めじろおし
まだうっすらと雪の残る春先のこと。
まるで空から落ちてきた雲みたいな朝靄に包まれた村に、真新しい赤い屋根の家がひとつありました。
それはまったくどこよりも目立っています。
ことに、その家にはどこよりも仲睦まじい家族が三人住んでおりました。
ちらちらと粉雪が舞う今朝。
村の役所に勤めるお父さんが、山を越えて隣町へといよいよ出張することになりました。
「バスに乗るの?汽車に乗るの?」
「どちらにも乗りますよ」
「いいないいな。杏仁も一緒に行きたい」
眉を八の字にした杏仁は、小さな手を団子にして、しっかりとお父さんのコートを掴んで離しません。
「色んな美味しいお土産を買ってくるから、よい子で待っていなさい」
「いつ帰るの?」
「来月までには帰ります」
お父さんは杏仁を一度優しく抱いて、それらからお母さんと笑顔を交わしてから出掛けていきました。
「杏仁」
お母さんが声をかけるも、杏仁はうつ向いたままその場を動きません。
「お母さんと一緒に、美味しいお芋でも焼いて食べましょう」
お母さんがなだめて手を引くと、杏仁は僅かに元気になりました。
「うん。たくさん食べる」
明くる朝。
陽もまどろむまだ薄暗いうちに、杏仁は目を覚ましました。
すっかり冷たくなった顔を毛布に埋めて、杏仁は凍える体を丸めました。
そうしていると少しずつぽかぽかしてきて、うとうとし始めた頃、何やら微かにお喋りが聞こえる気がしました。
杏仁が気になってひょこっと顔を毛布から出してみると、頭の上にある窓の枠いっぱいに小鳥が集まっていました。
どうやら、彼らがお喋りをしているようです。
「今朝も寒いね」
「早く春にならないかな」
「甘い蜜が飲みたいね」
「うん飲みたいね」
杏仁は彼らのお喋りをどこか夢中で見守りました。
そうしてしばらく、幾ら時間が経ったでしょう。
彼らの小さな影が部屋の端まですっかり伸び切ると、彼らはいっぺんにそっと飛んで、淡い光の波へと消えて行きました。
杏仁はそこでハッとしてガバッと起きてタタッと駆けて外に出ました。
外に出ると、雪もなくすきっとした朝が杏仁を迎えました。
杏仁は急いで小鳥達が飛んだ方へと向かいましたが、そこにはもう彼らの影も見当たりませんでした。
遠くに見える山へと帰って行ったようです。
「くちゅん」
杏仁はなかなか痛むほどの寒さを思い出して、一目散に家の中へと逃げ込みました。
「おはよう、杏仁。今朝はとっても早いのね」
「起きたらね。窓に小鳥が並んでたの」
「小鳥?それはどんな小鳥かな?」
「えっとね。目の周りが白くて、緑色の体をしていて、ドングリみたいに丸かったよ」
杏仁は手まねを交えて、お母さんに一生懸命に説明しました。
「それはきっとメジロね」
「メジロって言うの」
「ええ」
「メジロかあ」
杏仁はその日、外を駆け回ってメジロ達の姿を探してみましたが、夕方になっても見つけることはありませんでした。
「メジロさんいなかった」
「メジロは怖がりさんだから」
お母さんは言って、コタツの上に置かれた鍋から美味しそうなお粥をひと掬いお椀に盛ると、それを杏仁に渡してやりました。
「熱いから気をつけてお食べなさい」
「うん」
何度も強く息を吹き掛けてお粥を口に運びましたが、やっぱり熱くて杏仁は口からお粥を溢してしまいました。
「あらあらごめんなさい。とても熱かったのね」
お母さんは言って、愛らしいネズミがあしらわれたハンカチで杏仁の口を拭いてやりました。
「ちょっと冷ます」
「そうするといいわ」
「そうだお母さん。メジロさんは甘い蜜が飲みたいって言ってた」
「彼らは長い舌を上手に使って花の蜜を吸うのよ」
「へえ。お粥は好きかな」
「さあ、それはどうかしら」
「お粥は熱いもんね」
杏仁が改めてお粥を口に運ぶと、それはちょうど良い温かさで、蜜のような甘味がふわっと口に広がりました。
さて。
次の朝も、メジロ達は窓枠に集まってお喋りをしていました。
それは杏仁にとっていい目覚ましになりました。
「今朝も寒いね」
「早く春にならないかな」
「甘い蜜が飲みたいね」
「うん飲みたい」
「お粥ならあるよ」
杏仁が窓を挟んでいきなり話しかけると、メジロ達はどぎまぎして、右端から順々に目を皿にして居すくまりました。
「ごめんなさい」
メジロが怖がりだということを今思い出して、杏仁はとっさに謝りました。
すると。
「おはよう」
と、左端のメジロが頭を下げて丁寧に挨拶しました。
他のメジロ達は互いに顔を見合わせてまごまごしました。
余った右端のメジロはくるっとひっくり返って落ちてしまいました。
「お粥って何だろう」
「さあね」
続けてメジロ達はこもごもと話し合います。
「あの」
勇気を出して杏仁が言いました。
「お粥は、甘くて温かいご飯のことだよ」
「甘くて」
「温かい」
「ご飯」
眩い陽の光がメジロ達を鮮やかに輝かせて、彼らの期待を表しました。
「食べたいけど時間だ」
「うん時間だ」
それを聞いて、杏仁は慌てて約束しました。
「明日の朝また来て。必ず用意するから」
メジロ達は頷きながら目配せして、それからいっぺんにそっと飛んで行きました。
「あ、みんな待ってよ」
遅れて下から一羽のメジロが飛び出して、皆を追いかけるように飛んで行きました。
「お母さん、聞いて聞いて」
「おはよう。もしかして今朝もメジロに会ったのかな」
「そうなの。それでね」
杏仁はメジロ達と約束したことを、さっそくお母さんに話しました。
「あらあら。そしたら、きちんと用意しないといけないね」
「明日は暗いうちに起こしてね」
「はい。分かりました」
「約束だよ」
こうして次の朝、まだ暗いうちに杏仁は目を覚ましました。
おぼつかない足取りでお母さんについてコタツに向かうと、杏仁は素早くコタツの温もりを求めました。
調理場で火に掛けられた鍋から、とっても甘い匂いが漂ってきました。
「もう用意したの?」
「冷まさないといけないからね」
「そっか。火傷したら可哀想だもんね」
陽が欠伸をしながらのんびりと顔を出した頃、やっぱりメジロ達はいつもの窓枠に揃っていました。
「僕たちを食べるつもりかも」
「やめてよ」
「でもお粥食べたいな」
「まだかなー」
「今に刃物を持って現れるよ」
「ないよ。あの子はまだ幼いし」
こうして不安と期待を抱くメジロ達がきっかり分かれた事で、ついには喧嘩が始まってしまいました。
「つっついたな」
「君が先につっついたんだ」
ぴぃぴぃ怒る鳥がいれば、ぴぃぴい泣く鳥もいます。
「喧嘩はやめて」
そう言って、いつの間にか部屋に入ってきた杏仁が何とかメジロ達をとりなしました。
「ほら、お粥だよ」
「これは美味しそうだ」
「うん食べたい」
せっかちなメジロ達が次々とガラスに頭をぶつけます。
杏仁は少し笑って窓を開けてやりました。
そうしたらメジロ達はあっという間に大きなお皿のとこへ集まって、輪になって囲んで美味しそうにお粥を食べ始めました。
その傍ら杏仁は、外からひゅるりと冷たい風が吹くので、窓をしっかり閉めました。
それを見た一羽のメジロが大げさに騒ぎ出しました。
「大変だ。僕らは罠に掛けられた」
「うわやられた」
「ひどいよ食べる気だよ」
「食べない。寒いから閉めたの」
杏仁に怒られたメジロ達は確かにと尾を震わせると、静かに食事を再開しました。
「ねえ。メジロさんはいつもどこへ行くの」
ふと杏仁が訊くと、メジロ達は代わる代わる言いました。
「山の中」
「山の向こう」
「バスの上」
「汽車の上」
「屋根裏」
「犬の上」
「猫の下」
「空き瓶の中」
「自動車についた筒の中」
どれが本当かは分かりませんが、杏仁は全て信じて、そしてまた訊きました。
「お父さんが山の向こうにいるの。誰か知らない?」
「知ってるよ」
メジロ達はいっぺんに答えました。
「本当?」
「この村にやって来たときからいつも見てたから」
「うん覚えてる」
「懐かしい」
「今は町にいるね」
「昨日は雪に足を滑らせてたよ」
「あれは面白かった」
それを聞いて杏仁はひとつお願いをしました。
「明日から、お父さんのお話聞かせて」
メジロ達は一羽一羽丁寧に頷きました。
「お粥のお礼をしよう」
「そうだね」
「明日もお粥欲しいな」
「うん食べたい」
「じゃ、お母さん」
杏仁が扉に向かって言うと、こっそり覗いていたお母さんが笑って了承しました。
それを受けたメジロ達は。
「お母さんだ」
「おはよう」
「ごちそうさま」
「そろそろ帰るね」
「明日も楽しみにするね」
と次から次へと言って、窓の前に並び立ちました。
そして最後に。
「ありがとう」
「さようなら」
「また明日」
と、左端と真ん中と右端のメジロが代表して挨拶しました。
「うん。またね」
杏仁が窓を開けてやると、メジロ達は羽を広げて、すっかり顔を出した陽に向けていっぺんにそっと飛んで行きました。
杏仁はメジロ達を、大きく手を振って見送りました。
そうして次の日から、毎朝メジロ達が訪れては、杏仁とお母さんにお父さんの話を聞かせてくれるようになりました。
一生懸命お仕事を頑張る姿や、食事をするところ、足を滑らせて転んだり、自動車をぶつけたり、猫に追いかけられたり、とにかく色んな様子をたくさん聞かせてくれました。
またいつからか、メジロ達は二人と鍋を囲んで、一緒に朝食を食べるようになりました。
この時にはもう、杏仁はお父さんのいない寂しさを忘れて楽しく毎日を過ごしていました。
やがて日が巡り、待ちに待ったお父さんが帰って来る日になりました。
外はだいぶ温かくなって花も咲き始めています。
しかし、今朝。
メジロ達が現れることはとうとうありませんでした。
「メジロさん来ないよ」
「うん。どうしてかな」
昼になって戸口が開く音がしました。
お父さんが帰って来たのです。
杏仁はお母さんよりも早く戸口に駆けつけました。
それからお父さんを見てびっくり。
お父さんはたくさんのお土産を手に持って、たくさんのメジロ達を連れて帰って来たのです。
「彼らに送ってもらったんですよ」
「それはお世話になりました」
「ありがとう、メジロさん」
お母さんと杏仁はきちっとお礼を言いました。
「うん。またね」
メジロ達は二人の笑顔をしっかり見届けてから、いっぺんにそっとどこかへ飛んで行きました。
「彼らは杏仁の知り合いですか?」
「お友だちだよ」
「そうですか」
「お帰りなさい。あなた、ご苦労様でした」
「ありがとう。もしや君もメジロ達と友達かい」
「ええ、実はそうなんです」
「では、二人は僕がいなくて寂しい思いをせずに済んだのですね」
「うん。平気だったよ」
杏仁はお土産を気にしながら言いました。
「それは良かった。彼らには何かお礼をしなくちゃいけませんね。そうだ、このカステラを一緒に食べましょうか」
お父さんが杏仁に提案すると、杏仁は喜んでそれに賛成しました。
「おーいメジロさん」
杏仁が外に飛び出して叫ぶと、屋根の上から、何やら微かにお喋りが聞こえました。
「カステラって何だろう」
「美味しいのかな」
「まったく美味しいに決まってる」
「うんそうだね」
「はやく食べたいな」
杏仁は両手を口に添えて、メジロ達に大きな声で言いました。
「はやくおいで」
それを合図に、メジロ達はお土産にお父さんの荷物まで足で掴み、せっせとコタツの上に運びました。
彼らはその一仕事を終えると、コタツの上に押し合いながら横一列に並んで、仲睦まじく笑う三人が来るのを体を揺らして待ちました。