あめふってはなさく
レインリリーの日記より。
訳と編集、私。
長い長い雨がようやく止みました。
波のようにうねる灰色の雲の隙間から漏れた陽の光が、すっかり凍えた世界を温かく照らし始めました。
すると、起伏の激しい丘の上に残った動植物達は、一同に顔を上げて陽に向かって祈るように目を閉じました。
リリーはその間をボッーと歩いて、遠くから微かに聞こえてくる音楽を目指しています。
そして気がついた時、リリーは煉瓦で組まれた町の真ん中にいました。
そこで突然、リリーの頭の中で慟哭がひどく騒ぎ出しました。
リリーは、胸の中心を強く握り締めて苦しみに耐えました。
町はどこからか聞こえ続ける落ち着いたジャズで満たされています。
リリーが逃げるようにそれに集中すると、頭の中でひどく騒ぐ慟哭は、少しずつ少しずつ大人しくなり、やがて消えてくれました。
落ち着いたリリーは、側に見つけたテラスの椅子に腰掛けました。
ここはカフェのようで、店の中から可愛らしい前掛けをした女性がゆっくりと歩いて出てきました。
「ご注文は何になさいますか」
「コーヒーを、熱いコーヒーを下さい」
「すみません。うちにコーヒーはありません」
「では紅茶を下さい」
「紅茶はありません」
「それでは何がありますか」
「ウイソキーならあります」
「ウイスキーですか」
「いえ、ウイソキーです」
「それは何ですか?ウイスキーとは違うのですか?」
「ウイソキーを飲めば、あなたの疲れたその心身はきっと癒されます」
「では、それを下さい」
「かしこまりました」
女性はリリーに深々と頭を下げて、それからまたゆっくりと歩いて店に戻りました。
それを見送って、リリーは言われて思い出した疲れに、大きな溜め息をつきました。
リリーの憔悴した顔が映るガラスの向こうでは、自由にお洒落した人々が会話を楽しんでいました。
次に通りの方に視線を移しますと、ちょうど子供達が楽しそうに石畳の上をぱたとたと駆けて、リリーの前を通りすぎて行きました。
それを見て、リリーは少し元気が出たような気がしました。
リリーは、土砂ですっかり茶色く染まった上着を背もたれに掛けました。
服はもうパリッと乾いていました。
と、そこへ。
赤いスーツを着て緑のステッキを持った一人の男性が、どこからかいつの間にか現れ、リリーの向かいにある椅子に静かに腰かけました。
丸いテーブルを挟んで、リリーは男と向き合う形になりました。
「こんにちは」
「他に空いた席はありますよ」
リリーが怪訝な顔をして少し意地悪く言うと、男性は持っていたステッキを、花瓶に差した素敵な花束へと瞬く間に変えて、それをリリーの前に飾りました。
「ありがとうございます」
リリーが一応お礼を言うと、男性は両手を大きく広げて立ち上がり、どこからか聞こえ続けるジャズに合わせて、陽気に歌い踊り出しました。
その手には、いつの間にかさっきと同じ緑のステッキが握られています。
「夢のような甘い幸せに目を奪われて、星のような希望に満ちた音楽に心を奪われて、愛のような温かい酒に酔いしれて、虹のような理想の町で歌われるこの唄は、ああ、いつかあなたに届くでしょうか」
男性は歌い終えると、リリーの手を優しく取って言いました。
「さあ、あなたも一緒に歌い踊りましょう」
「お断りします」
リリーは強い口調でスパッと断りました。
それに男性は驚いた顔もせず、まるで何事もなかったように、通りを歩く町の人達を巻き込んで、愉快に踊りながらどこかへ去って行きました。
「お待たせしました」
無言で頬を膨らませていたリリーの前に、マグカップに並々注がれた一杯のウイソキーなるものと、雪のように真っ白なソースに浸されたチキンが運ばれてきました。
「あのう、このチキンは」
「それは町長からの歓迎です」
言って、女性は深々と頭を下げてゆっくりと店内に戻りました。
「町長?」
リリーが辺りを見回して見るも、それらしい人は見つかりませんでした。
また、チキンからほのかに漂ってくる甘い匂いを嗅いでいると、リリーはどうでも良いかという気持ちになって、まずチキンを食べようとしました。
「そのチキンは特別だよ」
リリーが驚いて顔を上げると、どこからかいつの間にか現れた、白い髭を面白く束ねたお爺さんが向かいの椅子に腰かけていました。
彼の黄色いスーツには大きな名札が着いていて、そこには町長と書かれていました。
「町長さん。このような温かい歓迎、心より感謝に存じます」
「ところで君はどうしてここへ来たのかな」
訊かれて、リリーは思い出しました。
「生き別れた妹を探しておりまして、気がついた時にはこの町におりました」
「どうして生き別れたのですか」
「それは……」
ここでまた、リリーの頭の中で鋭い慟哭が騒ぎ出しました。
それに耐えるリリーを見ながら髭をもて遊んでいた町長は、ふと答えを思いついたようで言いました。
「売り物にしましたな」
「違います!」
リリーは慟哭を吹き飛ばすほど大声を上げて叫びました。
「それは良かった」
「あなたは私にいきなり何を仰いますか。失礼ですよ」
「いやはや、あなたが家族すら売り物にして自分を偉くしたのかと思いましてな」
「そのようなこと、私は何があっても致しません」
「はてさて、人間はあらゆる手段を以て、いつでも、自分を何とか偉く見せたがるものですからどうでしょう」
「いよいよ怒りますよ」
「まあまあ、先程の失礼をお詫び致しますから、さささ、それをお食べになって。ほら冷めてしまってはもったいないでしょう」
確かにそれもそうだと思って、リリーは皮肉を上品にナイフで切ると、フォークで以て小さく開けた口の中に入れました。
それは味わったことのない醍醐味がしました。
「ここでは刺激は食事で補います。さささ、次にウイソキーをどうぞ」
勧められて、ウイソキーの上に立つ湯気を二度三度揺らしてから、リリーは思いきって一口飲んでみました。
それはそれは、とても魅力的な味がしました。
体はふわっとした安心感に包まれて、かっと一気に火照りました。
そうしたら、リリーは何もかもが、もう、どうでもいいような気がしてきました。
「とても美味しいです」
「それが気に入ったのなら、是非ここで暮らすといい。みんな良くするよ」
「しかし……」
「妹のことが気になるかな」
「いいえ」
リリーは、どんどん食べてがぶがぶ飲みました。
「私にはもう恐ろしくありません」
「ここは落ち着いており危険はありませんからな」
「私にはもう悲しさも寂しさもありません」
「ここで暮らす仲間は決して裏切りませんからな」
「私にはもう憎しみも恨みもありません」
「ここに争いが起きるほど不足した物はありませんからな」
「求めるものはここにありました」
「うんうん。そうでしょう」
リリーはよほど上機嫌になって、席を勢いよく立つと、どこからか聞こえ続けるジャズに合わせて愉快に歌い踊り出しました。
「夢のような甘い幸せに目を奪われて、星のような希望に満ちた音楽に心を奪われて、愛のような温かい酒に酔いしれて、虹のような理想の町で歌われるこの唄は、ああ、いつかあなたに届くでしょうか」
続けてリリーは、町長の手を取って一緒に踊り出そうとしましたが、町長は首を降ってその手を払いました。
また、町長は難しい顔をして、リリーのことをとても哀れに思いました。
リリーは笑いながら泣いていたのです。
「どうして泣きますか」
「分かりません。悲しくなんてないのに。いえ、口ではそう言っても、あれ、私どうしたのでしょう」
「あなたはまだ何も失っていない。これでやっと確かになりました」
「え?」
「さささ、おいでなさい」
町長に手を引かれて、リリーは迷路のように入り組んだ路地をゆらゆらと駆け回りました。
リリーは段々と目をクルクル回して、なお意識がクラクラしてきました。
そしていつか、リリーは誰かに体を激しく揺らされ、起伏の激しい丘の上にある枯れた木の下で目を覚ましました。
くすんだ空をどこか遠くに見て、リリーはまぶたを擦りました。
「お姉さん」
その声を聞いて、さっぱりと全てが鮮明になりました。
「ポピー」
所々破けた服を着て今にも泣きそうな顔をした妹が、心配そうにリリーを見つめていました。
リリーはたまらず、妹の小さな体を強く抱いて、大声を上げて泣きました。
そうしてしばらくの後。
惜しむように体を離したリリーは、改めて妹の顔をしっかりと確認しました。
記憶よりだいぶ痩せてはいますが、間違いなく、探し求めていた愛する妹でした。
「ポピー、どうしてここに?」
リリーが訊きます。
「遠くから微かに音楽が聞こえてきてね。それを目指して歩いていたら、こうしてお姉さんと会えたの」
「それはどんな音楽だった?」
「とても落ち着いていて、でもどこか愉快で……そうだ。最後にお姉さんの歌が聞こえたよ」
言われてリリーは、目を閉じてそっと耳を澄ましました。
ひゅーという風の音だけが聞こえました。
「何も聞こえないね」
「うん。おかしいね」
リリーは一度首をかしげて、まあどうでもいいか、と笑いました。
妹も一緒になって笑いました。
そんな二人の長く伸びた影の中で、ひっそりと、町の人達は手を取り合って愉快に歌い踊るのでした。