みすりーど
世間がそのまま映されたような薄暗い空から微かに漂う雨の匂いを感じて、諦芽太郎は早足になった。
そうして電信柱をいくつか追い越したところで太郎は何かに気付いた。
それを確認する為に踵を返して少しばかり来た道を戻ると、電信柱の下にひとりぽっちの夢を見つけた。
「可哀想に」
その夢は、ぷるるんと小刻みに震えていた。
怯えているのか、それとも冬の寒さに凍えているのか。
太郎には分からなかったが、手袋を外してとりあえず夢を抱き上げた。
「君、捨てられたんだな」
よく冷えた夢はプラスチックの箱にぴったりと押し込められていた。
その隣に置かれた蓋にはマジックで、可愛がってあげて下さい、と丸い文字で書かれていた。
「よし。俺と行こう」
夢を押し潰さないよう優しく抱いてやると、太郎はまた早足で帰路に着いた。
「お腹は空いているかな」
太郎は家に帰ると夢に聞いた。
夢はやっぱり、ぷるるんと小刻みに震えるばかりだった。
「何か買ってくるから待っていてくれないかな。なに、すぐに帰るさ」
そう言って太郎は最近新調した暖房をつけると。
「必ず」
その言葉を優しく添えてスーパーへと向かった。
それから太郎が帰ってくるまでは早かった。
肩を揺らして息を切らして走って帰って来た。
「ふぅ……独りにしてごめんな」
よく見ると夢は汗をかいていた。
どうやらこの夢は暑さに弱いらしい。
太郎は急いで暖房からホットカーペットに温もりを変えると、夢を滴の垂れる窓際に移してやった。
そして買ってきたおからと豆乳にニガリを混ぜたものをお椀に盛って、さっそく夢に与えた。
「どうだい。口に合うかな」
夢は、ぱるんぱるんと揺れた。
お口に合うようだ。
太郎はつい嬉しくて、夢を愛おしそうにゆっくりと撫でた。
「これからはずっと一緒だ」
そう決めたこの日から、太郎は夢と二人で暮らすことになった。
太郎はまず市販のリードを夢に合うよう手製の特別なリードにこしらえた。
それから、朝夕と一日二回、一緒に散歩に出掛けることが日課になった。
リードは大切だ。
にわかに道路に飛び出したり、誰かに危害を加えることがないよう、自他ともに守る為に必要不可欠な物だ。
リードは時と場所と場合で短く持つことが基本となる。
また、リードの着用は原則として義務付けられている。
しかし世の中にはリードを短く持つことはおろか、首輪にリードを着用することすらしない者が多くいる。
トラブルになってからでは遅い。
何か起こる前に、やはりリードを主導する人間が認知して強く自覚することが最も大切だ。
加えて、もし首輪をすることに抵抗があるならハーネスを検討してほしい。
といった、夢に関する勉強も太郎はしっかり行った。
夢とはどういうものか、夢とどう付き合えば良いのか、あらゆるものと向き合い学んだ。
ところが、五年が過ぎても夢が大きくなることはなかった。
「それでも俺は構わないよ」
まるで自分を慰めるように言うと、太郎は今日も夢と散歩に出掛けた。
この日は出会ったあの日と同じく、寒く薄暗い天気だった。
しかし太郎はそれに参ることなく夢と楽しく散歩した。
その時だった。
太郎は、夢が捨てられていたあの電信柱を見つめる一人の女性を見つけた。
女性は電信柱の前に立ち、ただ何をする訳でなく、ジッとその下を見つめていた。
そこで気付いた太郎は勇気を出して声を掛けた。
「あの」
振り向いた女性は太郎を瞬く間に魅了するほど美しかった。
その見た目は太郎の恋心を察して省略させて頂く。
「君はいつか夢をここに?」
太郎が単刀直入に尋ねると、女性は頷いてから答えた。
「はい。ここならよく拾われるという噂を聞いたので」
太郎はなるほどと思って、しかし酷いと思った。
「良いこととは思えませんね」
太郎にハッキリ言われて、女性は白い吐息を溢してうつ向いたまま黙った。
その足に夢が、ぷりんとすり寄る。
「君、もしかして」
「私は豆腐職人を目指していました」
女性は膝を曲げて夢を優しく撫でながら小さく笑った。
太郎はやっぱりと呟いて、続けて聞いた。
「どうして夢を捨てようと」
「私は昔から不器用で、それにどうしても難しくて」
確かに夢と向き合うのは、何より叶えることは難しい。
それでも捨てるなんてことはあまりにも悲しいことだ。
そのようなことを太郎が淡々と話すと、女性は少し怒って言った。
「あなたに私の何が分かるんですか」
太郎は迷うことなく真っ直ぐに女性の目を見て強く断言した。
「君が夢を諦めていない。今も好きだということは分かります」
太郎が移した目先で夢がぱるんぱるんと揺れている。
女性はそれを見て、理解して納得したようだ。
女性は夢を抱き上げて立ち上がった。
「あなたの言う通り……かも知れません」
女性のまだ頼りないその言葉を聞いて、太郎は手に持つ特別なリードを彼女に渡した。
「まだ間に合いますよ」
「でも……」
「立派な豆腐職人になってあげてください。君の為にも、夢の為にも」
女性は少し悩んで、それでも特別なリードを太郎に返した。
「どうしてですか」
女性は首を振って言う。
「私はまだ夢を捨てていません」
「え?」
太郎が驚く間にも女性は続けて言う。
「ここへ捨てようかと思いましたが、あなたに言われて決心しました」
「あれ、えと、じゃあ」
太郎がうろたえるのを見て、女性はクスリと笑った。
「私が好きなのは柚子豆腐です」
言って、彼女は太郎に夢を返した。
返された夢から、ずっと嗅いでいたくなるような女性の柔和な匂いの後に、透き通った大豆の香りが香気芬芬とした。
「ありがとうございました。失礼します」
女性は体を折ってしっかりと頭を下げると、可愛らしく手を振って帰って行った。
「……そう言えば、君にまだ名前はなかったな」
太郎は落ち葉が寂しく舞うだけの道路の先を見ながら思い出したように言った。
対して夢は、ぽるんと可笑しく揺れた。
「そうだなあ」
ボッーと考えながら夢を撫でると、とてもツヤツヤしていてほどよい弾力があることを改めて知った。
そこで太郎は決めた。
「君の名は……!」
夢はそれに応えてか少し大きくなった。
太郎はリードをぐっと握りしめると、強い眼差しで向かい風に、一歩、強く踏み出した。