第9話
「うーん……」
鷹見亜里砂は控え室のTV画面を見つめて考え込んでいた。
既に試合用のコスチューム――ノースリーブ・ワンピースタイプの赤いレオタード、黒い五分丈スパッツ、リングシューズ――に着替えているが、試合開始の時間はまだ先だ。
そもそも今夜誰と対戦するのか、社長の岡本からはまだ何の連絡もない。
「どないしてん、亜里砂ちゃん? 難しい顔して」
背後から付き人の大橋美鶴がひょいと覗き込んだ。
「ほっほ~、先週の試合やな? 小林先輩とのシングルマッチ。開始後たった35秒の鮮やかなKO劇やったな~」
デビュー戦である笹崎凉子との試合から半月余り。
亜里砂はあれから「ヴァルハラ」の若手選手を相手に2回対戦し、その2戦とも1分足らずのKO勝ちを収めている。
だがその試合内容は、とても彼女にとって満足のいくものではなかった。
今も3戦目となった小林礼美との対戦――リングサイドのビデオカメラにより録画された画像――を控え室のDVDデッキで再生していたのだが、やはり釈然としない感情は変わらなかった。
「鮮やかって……私、小林さんがなかなか仕掛けてこないから牽制のつもりで『滝登り』を使っただけですよ? できるだけ手加減して。なのに、あの人結局立ち上がってこなかったんです」
「多分片八百長やなぁ。あそこで立ち上がれば今度は必殺の『徹甲』を食らうだけやし……笹崎さんがあんな負け方したもんで、みんなビビリまくっとるんよ」
あの試合後病院へ担ぎこまれた凉子だが、幸い骨折には至らず翌週にはリングに復帰し試合をこなしていた。
もっともガードした上から打撲を受けた両腕に包帯を巻いた姿は傍目にも痛々しく、試合の方も持ち味の打撃技をあまり出せないうちに負けてしまったが。
しかし今思えば、最初の「滝登り」をかわしただけでも彼女は大したものだったのかもしれない。
「笹崎さんとの試合は、時間こそ短かったけどとっても充実してました。でもその後の2試合は……」
公式記録の上ではKO勝ちといっても、あれではとても「試合」と呼べるものではない。
店の客の方は女子中学生レスラーの「神技」ともいうべき逆さ蹴りを見ただけで満足したように喝采していたが、亜里砂にしてみればまだ「筋書き」のある普通のプロレス試合の方がマシに思えるくらいだ。
亜里砂は顔を上げ美鶴の方へ振り返った。
「大橋さんはどう思います? この試合」
「ん~……有り体にいえば『ファイトスタイルが噛み合ってない』って感じ?」
「どういうことでしょう?」
「恒河流のことはよう知らんけど、つまりは一撃必殺の実戦武術やろ? それに引き替えプロレスはお客さんにファイトを見せることが前提やから、相手の技は原則全部受けなあかんのや」
「でも笹崎さんは」
「あの人は元キックボクサーやから。つまり亜里砂ちゃんとの試合は『プロレス』ゆーよりキックボクシングと恒河流の異種格闘技戦だったんやろなあ」
「……」
「空手やボクシングもそうやけど、普通の格闘技なら相手が何か技を仕掛けてきたらかわすか、ガードするか、受け身をとるかするやろ? でもプロレスラーにはそれが許されへん。たまには相手の技を空振りさせることもあるけど、それは試合にメリハリをつけたり流れを変えたりする時で、しょっちゅう逃げてばかりいたらお客さんからチキン呼ばわりされても文句いえんのや」
「ええと、それは最初の日に見せてもらった試合で分かりましたけど……プロレスラーの人たちはそのために身体を鍛えて、並の格闘家よりずっと打たれ強いボディを作ってるんじゃないですか?」
「それはそうやけど……これが同じプロレスラー同士なら、相手の動きを見ればどんな技を仕掛けてくるかある程度予想がつくから、こっちも技を受ける心構えができる。でも恒河流にはどんな技があるのか、亜里砂ちゃんがどう仕掛けてくるかさっぱり読めんから、みんなその恐怖心が先に立ってしまうんやろなぁ。まして笹崎さんを身体ごと吹っ飛ばす『徹甲』みたいな必殺技を見せられた後じゃ」
「このままじゃプロレス以前に試合になりませんよ……どうすればいいでしょう?」
「そやなぁ……亜里砂ちゃんがプロレスを勉強したらええんちゃう?」
「私が?」
「うちらは『道場』って呼んでるけど、この会場とは別に、『ヴァルハラ』で借り切ってるスポーツジムがあるんや。亜里砂ちゃんもそこに入って、みんなと一緒にプロレス流のトレーニングを受けるんよ。もちろんプロレス技も教えてもらえるし」
「本格的なプロレスラーになるってことですか……」
「そや。亜里砂ちゃんがプロレスもできるようになれば、ある程度試合の流れも組み立てられる。恒河流の技は最後のフィニッシュホールドにとっておけばええやん」
その提案に、亜里砂はやや心を動かされた。
これまで自宅で行っていた恒河流の「稽古」だが、昔「師匠」に教わったやり方をひたすら繰り返しているだけなので、そこから先をどう学べばよいか分からず彼女自身密かに悩んでいたからだ。
またプロレスの道場ならば他の選手を相手にしたスパーリング、すなわちより実戦に近い訓練も可能だろう。
「もちろんトレーニングは厳しいで~。基礎トレまでは他の格闘技と似たようなもんやけど、おっかないのはその後のスパーリング。先輩レスラーの人らからガチのプロレス技をガンガンかけられるんや。フルコン空手の経験があるうちでさえ、最初は単なる虐めかと思ったくらいや……けど、そこをじっと堪えてるうちに、何となく『プロレス』っちゅうもんが身体で理解できてくるんやなぁ……って、まだリングデビューもしとらんうちがいうのもおこがましいけどな」
「でも、私まだ中学生だし……学校と掛け持ちできるかどうか」
「そりゃ心配ないわ。ジムの近くにある選手寮に入ればいいんや」
「寮、ですか?」
「昼間は学校に通って、試合のない夜や休日に道場でトレーニングすればいいやん。食費や光熱費はタダやし、他の練習生や先輩選手と共同生活するのも結構楽しいで?」
そういって、美鶴は屈託なく笑った。
「ちょっと……考えてみます」
ちょうどそのとき、壁のインターホンから聞き慣れた声が響いた。
『岡本だ。待たせて悪かったな、今夜の対戦相手が決まったから報せに来たよ』
◇
「いやあすまなかったねぇ。デビュー以来の3連勝でうちの若手連中すっかり腰が引けちまって、君とやれと命じてもみんな『あの子とだけは勘弁して下さい!』って泣きそうな顔で断ってくる始末。いやはや、全く困ったもんだ」
「あのう……」
「いや心配はいらん。今回はこちらも思い切って『格上』の選手を出すことにしたから。ほれ」
そういいながら岡本に渡された資料には、亜里砂にも見覚えのある顔が写っていた。
「ええっ、小栗さんと!? ホンマでっか」
脇から覗き込んだ美鶴の方が驚いて声を上げる。
金色に染めた髪をパンク風に逆立て、顔中に禍々しいペイントを施した女のふてぶてしい顔。
「ダイモン小栗。うちの団体でも5本の指に入るメインイベンターだ。相手にとって不足はあるまい」
亜里砂はデビュー戦のため初めて「ヴァルハラ」の試合会場、正確には会員制高級クラブ「パラスト」を訪れたあの日、店内で観戦したリングで戦っていた女子レスラーのプロフィールに目を通した。
『身長172cm、体重90kg。かつては高名な考古学者の助手であったが、古代バビロニア遺跡の調査中に4千年の封印を解かれた魔神に憑依され悪のプロレスラーとして覚醒。プロレス界を暗黒に染め上げるべく日々凶悪ファイトを繰り広げる』
「……これ、ホントですか?」
「もちろんハッタリだ」
岡本は肩を竦めて苦笑した。
「この小栗って選手なあ、学生時代は女子柔道の全国大会に出場した程の腕前で、実力的には申し分ないんだが、いかんせんキャラが地味すぎて」
「地味って……何かキャラ立ちまくってますけど」
「いやいや、だからこうして悪役のペイントレスラーとしてハクを付けてるんだよ。プロレスラーはお客にインパクトを与えてナンボだからねぇ」
悪役レスラーの存在については亜里砂も子供の頃にTVで視たプロレスで知ってはいる。
だがいざ実際にリングで戦うとなると、恒河流のファイトスタイルと噛み合うのか、いやそれ以前に「試合」になるのか甚だ不安であった。
「それで……私はいつも通り『本気』でいいんですよね?」
「もちろん試合そのものは真剣勝負で構わんが……今回に限って、ひとつ協力して欲しいことがある」
「何でしょう?」
「今も話したとおり、今までの対戦相手と違い小栗は悪役の大物だ。つまりフェイスペイントや反則上等のラフファイトも、プロレスラーとしての『スタイル』であり『セールスポイント』でもある。だからその点についてだけ、あいつの顔を立てるため少しばかり手伝って欲しいのだよ」
「えーと……私、どうすればいいんでしょうか?」
「それはこれから説明する」
◇
自らの入場曲として選んだ軽快なポップミュージックが流れる中、店内中央に仮設されたリングの青コーナーへ上ると、既にダイモン小栗は赤コーナーで待ち構えるように仁王立ちしていた。
試合用コスチュームである黒いワンピース水着の上に着た黒レザーのジャケットは、至る所銀色に光る尖った鋲で飾られている。
覚悟はしていたが、こうして間近で向かい会うと、やはり大きい。
身長差20cm以上、ウェイトに至っては2倍以上。
一見鈍そうなアンコ体型であるが、元柔道選手というだけあってパワーだけでなくテクニックの方も決して侮れない。
(組まれたらきっとこちらが不利になる……それでも、相手の懐に飛び込んで死中に活を見出すのが恒河流……!)
「おらぁ、そこのガキ! テメーまだ中学生だろう!」
レオタードの上に格闘戦用グローブ、ニーパッド、レガースを装着した亜里砂がリングに立つなり、小栗は太い指を突きつけ凄まじい剣幕で挑発してきた。
「こんな時間にこんなトコで中学生が何遊んでやがる! 宿題ちゃんと済ませたのかよ!?」
一瞬、亜里砂はビクッと身を震わせた。
「ご、ごめんなさい! 宿題は帰ったら必ずやりますっ」
「ちょ、亜里砂ちゃん」
セコンドとしてリング下にいる美鶴が呆れたように窘めた。
「何やっとんねん? こっちもガーンと言い返さな!」
「でも、明日の宿題まだやってないし……」
「安心しな! これから病院送りにして、明日の学校はゆっくり休ませてやるからよ!」
リングアナウンスによる両選手の紹介。
続いてレフェリーによるボディチェックが始まる。
といっても、グローブやレガースが正しく装着できているか、凶器を隠しもっていないかなどを簡単に確かめるだけの、ごく形式的なものだが。
亜里砂は青コーナーに立ち、レフェリーがよく見えるよう両手を広げた。
と、その瞬間。
赤コーナーでふいにしゃがみ込んだ小栗が、自分のニーパッドに手を入れ「何か」を取り出した。
次いで、雄叫びを上げて突進し、背後からレフェリーを押しのけ無防備な亜里砂に襲いかかる!
その右手に握られていたのは、銀色に光るフォークだった。