べんきょうはきらいです
「蝶花邸にようこそ」
ゴリラは丁寧に深々と頭を下げて挨拶しました。
ここは蝶花邸という特別養護老ゴリラホームです。
年中、比較的温暖な気候に恵まれた地域にあるジャングルの奥地にあります。
「私はゴリラのゴリラと申します」
「ん?」
「ゴリラ、という名前なんです。ややこしくてすみません、うほほ」
「いえいえ」
さっそく米は、エントランスに設置された机でゴリラと向かい合って説明を受けます。
「初めに。当施設の運営方針についてなのですが、とりあえず端的に一言で申しますと、尽力するということになります」
「尽力ですか」
「ええ。利用者様の幸せの為に介護に尽力する、という強い信念にございます」
米はその話を聞きながら、資料に目を遣りました。
「ここに書かれている、蝶花邸という施設名についての説明なんですけど」
「はい、それはですね。世の皆様が蝶を追いかけ花に魅とれている中で、私達職員は、ここでの仕事に尽力するという意味にございます」
「それがよく理解できなくて。ほほ、すみません」
「いえ。改めて崩して説明致しますと、蝶は夢に、花は現実になります。夢を追いかけながらも、現実を見て一生懸命に生きる方々のことを指しております」
「なるほど。しかし、それはあなた方も同じではないですか?」
「とんでもございません。私達にとってこの仕事は、生きる希望以外のなにものでもありませんから」
「よく理解できないけどかっこいい……!」
「うほん、ありがとうございます。それでは続いて。当施設を順次案内させて頂きますね」
「よろしくお願いします」
米はゴリラについて二階に上がりました。
そこにはやはり、お歳を召したゴリラがたくさんいらっしゃいました。
「私達は彼らをいつもちやほやしておりまして、テレビや本やタイヤといった娯楽も用意してストレスをできる限り少なくしています」
なるほど。
確かに彼らはちやほやされて、とても和やかな様子で過ごしておられます。
また施設のあちこちに目を遣りますと、掃除が隅々までしっかりと行き届いており、驚くほどに清潔感があって米は安心しました。
「この施設を利用されている利用者様のほとんどが、拳を利用した四足歩行で生活しておられます」
確かに、胸を張って二足で歩くゴリラはあまりいません。
「こちらが、もし入居された場合、あなたのお母様が生活される部屋となります」
部屋の入り口には、バナナの部屋というプレートが掛けられていました。
中に入ると、まず右手に洋式のトイレがありました。
「御手洗いは各部屋に用意されておりまして、利便上、カーテンによる仕切りとなっております」
次に反対の左手には小さな洗面台と幾つかの木製のタンスが並んでありました。
タンスには可愛らしいゴリラやバナナのシールが貼られていて、米の中でこの施設の印象をとても良くしました。
「一人につき一つのタンスがあてがわれます」
「鍵は簡素なものですね」
米はタンスについた棒状の鍵を上げ下げしながら言いました。
「それも利便上の都合にございます。盗難のご心配をされているようでしたらご安心を。そもそも、ここを開けようと、もしくは実際に開けられる利用者様はおりませんから」
「そうなんですか」
ゴリラは頷いて、一つのタンスを開けてくれました。
「この様に、中には衣服やタオルといった物しか入っておりません。そしてこれらは全て、名前を書いたりして私達が責任を持って管理しております」
「ふむふむ」
最後に。
部屋の奥に足を進めて、四つ並ぶベッドのうち、一番右奥の窓辺のベッドに案内されました。
「ここが今空いているベッドになります」
低いベッドにはシワひとつない、白く清潔なシーツが敷かれていました。
脇には子供の背丈ほどの簡素な棚が一つと、ベッドの真上には横長の小さな戸棚がありました。
「このベッドはリモコンの操作によって、このように高さを調節したり、頭や足を上げることが出来ます」
「ほほう。ゴリラの施設にしては近代的ですね。あ、決して馬鹿にしているとかじゃないんですけど」
「それは人間様によります技術提供のおかげでございます」
「私らのおかげですか」
「ええ。これから先、介護ロボットの導入を増やしていく予定もあります」
「へえ」
「それでは、次に参りましょうか」
「はい。お願いします」
米はゴリラについて部屋を出ると、そこから左に向かって歩き、リハビリルームに来ました。
そこには様々な器具やベンチにマット等、それとベッドが三台ありました。
「ここでのリハビリは、皆同時にではなく、一人一人に職員と時間を割り当ててしっかりと行います。例えばそうですね」
ゴリラはおもむろにベンチに寝転ぶと、足を曲げて山のような形を取りました。
続けて足を交互に伸ばして、リハビリを始めました
「本来は職員が足を持って行い、あ、ありがとうございます」
米はすかさずゴリラの足を持ってお手伝いしました。
「ゴリラライ。ゴリラライ。ゴリラライライラライウッホホ。御一緒に」
米はついて歌います。
「ゴリラライ。ゴリラライ。ゴリラライライラライウッホホ」
このリハビリは、ゴリラライのリズムに合わせて足を伸ばすようです。
ウッホホのタイミングではゴリラ本人によるドラミングが行われました。
「ウッホホのタイミングで利用様自身にドラミングを行わせるのは、言わば認知症予防の脳トレの一つになります」
「なるほほい」
「うほんっ!」
米がいきなりふざけたものですから、ゴリラは唾を飛ばして思わず噴き出しました。
「すみません、つい」
「いえ。次にお風呂場へ参りましょう」
二人はリハビリルームの向かいにあるお風呂場へと移りました。
「ここでも、それぞれ一人一人に職員と時間を割り当てて入浴を行います」
「ベッドと同じくお風呂も低いですね」
「移動がしやすいようにです。なお、お怪我をなさらないよう手摺もしっかり用意しており、何より、床のタイルはバナナの粘液を以てしても決して滑ることのない安全なものを使用しております」
「ふんふん」
「衛生面にも非常に厳しくこだわっておりまして、詳しくは後ほど資料をご覧になって下さい」
「はい」
「では次に、ここで出されるお食事の試食を行いましょう」
二人はバナナの部屋の前まで戻ると、対面に伸びる、自販機や机が用意された廊下を抜けて、デイサービスセンターと呼ばれる部屋へと来ました。
「ここは平日。デイサービス、つまり日帰りの利用様方が普段は利用されておりまして、他に催し物や、数ヵ月に一度定期的に行われます、当施設におられる利用者様の御家族様の皆様との家族交流会にも使われます」
「へえ。家族交流会ですか」
「はい。家族交流会では行事の報告や、費用の説明、私達と御家族様との意見交換などが行われます」
「しっかりしてるー」
「ささ、こちらへお座り下さい」
米は用意されていた長テーブルへと移動して、竹編みの椅子に腰掛けました。
中々しっくりくる座り心地です。
「こちらがお食事になります」
別のゴリラがそう言って、お盆に乗せた食事を運んで来てくれました。
さっきゴリラが、別ゴリラを紹介してくれます。
「彼女は管理栄養士の、心に愛と書いてココアさんです。可愛らしい名前でしょう」
そう紹介されて照れるココアさんは、まったく名前も見た目も可愛らしいゴリラでした。
「心愛です。初めまして」
「初めまして」
「食事の前に簡単なお話をさせてもらいますね」
「はい」
「ここでの食事は、私といった管理栄養士やお医者様等、多職種の者達が毎日相談して、こういった計画書を作ってこしらえております。こちらはその食事計画書になります」
見せられた紙には、とても細かく指示が書かれておりました。
「それとですね。利用者様、一人一人の栄養管理も、こういった栄養管理計画書に記載しております。これには利用者様の体調に合わせたカロリー計算や量の制限等が記載されており、御家族の方にも毎月送らせて頂いております」
「きめ細かな配慮が良いですね」
「ありがとうございます。それではお待たせしました。お食事をどうぞ召し上がって下さい」
「はい。いただきます」
「ところで今回、お品書きを用意致しました」
「これですね」
米はお盆に乗っていた、山折りにされて立つ小さな紙を手に取りました。
「そういったお品書きは、季節毎の行事食についておりまして、楽しい気分になってもらおうと、今回はゴリラのイラストなんかを添えてみました」
紙の左隅っこにはデフォルメされた可愛い女の子のイラストがありました。
しかし、ゴリラではありません。
「あの。ゴリラじゃなくて」
「人間様がいらっしゃるということで、ゴリラを擬人化してみました」
「それはお見事」
「ありがとうございます」
米は改めてお品書きを見ます。
気になるメニューは右から左へと順に書かれていました。
初めに、お品書きという文字がありまして、それから。
バナナ。
バナナのチリソース。
バナナの味噌炒め。
バナナの華風和え。
中華バナナスープ。
バナナ漬け。
果物。
とありました。
「バナナばっかりですね。ゴリラって他にも色々食べますよね」
「ええ。普段はバナナ焼きやバナナ蒸しなどもありますし、今回は中華にしてみましたが、他にも和風など嗜好を変えて飽きないように工夫しております」
「あ、果物は桃のシロップ漬か」
「バナナです」
「ああそう」
「このお食事はすっかり冷めてしまって申し訳ないんですけども。利用者様が普段食べられるお食事は、常に特殊な機械を利用して温かいものは六十五度以上、冷たいものは十度以下と定めております」
「ふむふむ」
米は感心して、丸々一本置かれた全裸のバナナをくわえました。
「そのバナナには乳化酵素が馴染ませておりまして、カルシウムを補うようになっております」
「ほほう」
「他にですね」
さっきゴリラが二つのお盆を運んで来ました。
「ココアさん。お持ちしました」
「ありがとうございます。ええ、他にですね。こういったソフトタイプとゼリータイプのお食事があります」
簡単に纏めるとこうです。
どちらも歯の弱い方の食事だということ。
ソフトは食事を刻んで潰して固めたもので、まるで厚揚げや四角いハンバーグのよう。
ゼリーは言葉通りゼリー状にしたもので、まるでコンニャクや羊羮のようです。
試食してみますと、どちらも味に劣りはなく、よく出来たもんだと米は感心しました。
「いかがでしたか」
お腹いっぱいで満足に食事を終えた米は、終わりにさっきゴリラと二人で相談を始めました。
「とてもいい所だと思いました」
「ありがとうございます。それとプライバシーの管理にも我々は厳しく努めておりまして」
「利用者もその家族も安心というわけですね」
「はい」
「しかし、ゴリラの施設に人間が入居」
「ウェルカムです」
「やった」
「あの、どうしてこちらへ入居されようと思われたのですか」
「母は動物好きでしてね。現在、老チンパジーの介護施設にいるんですよ」
「はい。伺っております」
「それでやっと審査も通りまして。あちらから、定住できるこちらを勧められてまずは見学にと」
「うほい」
「そして決めました」
「そうですか。入居されますか」
「はい。ということで、また後日改めて伺います」
「分かりました。ゴリラ一同心よりお待ちしております」
「では、今日のところは失礼します」
「どうか気をつけてお帰り下さい」
「ありがとうございます。さようなら」
「さよごりら」