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第5話

 生まれて初めて乗るベンツの車内を物珍しげに見回したあと、亜里砂は運転席の長谷川に話しかけた。


「……あの、おケガの方は?」

「おまえに言われた通り、病院でレントゲンを撮ったら肝臓がパンパンに腫れてた。しばらく酒は控えろとさ」

「ご、ごめんなさい……あの時は私も突然だったから」

「気にするな。こっちから売った喧嘩だ」


 バックシートの隣に座る岡本へ振り向き、


「さっきはありがとうございました。危ないところを」

「なに、礼には及ばん。それより鷹見君、君は既に『プロ』なんだ。くれぐれも素人相手の喧嘩は慎んでくれたまえよ」

「でも、あれは――」

「連中のバックは豪矢会。この界隈を仕切る……まあ地回りのヤクザだ。あそこの組長には仕事で付き合いがあるから、後で私から話をつけておこう。今後、二度と君や君のボーイフレンドに手を出さないようにね」

「ボーイフレンド?」


 一瞬きょとんとした亜里砂だが、すぐ貴文のことと気付くと、


「あ、あの! 東君は単なるクラスメイトで――全然、そんなのじゃありませんからっ!」

 わたわた両手を振って否定した。

「そうか? まあいい。それより会場に着くまでに本契約の書類と……あといくつか手続きの必要があるから、急いで済ませよう」


 ブリーフケースから取り出したボールペンと書類の束を渡してくる。


「この欄に署名と、印鑑は……ないなら拇印で構わない」

「は、はい」


 契約書の内容をゆっくり読む暇もなく、亜里砂は言われるままにサインし、人差し指を朱肉に付けて拇印を押し続けた。


「手続きの方はこれでよし、と……じゃあこれがうちの団体の公式ルールだ。一応目を通しておいてくれたまえ」

「えーと、試合形式は通常30分1本勝負……勝敗は3カウントのピンフォール、ギブアップ、10カウントのKO、TKO、ドクターストップ……」

「まあ一般的なプロレスルールだよ。反則といっても目つぶしだの噛みつき、凶器攻撃以外ならある程度大目に見られる。拳の打撃は原則禁止だが、専用のグローブをはめていればそれもOKだ」

「……」


 ルールブックにざっと目を通した亜里砂は、やがて顔を上げると、さっきから気になっていた疑問を口に出した。


「あのう……プロレスの試合に筋書きがあって、予め勝敗も決まってるって……ホントですか?」

「ああ、それは――」


 何か言いかけた長谷川の言葉を遮るかのように、岡本が口を開いた。


「そんな話、誰に聞いたんだい?」

「クラスの友だち……さっき一緒にいた男の子ですけど」

「いけないねぇ、他人の話をすぐ鵜呑みにしちゃ。若い者はもっと自分の目で確かめ、自分の頭で考えなきゃ」


 サングラスの男はかぶりを振りながら肩を竦める。


「違うんですか?」

「確かにそういう団体もある。だがうちの『ヴァルハラ』は紛れもなく真剣勝負。それがウリなんだから」

「じゃあ、私も……本気で戦っていいんですね?」

「当然だ。いやむしろプロ相手に本気でかからなきゃ、君の方がケガするはめになるよ?」

「分かりました」

「早速だが、今夜のデビュー戦で君の対戦相手になる選手だ。こちらも目を通しておくといい」


 最後に渡された書類は対戦相手の写真入りプロフィールだった。


笹崎凉子ささざきりょうこ、20歳……身長162cm、体重56kg……」

「プロレスラーとしてはまだ新人だがな、元女子キックボクシングのバンタム級で試合した経歴もある実力派だ。スタイルは同じ打撃系だから相性はいいんじゃないか?」


 写真に映っているのは目つきの鋭いベリーショートの若い女。

 いかにも向こう気の強そうな顔つきだ。


「この人と、今夜リングの上で……」


 街で絡んできた不良たちや自宅に取り立てに来た長谷川とのストリートファイトは、亜里砂としては降りかかる火の粉を払うためのやむを得ぬ戦いだったが、今度は違う。

「プロレスラー」としてリング上で相まみえる初の対戦相手。

 確かに漠然と「プロの格闘家」に憧れていた亜里砂だが、突然予期せぬ形で夢が実現してしまったことに戸惑いと緊張を覚えざるをえない。

 だが同時に、胸の奥から何か熱いものがこみ上げてくるのを感じ、少女は目をつむり大きく深呼吸した。


 そうして小一時間も走っただろうか。

 やがてベンツはどこか大きなビルの地下駐車場へ滑り込んで停車した。

 車から降りると、駐車スペースの前で待ち詫びるように立っていた女性――歳は17、8、「ヴァルハラ」のロゴ入りTシャツにジャージという軽装だ――が駆け寄り、腰を折って深々頭を下げると、


「社長、おはざーす!」


 構内に木霊するほど元気な大声で挨拶してきた。



「あれ? ここで試合するんですか?」


 プロレスの試合といえば、どこかのホールや体育館といった公共施設をイメージしていた亜里砂はやや意外な気分で尋ねた。


「うちはプロレス興行としてはちょっと特殊な形式を採用していてね。まあ詳しいことは、そこにいる大橋から聞くといい。リングコスチュームとか必要なものは全てこちらで用意したから、あとは彼女に控え室まで案内してもらいたまえ」


 それだけ言い残すと、車を降りた岡本は部下の長谷川と共にエレベーターの方へ立ち去っていった。



「しかし、あんなこと言っちゃってよかったんですか?」


 エレベーターに乗り込んでから、長谷川が声を落として岡本に尋ねた。


「何が?」

「うちだって他の団体同様やってるじゃないですか? 演出アングルを組んで、毎回の試合の筋書き(シナリオ)も事前に作って……っていうか社長たちがマッチメイカーでしょう?」

「おまえなぁ……これからリングデビューしようってお嬢ちゃんにそんな話してみろ。やる気をなくしてしょっぱい試合になるのは目に見えてるじゃねぇか」

「相手の笹崎には何と?」

「『好きに料理してやれ』とな。だから今夜の試合に関しては間違いなく真剣勝負セメントだ。俺は嘘なんかついてねぇだろが?」

「どうでしょう? 鷹見の方はともかく、いくら何でも中学生が相手じゃ笹崎もやり辛いんじゃないですかね」

「心配するな。笹崎の方はうまく焚きつけておいたから。ただでさえよその格闘技から転向してきた連中はプライドが高い。そこをうまく衝けば、ヒットマンに仕立て上げるなんざ簡単なことさ」

(うわっ、えげつねえ……)

 上司のあざとさに思わず閉口する長谷川だが、さすがに口には出さなかった。

「ところで鷹見が『師匠』って呼んでる例の男……赤月源次あかつきげんじの居場所は分かったか?」

「それが……鷹見の父親から聞いた実家の番号へ電話しても、もう使われてませんでした。どうやらまた引っ越したようで……」

「興信所に依頼しろ。何としても赤月の行方を突き止めるんだ」

「それはいいですが……もし見つかったとしても50過ぎのロートルですよ? ネームバリューのある元人気レスラーだっていうならともかく、今からデビューさせるのはさすがに難しいと思いますが」

「いや別にレスラーにしようとは思ってねぇ。第一うちは女子プロだろが? ただ個人的に会ってみてえんだよ、『恒河流』を編み出したっていうその男に」

「もしかして社長、お知り合いなんですか?」

「……」

 岡本は答えなかった。

 こういう場合、「返答する必要はない」か、「その話はそれ以上するな」かどちらかの意思表示であることを、部下として長年勤めた経験上長谷川も知っている。

 そこで2人の会話は途絶え、エレベーターが行き先の階に着くまでどちらも黙したままだった。




「はじめまして! うち、練習生の大橋美鶴おおはしみつるいいます。社長から鷹見さん担当の付き人をいいつけられました。どうぞよろしゅうお願いしまーす!」


 関西弁で挨拶すると、セミロングの黒髪をおかっぱ風に切りそろえた女子選手がまた深々と頭を下げた。

 身長はクラスの男子生徒とほぼ同じくらい。

 練習生といえども、レスラーだけあって体格も亜里砂よりずっと大きい。


「ええっ付き人!? そんな大袈裟な……あと名前は呼び捨てでいいですよ、大橋さんの方が年上じゃないですか」

「ええの? ところで亜里砂ちゃんは何の選手やったの? 空手? 柔道? ひょっとして国際大会なんかで優勝しとるとか?」

「えっと……そういうのは、ないです」

「またまた~。謙遜せんでえーよ? いくら何でも素人さんがいきなりリングデビューできるわけあらへんがな」

「やっぱりそうでしょうか?」

「たとえばうちかて、極星会空手の初段なんよ?」


 そういうと、美鶴はちょっと得意げに空手の構えを取った。


「極星って、あの実戦空手の? すごーい」

「それでもなあ、トレーナーの人からは『まだ体が出来てない』いわれて、なかなかリングに上げてもらえんのや。ホンマ、プロの世界は厳しいねんな~」

「そ、そうですね……アハハ」


 亜里砂は内心で冷や汗ものだった。

 大会はおろか、空手や柔道など正式の道場に通ったことすらない。

 小学校3年生の時から工場の社員・赤月から拳法を習い始め、彼が退職したあとも3年間、独りで稽古に励んできただけだ。

 そもそも「恒河流」といっても自分以外に同門の者がいるのか、それさえ分からない。

 詳しい話を赤月から聞いているはずなのだが、いかんせん幼い頃のことなので良く覚えていないのだ。

 ただはっきりと心に刻まれているのは、


「恒河流を完全に習得すれば、もうどんな大男でも敵ではない。おまえは世界で一番強い女になれるんだ」


 という「師匠」の言葉。

 中学に上がって間もなくの頃、体の小さな亜里砂はさっそく上級生の不良たちから目を付けられ、3年の女子生徒数名から校舎裏へ呼び出され脅されたことがあった。

 最初は殴りかかってくる相手の攻撃をひたすら避けていたが、いつまで続けてもラチが開かないと思い、やむなく反撃した。

 目一杯手加減した直突き。

 驚いたことに、それでも相手のリーダーは一発で失神してしまった。

 すぐ保健室で意識を回復し大したケガではなかったこと、相手が校内でも有名な不良グループだったこと、状況から見て亜里砂の正当防衛であったことなどから学校側からの処分は免れたものの、父親の勲からは


「拳法は喧嘩の道具じゃねえぞ! 赤月さんに対して申し訳ないと思わないのか!?」


 と自宅で散々叱責され、以後は先日大人の不良たちに絡まれるまで「実戦」は固く自重してきたのだ。


 それが今夜、いきなりのリングデビュー。

 同じ「ヴァルハラ」所属選手でも練習生としてデビュー戦目指しトレーニングに励んでいるであろう美鶴に対しひどく後ろめたい気分を覚え、亜里砂は何とかこの話題を逸らそうと思案した。


「……そ、そうだ! もしよかったら、今夜の試合会場とか下見させてもらえますか?」

「せやな。まだ試合まで時間もあるし……これから案内したるわ」



 選手控え室のパイプ椅子に座り、笹崎凉子は黙々と試合用シューズの紐を結んでいた。

 リングコスチュームはハーフトップのスポーツブラにショートスパッツ。

 他の選手たちに比べると一見スリムだが、くっきりと腹筋が浮き出た臍の辺りは彼女が長年のトレーニングにより一切の贅肉をそぎ落とした「戦闘型」ボディの持ち主であることを物語っている。


「よう笹崎。おまえ今夜、JCと試合するってホントかぁ?」


 先輩レスラーの1人に声をかけられ、凉子はちらっと顔を上げた。


「……はい。今朝方、社長から電話で言われました。鷹見亜里砂、15歳……中学3年だそうです」

「へえ。ところでその鷹見って誰だ? 新人アイドルか何か? お! するとバラエティー番組の収録でTVカメラ入んのかな?」

「いえ、社長によればそういう類いの試合ではなく……れっきとした『公式戦』だそうです」

「はあ? じゃあ一応プロ……なんだよな?」

「拳法の心得があるそうですが、リングでの試合経験はゼロ。事実上の素人ですね」

「何だそりゃ?」


 話を聞いて、さすがに先輩も眉をひそめる。


「で、筋書き(シナリオ)はどうなってんのさ? まさかおまえが負け役ってこたぁねえよな?」

「『好きに料理しろ』とだけ」

「はぁ~、うちの社長も何考えてんだか……あの人普段は商売にシビアかと思えば、時々突拍子もないこと言い出すからなぁ」

「……これも仕事ですから」

「ま、大ケガさせねえ程度に可愛がってやんな。……しかし羨ましいねぇ。そんなガキ相手のお遊びみてーな試合でファイトマネーが稼げるなんてさ」

「……」


 凉子は今朝スマホにかかってきた岡本との会話を思い返していた。


「何のご冗談でしょう? それともTVドラマの撮影ですか」

『いや、ガチの公式戦だ。うちの長谷川は知ってるだろ? 鷹見亜里砂はな、あいつを瞬殺でKOしやがったんだぜ』

「まさか……」

『信じられねえ気持ちは分かる。いや実際この目で見た俺だって夢かと思ったよ』

「失礼ですが長谷川さんは既に現役から引退された方です。たまたま体調を崩されていたか……でなければ相手が子供ということで故意に負けたのでは?」

『その可能性もあるから、キックの経験もあるおまえさんを見込んで彼女の実力を査定して欲しいんだよ』

「そういうことなら……リングよりも道場の方で入門テストをした方が確実ではないでしょうか?」

『ビジネスにはタイミングってもんがあってな。今回は将来のためにテストだトレーニングだとか悠長なこたぁいってられねえ。俺は自分の拾ったダイヤモンドが本物か偽造品か、今すぐそいつを確かめてぇんだよ』

「つまり……真剣勝負セメントでやれということですか?」

『そうだ』

「もし私の目から見て、プロに値しないと判断した場合は……」

『好きに料理しろ。潰しても構わん。言っちゃ何だが、おまえさんに負ける程度なら、こっちもわざわざ手間暇かけて鷹見を売り出す意味はねぇからな』


(私に負ける程度、か……随分と舐められたものだな)


 中学生の頃からキックのジムに通い始め、およそ7年。

 18の歳にプロデビューを果たし、女子キックのリングでは3戦全勝。

「将来は世界王座も狙える逸材」と周囲の期待を集めたものの、日本で女子キックボクシングはまだマイナーな格闘技である。

 ジムの経営が破綻を来たし、莫大な借金を抱えたオーナーは夜逃げしてしまった。

 オーナーを信頼し、借金の連帯保証人となっていた凉子の実家にも債権者である岡本と用心棒の長谷川が乗り込んできた。

 最初はヤクザ同然に凄んでいた岡本だが、凉子のキックボクサーとしての実績を知るや突然態度を軟化させ、借金返済の猶予を条件に自らが経営する「ヴァルハラ」にスカウトしてきたのだ。

 キックボクサーとして真剣勝負のリングを体験した凉子にとって、女子プロレスなど所詮は「格闘技に見せかけた茶番」としか思えなかったが、自分の問題に巻き込んでしまった両親のためにも同意せざるを得なかった。


 そして「ヴァルハラ」に入団してからはまた一介の練習生としてやり直し。

 皮肉なことにキックでの実績を持つ凉子は他の古参レスラーから「よそ者」として敵意と嫉妬の視線を浴び、道場ではトレーニングに名を借りた陰湿ないじめも受けた。

 それでも歯を食いしばって耐え続け、ようやくリングデビューを果たしたその矢先――。

 今度は何処の馬の骨とも知れぬ女子中学生と真剣勝負セメントで戦えという。


(バカにしやがって――)


 ギリッ。凉子は怒りを堪えながら唇を噛んだ。


(鷹見亜里砂……おまえが子供だろうが素人だろうが容赦はしない。今夜の試合で、徹底的に潰してやる!)

本文中の「実戦空手」という表現について。

空手には大雑把に分けていわゆる寸止めで組手をする「伝統派空手」、実際に殴り合う「フルコンタクト空手」の2種類があります。

本作で「実戦空手」と表現するのは主に後者のフルコンタクト空手です。

もっとも近年では各種防具の普及により従来の伝統派空手でもフルコンタクトに近い試合形式を取る道場も増えたため、必ずしも「伝統派=寸止めのみ」とはいえなくなりましたが。

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