第4話
「ねえ東君、聞きたいことがあるんだけど」
放課後、自分の席で帰り支度を始めた貴文が顔を上げると、そこにいつもなら真っ先に帰っているはずの亜里砂の姿があった。
貴文は内心でちょっとドキリとする。
2人からカツアゲしようとした不良どもを亜里砂が叩きのめしたあの事件から、2週間余り。
特に彼女から口止めされた、というわけではないが、貴文はあの件を他のクラスメイトにもまだ話していない。
「何ひとつ出来ぬまま女の子に助けられた」という自分の立場がいかにもカッコ悪く後ろめたいという理由もある。
だがそれ以上に、あの日の出来事は「2人だけの秘密」にしておくことが、貴文的には何となくロマンチックな感じでイイと思っていたのだ。
「な、何かな?」
「東君、格闘技のこと詳しいんだよね?」
「うん、まあ……」
「ならプロレスのことも知ってる?」
「まあ一応は――って、え?」
貴文は亜里砂の顔をまじまじと見つめた。
本人は至って真面目な表情だ。
「ちょっと待て。鷹見が前に『格闘家になりたい』っていってたの、あれ女子プロレスのことだったのか?」
「えっと……まあ、そんなとこ」
「……おまえ、プロレスのことどれくらい知ってるの?」
「小さい頃、毎週TVで視てたくらい。『バーニング・ギャルズ』が好きだったから」
「バーニング・ギャルズ」はまだ女子プロレスがTVでも全国中継されていた頃の人気タッグチーム。
タッグを組む加納エミの華麗なテクニックと伊藤マキの豪快なパワーファイト。加えて2人がアイドル並みに美人でプロポーションも抜群だったことから人気が沸騰、やがて本当のアイドルとしてステージデビューを飾ったほどだ。
それまでプロレスと無縁だった若い女性からも数多くのファンを集めたことでも有名である。
といっても既に昔の話。
今ではクラスの女子はもちろん、男子でさえ休み時間にプロレスを話題にする者はいない。
そのため貴文でさえ自分が「格闘技オタク」ということを余り表に出さないよう気をつけている。
亜里砂は1冊の薄い雑誌を差し出し貴文に見せた。
「コンビニでプロレス雑誌も買って読んでみたんだけど、女子プロのことはちょっとしか書いてないし……」
「『週間リング』? うわ、懐かしっ! これまだ続いてたのかぁ」
かつては複数の出版社がプロレス雑誌を出して部数を競っていた時代もあった。
だが現在はそれもすっかり下火になり、週間雑誌は次々と休刊し、スポーツ新聞がたまに一面記事にする程度だ。
「ま、この手の雑誌はどうしても男子プロレスの記事がメインだからなぁ……ってそれよりも」
貴文は声を落とし、亜里砂に顔を寄せてそっと囁いた。
「プロレスだけはやめとけって。第一もったいない。おまえ本当に強いんだから、他の格闘技で充分通用するじゃないか」
「何で? プロレスだって格闘技でしょ」
「いや、あれは格闘技に見せかけたショーだよ。たとえば試合には全部筋書きがあって、勝ち負けとかも始めから全部決まってるんだから」
「それって八百長ってこと?」
「いや、ちょっと違うんだけど……」
貴文は机の上に自分のカバンを置き、急いで教科書やノートをしまい始めた。
「ちょっと待ってろ。話すと長くなるから、帰り道で説明するよ」
◇
「『八百長』ってのは元々相撲の世界で出来た言葉らしいけど……ほら、今だって大相撲で八百長疑惑が起これば、TVのニュースや新聞、雑誌でも報道されるだろ?」
下校の道すがら、貴文が隣を歩く亜里砂に説明してやる。
その姿は2人の身長差のためか、同じ中学の制服を着ていなければ、クラスメイトというより小学生の妹を連れているかのように見えただろう。
「逆にいえば、大相撲はあくまで真剣勝負が前提になってるからこそ、一部の力士が八百長したことがバレれば大問題になる。これはボクシングや柔道、アマレスなんかでも同じだけどね。でも『プロレスの八百長疑惑』なんてTVでニュースになったことあるかい?」
「どういうこと? プロレスだと八百長しても許されるの?」
「許されるっていうか……そもそもプロレスの場合、試合自体がお芝居、ぶっちゃけ一種の見世物だから、勝ち負けはそれほど重要じゃないんだよ。最初から筋書きが決まったお芝居に『八百長だ!』なんて文句つけるヤツはいないだろ?」
「じゃあプロレスの勝ち負けや筋書きって、いったい誰が決めてるの?」
「一般的には『マッチメイカー』って役目の人がいて、大抵はその団体を運営するフロントや一部の古参レスラーが担当するそうだけど……まあ演劇でいう舞台監督や脚本家みたいなもんだね。で、そのマッチメイカーが『アングル』っていう特別な演出や、試合ごとの筋書きを決める。細かいことは試合する選手同士が事前の打ち合わせやアドリブでやる場合もあるし、時には筋書き通りに進まなくてアクシデントが起きることもあるけど、つまりはそういう『暗黙のルール』に従って動いてるんだよ。プロレス業界そのものが」
「それって、みんなが知ってることなの?」
「うーん……昔は『プロレスは八百長か?』って問題でファン同士が熱く議論した時代もあったけど……引退した有名選手や団体関係者が色々暴露本なんか出したから、今や少し格闘技に詳しい人間の間じゃ『常識』だね。もっともプロレス専門のメディアや自称『プロレス通』のタレントなんかはそんなことおくびにも出さないけど」
「ふうん」
「アメリカのメジャー団体じゃ大っぴらに『プロレスはエンターティメント』と公言して、アングルを組むのにプロの脚本家まで雇ってるそうだぜ? まあエンタメならエンタメに徹して本格的にやっちゃうのがあの国らしいけど」
「ならプロレスラーって本当は弱いの?」
「いや弱いってことはないよ。たとえお芝居でも、リングの上で大技をかけたり受けたりするには人並みの体力じゃ無理だし、他の格闘技やスポーツの一流選手がスカウトされてプロレスラーになるケースも多いし……」
「へえ」
「でもさ、常識で考えてみろよ。大相撲やボクシングの世界タイトル戦で、選手が反則の凶器攻撃やったり場外乱闘になったらどうなる? お客は『金返せ』って暴動になるだろうし、選手は協会から処分されて永久追放されちゃうよ。でもプロレスの場合、大して問題にならないっていうか……むしろ凶器攻撃も場外乱闘も全部『試合の一部』として大目に見られてる。暗黙の了解っていうヤツ? そんなのプロレスくらいだろ」
「……」
「だからさ、悪いことは言わない。本気で格闘家になりたいってんなら、オリンピックの正式種目にもなってる柔道、アマレス、ボクシングあたりにしとけよ。もちろん空手でも構わないけど、あれはいま流派が乱立して色々ややこしいことになってるし……とにかく鷹見は才能あるんだから、どの種目だって必ずトップクラスの選手になれる。将来はオリンピック出場も夢じゃないぜ? まあそうやって実績を作っておいて、その後で総合格闘技に転向するのがお勧めプランかな?」
「でも……それじゃ借金が返せないし」
「え、何だって?」
ぽつりとこぼした亜里砂の呟きを聞きとがめた貴文が問いただそうとした、その時。
突然黙り込んで立ち止まった貴文の様子を不思議に思った亜里砂が前方を見やると、そこに見覚えのある若者2人組の姿があった。
「よぉーお。こないだは世話になったなぁ」
「今日も2人でお帰り? お熱いこったねぇ」
「あいつら、あの時の……!」
「またぁ? はあ、懲りない連中ねえ」
亜里砂はうんざりしたようにため息をついた。
鉄板入りのスポーツバッグを路面に下ろし、怯える貴文を背中に庇いつつ進み出る。
「お金なら払いませんよ」
「あー、いいからいいから。あの時の借りはお嬢ちゃんのカラダで返してもらうからさ」
「た、鷹見ぃ……!」
はっとして振り返ると、2人組の仲間らしき別の男が、貴文を背後から押さえつけ片手に持ったバタフライナイフをちらつかせている。
「ほらほら、下手に暴れたら大事なカレシが傷モノになっちゃうよ~?」
3人だけではない。
近くの路地や建物の陰から、さらに数名の男たちがニヤニヤ笑いながら姿を現した。
おそらく最初から計画的に亜里砂たちを待ち伏せしていたのだろう。
「東君は……関係ないでしょ」
「なら大人しく両手を出しな。おっと手を開いて、親指をくっつけるようにしてな」
「……」
亜里砂は悔しげに唇を噛むが、他にどうすることも出来ず、相手のいいなりに両手を差し出した。
2人組の一方がプラスチック製の結束バンドを取り出すと、彼女の左右の親指を縛るや力一杯締め付け、止める。
「よーし。イイ子だ」
「うぇへへへ……プロレスラーだってコレは外せないぜ」
少女は少しだけ痛そうに顔をしかめるが、声は立てなかった。
「計画通りだ。車をこっちに回せ」
後方で不良たちのリーダーらしき年長の男が、スマホに指示を出している。
「おい、どうするよ、このガキ?」
「決まってんだろ? ガキだって立派に女じゃねーか。げへへへ……どっかの山ん中に運んで、それからブッ壊れるまで――」
不良たちの言葉は途中で途切れた。
背後の左右からぬっと現れたグローブのような掌が2人の頭をつかみ、そのままクラッカーのごとく叩き付けたのだ。
グシャっと鈍い音が響き、2人の若者の両眼が白く裏返る。
鼻血が流れ落ち、口から泡を吹きながら糸の切れた操り人形のように崩れ落ちた。
「迎えに来たぞ、鷹見」
その向こうに、身の丈2m近く、鼻の潰れた黒スーツの大男が仁王のごとく立っていた。
「長谷川……さん?」
「先週電話したろうが。今夜がおまえのデビュー戦だ」
足元で失神した2人には目もくれず歩み寄ると、スーツの内ポケットから取り出したスイスアーミーナイフのハサミを使い、亜里砂の親指を縛るプラスチックバンドをパチンと切った。
「あ! そうだった」
「先に家の方へ寄ったんだが、親父さんから『今ちょうど下校してる頃』と聞いてな」
「明日と勘違いしてました……」
「な、何だこいつ!?」
「ひっバケモノ……!」
一方、残りの不良たちは突如現れた巨漢を前にパニック状態と化している。
「うろたえるんじゃねえ! 人数はこっちが多いし人質もいる!」
リーダーの男に怒鳴りつけられるや、気を取り直した不良たちは手に手にナイフやスタンガン、催涙スプレー等を取り出し身構えた。
「おやおや。街中で物騒なモノを振り回すのは感心せんねぇ」
長谷川の背後から、高級ブランドスーツに身を包み、サングラスをかけた恰幅の良い中年男が現れた。
「そのお嬢さんとはこれから仕事の打ち合わせがあるんだ。すまんが君らはお引き取り願えないかね?」
「誰だテメーは!?」
「私? 私はこういう者だが」
中年男が差し出した名刺をひったくったリーダーは、その肩書きを読むなり顔色を変えた。
「『オカモト金融』……ま、まさか鬼のオカ金!?」
「鬼かどうかはともかく、この界隈じゃ『オカ金』の通り名で知られているようだね」
「おまえら武器をしまえ! 相手が悪いっ!」
「どうしたんスか先輩?」
「こいつら何なんです? ヤクザですか」
事情の呑み込めない他の不良たちが、口々にリーダーに問いかけた。
「いや、違うが……こいつら、ヤクザよりタチが悪い……」
「そういう君は豪矢会さんの事務所で見た顔だね? 組員かい」
「とんでもない! 俺なんざ、ほんのパシリで――」
「だとしても……こんな所でカタギ相手にやんちゃしてることを知ったら、組長さんはどう思われるだろうねぇ」
「後生です! こ、この件は組の方へはご内密に……」
「ならすぐに消えたまえ」
「は?」
「聞こえねぇのか!? 目障りだからとっとと失せろっていってんだろがボケ!!」
一転してドスを効かせた岡本の恫喝を浴びるなり、不良たちは捕らえていた貴文を突き放し、替わって気絶した仲間2人を抱えてほうほうの体で逃げ去っていった。
「……ったく、ウジ虫どもが」
路上に唾を吐くと、岡本は唖然とする貴文に振り向き、再び穏やかな口調で告げた。
「というわけで、この鷹見君はこれから大事な『仕事』なんだ。申し訳ないが、君も今日は1人で帰ってくれたまえ」
「はあ……」
「ごめんね、東君。この人たちの言うとおりだから、今日はこれで……」
小走りに駆け寄ってきた亜里砂が自分の片手を両手で包み込むように握り、ぎゅっとつかまれると、状況も忘れて貴文の心臓が高鳴る。
「あと、今日のことは学校のみんなには内緒にしてね?」
「そ、そりゃあもちろん……」
(えっ? 何これ、いま何かフラグ立った!?)
ふと我に返ると、亜里砂は自分のバッグを持って遙か向こうに歩き去り、岡本や長谷川と共に黒塗りのベンツへ乗り込むところだった。
「…………え?」