あい
雲ひとつない青く澄んだ空から舞い降りた天使のような風は、広い芝原をそよそよと吹き抜けて、ウェディングケーキのように丸くて綺麗なお城の上に備えられた旗を、悪戯にハタハタと揺らしました。
そのお城は大きな町でもあり、そこには沢山の命が生きています。
町には、高い電信柱が短い感覚でいくつも立っていて、それには虹色の電線が連なって結ばれています。
また、どの建物にも風鈴が幾つか垂れていて、町はいつも清らかな音色で包まれていました。
坂道の多いこの町で、元気に風と駆けっこする女の子が一人います。
彼女の名前はファクシミリア。
ファクシミリアは幼いながら手紙の配達を頑張っています。
彼女は今、一番てっぺんにある、王子様の暮らすひときわ立派な宮殿を目指しています。
それは、大事なお手紙を届けなければいけないからです。
ファクシミリアはやっと宮殿の門前に到着すると、愛らしく門番に挨拶して、また駆けて中に入りました。
長い廊下を二本通って中庭を抜けて、最後に螺旋階段を三つ登って、彼女は王子様の部屋を訪ねました。
銀河を模した小さな宝石で飾られた扉を静かに押し開いて中に入ると。
王子様は窓に寄り掛かって、楽しく賑わう町を愛おしそうに眺めていました。
「こんにちは」
ファクシミリアが愛らしく挨拶すると、王子様は振り返って愛想よく挨拶を返しました。
「これが今日の手紙じゃ」
ファクシミリアはビニールのリュックからドッサリと手紙を出して言いました。
「おやファクシミリア。お手紙が一枚足りないようだよ」
「はて、そうかのう」
ファクシミリアはとぼけて言うと、リュックの中にある桃色の手紙を一枚取り出して、わざとらしく「あ」と声を漏らしました。
「いかんいかん。本当じゃ、まだ残っておった」
ファクシミリアがそのお手紙を王子様に渡すと、王子様はさっそく封を開けてそれを朗読しました。
「大好きなポケベルス様へ。今日もあなたにお気持ちを伝えます」
「わっ、読むな読むな」
ファクシミリアが慌てて、背伸びをして、伸ばした手をパタパタさせてお手紙を取り返そうとしますが、ポケベルスは彼女の頭を片手で抑えて朗読を続けます。
「私はあなたのことをとても尊敬しています。いつも皆の為に頑張る王子様は誰が見ても素敵だからです」
ポケベルスは福祉に厚く志が高い王子様でした。
なので、町の人達からいつも高く評価されており、また、とても愛されていました。
「しかし、誰よりあなたを素敵に想っているのはこの私です。そっと応援していますので、今日も一日頑張って下さい」
「やめんか!ばかばかおばかー!」
ファクシミリアは顔を真っ赤にして、ぽかぽかとポケベルスを叩きました。
「ありがとう、ファクシミリア」
ポケベルスはファクシミリアを高く抱き上げて言いました。
「子供扱いするな!はよう降ろせ!」
じたばたするファクシミリアが可愛くて仕方なく、ポケベルスは彼女を何度か左右に揺らしてから降ろしてやりました。
「まったく、レディに対して失礼じゃぞ」
「ごめんなさい」
「じゃあの」
照れ隠しに振り向いて、この場をさっさと立ち去ろうとするファクシミリアを、ポケベルスは後ろから抱き寄せて止めました。
「な、何をするのじゃ」
「麗しいレディ。今日はこの私とティータイムを楽しんでくれませんか」
「ティータイム?」
「美味しいお紅茶と、クルミのクッキーがありますよ」
「わあ!」
「では決まりということで」
「うむ!」
ポケベルスはファクシミリアの手を引いて、中庭へとエスコートしました。
「さ、どうぞお座り下さい」
ファクシミリアは、ポケベルスがわざわざ引いてくれた椅子にちょんと座りました。
「まったく。わしは忙しいのじゃぞ」
言って、不機嫌をよそおって膨らませたファクシミリアの頬を、ポケベルスは指で、えいと突っついてやりました。
「もう手紙はないだろう」
「帰ってすることがあるのじゃ」
「何をするのかな」
「掃除に皿洗いに、えと、あれやこれやじゃ」
「それは仕方ない。ではお帰りになりますか」
「な、ならぬ!」
「どうして?」
「そうそう。今朝、わしは朝ごはんを食べておらぬのじゃった」
「では、一緒にティータイムを楽しんでくれるんだね」
「ほうじゃ。ありがとう思え」
「ははー。感謝致しまするー」
二人がそうしてふざけているところへ、髪を後ろで一つに束ねた綺麗なメイドさんが、さっそく紅茶とクルミのクッキーを運んできました。
「まるで兄と妹みたいね」
そう言われた瞬間、ファクシミリアの頬は今までになく膨らみました。
「彼女は私のお姫様だよ。気を付けなさい、フィディオ」
ポケベルスがそう言って、すかさずフォローしてやりました。
フィディオはポケベルスの幼馴染みで、ファクシミリアにとっては最大のライバルでした。
「ごめんなさい、お姫様」
フィディオは続けて、ファクシミリアにこう耳打ちしました。
「いい機会だから、ポケベルスにあーんでもしてあげなさい」
「は!?ばばばばかもも!」
ファクシミリアはまた顔を真っ赤にして、ぽかぽかとフィディオを叩いて怒りました。
「ふふっ。ほんと可愛い」
「むうー」
「じゃね、ごゆっくり」
フィディオは言って、ファクシミリアの頬にキスを一つ贈りました。
「無礼者ー!覚えておれー!」
口でそうは言っても、心の中では感謝をお返しして、ファクシミリアはフィディオを見送りました。
「何を言われたの?」
「あーんて」
「あーん?」
「あ!やややの!」
「あいたたー」
突然、ポケベルスは両手を高く上げてとても辛そうにしました。
「どうした!どこか痛むのか!」
「そうだよ。ああ痛くて仕方ない」
「では、早う医者に見せねば」
「直に治るよ。それまで、すまないが食べさせてくれないかな」
「え」
「一口でも構わない」
「ええーもう……」
てれてれもじもじ。
その後、ファクシミリアはいよいよ決心して、ポケベルスの口へとクッキーを一枚運んでやりました。
「あーん」
「あむ」
「どうじゃ」
「君も食べてごらん」
続いてポケベルスが、クッキーを一枚ファクシミリアの口に運んでやりました。
「ん……」
ファクシミリアはうつ向いて、口を小さくもぐもぐさせました。
「どうだい」
「んふふ!美味しい!」
その笑顔は、とっても幸せに満ちていました。
ファクシミリアはこの日、人生で一番恋しい時間を過ごしました。
「ヘンドフォン陛下。手紙をお持ち致しました」
いつか少女になったファクシミリアは、別のお城で手紙の配達をしていました。
「今日も浮かない顔をしておるな」
「すみません」
「どれ小遣いをやろう」
「いえ。お気持ちで結構にございます」
「良い。それで何か食べて元気を出しなさい」
「お心遣い感謝します」
ファクシミリアは宮殿を出ると、とぼとぼと歩いて小さな菓子屋に寄り、クルミのクッキーを一袋買いました。
紙袋一つにクッキーは六枚入っています。
彼女は次にそれを持って、ふらーといつもの公園に行くと、木製のベンチに腰掛けて溜め息をつきました。
「あ!ファクシミリアさん!」
そこへ一人の男の子が嬉しそうに駆けて来ました。
彼の名前はエムディ。
エムディは幾月か前に、この公園で落ち込むファクシミリアを見つけて、わざわざ声を掛けてくれました。
それからいつも元気を分けてくれる、優しくてしっかりした男の子です。
「こんにちはエムディ。一緒にクッキーを食べよう」
「頂いてもいいのでしょうか」
「いいよ。ここへお座り」
ファクシミリアは自分の隣を、ぽんぽんと軽く叩いて合図しました。
「では失礼」
「はい、どうぞ」
クッキーを一枚貰った男の子は、とても嬉しそうにファクシミリアを見上げました。
「あの、ファクシミリアさん」
エムディは、にわかに上着のポケットから一枚のお手紙を取り出すと、シワを丁寧に伸ばしてからファクシミリアに渡しました。
「もしかして、これ私に?」
「はい。一度書いてみました」
「読んでいいかな?」
「駄目ですよ。帰って読んで下さい」
「えー、今読みたいなー」
「……声には出さないで下さいね」
と言われましたが、ファクシミリアは手紙をしっかり広げて朗読しました。
「ファクシミリアさんへ。僕は、公園で初めてあなたにお会いした時、とても美しい人だなと思いました」
「ひどいですよ!」
「お願い。このまま読ませて」
「むー……では、もう少し小さな声でお願いします」
「はい」
ファクシミリアは静かに朗読を再開しました。
「あなたは本当に綺麗な人です。暗い顔をしてはもったいないです。だからどうか元気を出して下さい」
「あー恥ずかしい」
聞き終えて、エムディは落ち込んでしまいました。
「ごめんなさい」
ファクシミリアはエムディの頭を優しく撫でて謝りました。
「ちょっと、あのその……」
「子供扱いしちゃった。これまたごめんなさい」
「いいよ。ファクシミリアさんが、今日こそ笑ってくれたら」
ファクシミリアは思いました。
そう言えば最後に笑ったのはいつだろうかと。
ファクシミリアはこの時、もう笑顔の作り方を忘れてしまっていました。
「私ね。故郷と大切な人を失ったの」
ファクシミリアは胸のどこかが、きゅっとたまらなくなって、過去をゆっくりと語り出しました。
「私の故郷はある日。いきなり押し寄せた時代の波というものに、すっかり飲まれてしまったの。そうしたら、お城やたくさんの人達は瞬く間に錆びてしまって、まるで銅像のようになってしまった」
ファクシミリアはビニールのリュックから、一枚の写真を取り出しました。
その写真には、中庭でぎゅっと寄り添う三つの笑顔がありました。
真ん中にいるファクシミリアは特に笑顔です。
「左の人は私が愛した王子様のポケベルス。そして右の人はフィディオといって、いつも親切にしてくれた、私にとってお姉さんみたいな人」
「その人達、もう治せないの」
「うん。すごく残念」
ファクシミリアは悲しい顔を上げて、空の彼方に掛かる虹を見つめました。
「それでもたまに会えるからいいの。そして思い出すの」
「何を?」
「大切な想いを」
言って、ファクシミリアは確かに思い出しました。
「今、二人が最後に残した言葉を思い出した」
「それは何?」
ポケベルスは言いました。
全てが錆びてしまっても、この愛だけは決して錆びることはない。
フィディオは言いました。
たとえ思い出が色褪せても、愛はいつまでも鮮やかに輝き続ける。
「何だかかっこいいです」
「かっこいい?それは君のことだよ」
「え?」
「落ち込む私にいつも元気を分けてくれる君は、誰より素敵よ」
そう言い終えたファクシミリアは、袋からクッキーを一枚取り出して、それをエムディの口へ運びました。
「美味しい?」
エムディは顔を真っ赤にして急いでクッキーを平らげると、とっても幸せに満ちた笑顔で答えました。
「んふふ!美味しい!」
それを見て、ようやくほっとしたファクシミリアは。
「本当にありがとう」
と、懐かしい笑顔でお礼を言いました。
この日、エムディから貰った愛はとても温かいもので、ファクシミリアの中でずっとずっと輝き続けました。