響きました。
「いたい」
マートンの見る景色は不思議なことに横向きになりました。
空と大地が仲良く手を繋いでいて、マートンはとても羨ましく思いました。
「こんちくしょう。足に当たったから良かったものの」
「うるせえな。仕留めただけありがたく思え」
マートンが真っ赤な足をペロペロ舐めていると、突然に辺りが暗くなりました。
「めえ~」
マートンが見上げると、そこには彼をよく虐めるハンターがいました。
「頭を撃つぞ」
「めえ」
「仕方ねえな」
「や~めえ~」
ターン。
「て」
それからマートンは塩茹でにされ、パーティーに訪れたたくさんの人達に美味しく食べられました。
そこでにわかに、一人の子供が言います。
「羊さん、美味しいお肉をありがとう」
その子のお母さんは言いました。
「あらいい子ね坊や。羊さんもきっと喜んでいるわ」
マートンはそれを側で聞いていました。
皆が美味しそうに自分を食べるところを見ていました。
いつか、マートンは風と一緒に消えました。
夜になって、空に美しい牡羊座が見えました。
マートンは光になって、その星を綺麗に輝かせました。
牡羊座は、こうして死んでいった羊達の光でいつも輝いているのです。
そして時折、彼らの流す涙は流れ星となって私達の上を駆けるのです。
その瞬間、そっと耳を澄ませてみて下さい。
マートンの声があなたに届くかも知れませんから。
「めえ~」