秘密の湯
鼻に付くのは卵の腐った臭い。
そう。
それは硫黄臭。
俺は両手にすくい上げる。
暖かい。
既に火照った身体に染みとおる熱気。
とっくに温まった、ぽかぽかの手。
手拭を浸す。
湯気立つ手拭で拭う。
顔を拭う。
汗が取れる。
油が取れる。
汗が落ちる。
暖かい……。
先ほどまで冷え切っていた身体も嘘のよう。
ここまで登って来た甲斐があったもの。
俺だけの秘湯。
俺だけの秘密の場所。
──そう、思っていた。
岩陰の向こうに何かが揺れる。
濃い湯煙の向こうに何かが揺れる。
影。
俺だけの物と思って油断していたこの秘湯。
誰だ誰だと覗いて見る。
ゆっくり。
そろり。
足を滑らせないように。
音を立てないように。
岩を伝ってそろりそろり。
見れば、二つの小さな影。
湯煙は濃い。
小さな頭が二つかな?
「こんにちは」
反応はない。
おや、と思い寄って見れば、それは赤い顔のお猿さん。
どおりで返事が無い筈だ。
答える口がないらしい。
お猿さんにとってこの湯は日常。
俺にとっては、たまに来る穴場の湯。
でも、ここでは一緒に入るお客さん。
猿と人の違いなどあるものか。
猿にとってもお客さん。
俺にとってもお客さん。
人と猿に、何の違いがあるのかな?
俺と猿、お互いの顔が赤くなる。ああ、お猿さんは元より赤いのか。
寒いときは温まろう。
ここは俺の秘密の湯。
心が寒いときに入るもの。
お猿さんにとってはいつもの湯。
俺にとってはお客さん。
お猿さんにとってもお客さん。
「こんにちは」
通じないのは猿だから。
通じていないと思っていたのは、俺の頭が猿だから?
お猿さんの言葉はわからない。
牙を剥かれてもわからない。
通じないのは猿だから?
お猿さんにはお猿さんの言葉で返しましょう。
通じないのは猿だから?
通じていないと思うのは、俺の頭が能天気な猿だから。
ここは俺にとっての秘密の湯。
体が冷えたときに入るもの。
疲れたあとに、入るもの。
猿にとっては、なんだろね?
猿は逃げなかったのにね。犬だったら逃げたのかな?