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第30話

「おじさん! こっち、こっちです!」

 初めて訪れる娯楽園ホールの観客席通路を戸惑いながら歩いていた鷹見勲に、同伴の東貴文が声をかけた。

 勲は亜里砂の父親、貴文は亜里砂のクラスメイト。当然、両者の年齢は父親と息子くらい離れている。

 もっとも貴文の方は過去に別の格闘技団体の試合を観戦するため何度か娯楽園に足を運んでおり、本日も会場に入ってからは彼が勲を案内する格好となっているが。


「本当にここが我々の席かね?」

「間違いありませんよ。チケットのナンバーと席番が合ってますから」


 二人が今いる場所はリングサイドの最前列、料金も一番高いS席。

 会場内に据え付けられた観客席のさらに前列、リング周辺のフロアに直接並べられたパイプ椅子の一つである。

 プロレスの知識など殆どない勲の目にも、そこが特別な客席であることは一目瞭然だった。


「すごいな。まさに特等席じゃないか……」

「値段も高いですけど、とにかくこの席、一般のチケットセンターじゃ全然手に入らなくて……『誰かが買い占めてるんじゃないか?』ってネットでも噂になってますよ」

「亜里砂が高校にも行かずプロレス団体に就職するのは、私に甲斐性がないためなのに……なのに、あの子は自分の給料からわざわざこのチケットを買ってくれて……」


 勲は目に涙さえ浮かべ、娘から贈られたチケットを拝むように頭を下げた。


 隣にいる貴文はやや気まずい思いで目を逸らす。

 彼は亜里砂が「ヴァルハラ」のリングでファイトしていることは知っているものの、そのきっかけが父親の借金であることまでは聞かされていない。

 ただ部外者が気安く聞くのははばかられるような、何やら複雑な事情がありそうだということくらいは何となく察しがついた。


(そういや「グラディアトル」の選手も来てるのかな?)


 貴文はふと思って会場内を見渡した。

 本日はむろん鷹見亜里砂、及び彼女が所属する「ヴァルハラ」の試合を観戦するためやってきたわけだが、共催相手となる男子プロレス団体「グラディアトル」にも実は興味がある。

 以前に亜里砂にもいったとおり格闘技ファンである貴文としてはエンターテインメント色の強い昨今のプロレスに対して今ひとつ関心が薄かったが、プロレス団体でありながら総合格闘技やその他格闘技の大会にも積極的に選手を送る「グラディアトル」には以前より注目していた。

 また同団体エースのギャラクシー岩城は元アマレス重量級の五輪金メダリストであり、彼がプロレス入りを公表した際はTVや大新聞など大手メディアでもかなりの話題になったものだ。


(あの「グラディアトル」が女子プロレスとコラボするなんてなぁ……まあ最近のプロレスは何でもアリだからいいのかな?)


 そんなことを思いながら会場を眺める貴文の視界に、身の丈2m近い巨体をスーツに包んだ大男の姿が飛び込んだ。

「グラディアトル」のレスラーかと思いきや、貴文にとって見覚えのある顔である。


「あれは確か……長谷川さん?」


 少し驚いたものの、あの長谷川は「ヴァルハラ」社員なのだから、この会場にいても不思議はないと思い直す。

 とはいえなまじのプロレスラーにもひけをとらぬ長谷川の体格は、こうして会場の一般客に混じっても目立つことこの上ないが。


「東君、あの男と知り合いなのかね?」

「知り合いってゆーか……前に、街で不良に絡まれたところを助けてもらったんですよ」

「そ、そうかね……」


 勲の方はなぜか居心地の悪そうな顔つきで口を濁した。

 勲にとっての長谷川は借金の貸し主である「オカモト金融」社員。以前に脅迫同然の取り立てにあった件もあり、顔を合わせて楽しい相手ではない。

 そんな事情はつゆ知らぬ貴文であったが。

 複雑な表情で長谷川を見やる勲の目が、驚いたように見開かれた。

 スーツ姿の巨漢は後からやって来る上司の岡本、そしてもう1人の男性を恭しく案内していたが、それは勲も知っている人物だった。


「赤月さん? あなた、赤月源次さんじゃないですか!?」


 年齢はおそらく50代後半。和服をまとった小柄な男は勲の方に気づいたか、岡本たちに何事か告げるとこちらに歩み寄り一礼した。


「これは鷹見社長……どうもご無沙汰しております」

「何でここに……岡本さんの知り合いだったんですか?」

「いやご心配なく鷹見さん。こちらの赤月先生は昔私に拳法を教えてくれた方ですが、ウチの会社とは一切無関係ですから」


 源次の後を追うように近づいてきた岡本が、サングラスごしにニヤリと笑った。


「まあ今日はウチにとってもお嬢さんにとっても晴れの舞台です。返済のことはしばし忘れて、どうぞ試合をお楽しみ下さい」

「そ、そうだ! 赤月さんちょうどいい、娘はこれから大事な試合なんです。どうか控え室に行って励ましてやって下さい!」

「いや……亜里砂君はいま大一番を前に精神を集中しているはず。下手に私が顔を出して、心を乱すようなことがあってはなりません」

「でも、対戦相手の伊藤さんは団体でも一二を争う強いレスラーで……事実、娘は一回負けてるんですよ?」

「私はプロレスのことは詳しくないですが……」


 源次は振り向き、ちらっと岡本の顔を見た。


「試合のルールはどうなっているのですか?」

「基本的にはプロレスルールですが……鷹見にはスタミナ面の弱点がありますからねぇ。そこで試合時間については3分1ラウンド、5ラウンド制の特別ルールを設けました。まあ伊藤の実力とキャリアを思えばこれくらいのハンデは必要でしょう」


 横目で試合前のリングを眺めつつ、岡本が説明する。


「あと新幹線の中でご説明した通り、今回のタイトルマッチは演出も筋書きも一切なしの真剣勝負セメントです。ですから、結果がどうなるかは私にだって分かりません」

「……ならば問題ない。この試合、必ずや亜里砂君が勝つ」

「いやあ、ウチとしちゃ簡単に伊藤に負けられても困りますが……」


 苦笑しつつ答える岡本にとって、今最大の心配事は、試合の勝敗以前の問題としてメデューサ伊藤が約束通りリングに上がってくれるかどうかにあった。

 道場の会議室で亜里砂と乱闘になりかけた後、団体のレスラー仲間(旗揚げ以来の古参レスラーたち)に改めて説得された伊藤は、ベルトを賭けた亜里砂との再戦に一応は同意したという。

 とはいえ加納エミの事故死以来、伊藤の精神が不安定であることに変わりない。

 現在、ダイモン小栗が付き人として伊藤の身辺を見守り、かつ定期的に岡本のスマホに状況を報告してくれるものの、果たして彼女がリングに上がり無事に試合までこぎ着けられるか未だ予断を許さない状況といえる。仮に5ラウンドで決着がつかなかった場合、延長戦を想定してはいるものの、現段階ではっきり明言を避けているのもそのためだった。



 第1試合開始を前にほぼ埋まりかけてきた観客席がざわめいた。

 逞しい上半身に「グラディアトル」のロゴ入りTシャツを着用した数名の男たちが、通路を通ってリングサイド席へ歩み寄って来る。


「……ギャラクシー岩城だ!」


 貴文はそそくさと席を立ち、持参したサイン帳とマジックペンをお目当ての男子レスラーに差し出した。


「あ、あの、サインお願いします! ロンドン五輪の決勝戦、TVで観てました!」


 元アマレス五輪金メダリスト。現在はプロレス団体エースを務める男はにこやかにマジックを受け取ると、サラサラと慣れた手つきでサインを認めた。

 身長187cm、体重110kgの巨体はプロレスラーとしては当然ながら、がっしりした首回りの筋肉は周囲の同僚レスラーと比べてもひときわ目立っている。


「君……『ヴァルハラ』さんとこの関係者かい?」


 すぐ近くの席に座る岡本たちと貴文の顔を見比べながら、岩城が尋ねた。


「いえ、そういうわけじゃないですけど……今日の試合に出場する鷹見亜里砂って、僕のクラスメイトなんです」

「へえ」

「岩城さん、今夜はどうぞよろしくお願いしますよ」


 席から立った岡本が愛想笑いを浮かべ頭を下げた。


「実に光栄ですねぇ。記念すべきタイトルマッチをおたくのような人気団体と共催できるなんて」

「俺たちは、まだ納得したわけじゃないですよ」


 岩城の顔から笑いが消えた。


「社長からたっての頼みだから、一応リングを貸しますが……いい加減な試合をしてもらっちゃ困りますね」

「おやおや、こいつは手厳しい。でもね、鷹見-伊藤戦はいまウチが出せる最高のカードです。必ずやいい試合になることをお約束しますよ」

「……それを決めるのは俺たちじゃない」

「ほう。どなたですかな?」

「決まってるだろ? この会場にいるお客さんだ。本来『グラディアトル』の試合を観るためチケットを買ってくれたお客さんたちを失望させるようなことがあれば……」


 むすっとした顔つきのまま、岩城は鋭く岡本を睨み付けた。


「会社同士の契約なんか関係ない。俺たちの手であんた方を会場からつまみ出す!」

「偉そうに……おまえらだって、いつもは『筋書き付き』で試合してんだろうが」


 岡本の後からついてきた長谷川が、低い声で毒づいた。

 岩城は岡本を押しのけるように進み出て、自分より10cmほど背の高い長谷川を見上げた。


「あんたボクサーか」

「ならどうした?」

「ボクシングは楽ちんでいいよな。試合中疲れたら、相手の首にぶら下がって休んでりゃいいんだから」

「……」


 端から見れば、長谷川がわずかに肩を下げたように見えた。

 だがその時、既に長谷川は右拳を握りしめ、岩城に対し渾身のボディブローを打ち込んでいたのだ。

 グローブのごとき拳が腹部にめり込み、プロレスラーの体が揺れる。

 だが岩城は倒れない。

 何事もなかったかのように一歩踏み出すや――。


「空手だろうがボクシングだろうが、俺は一発じゃ倒れない」


 岩城の両手がすぅ、と伸ばされる。

 警戒した長谷川はウェービングで避けようとするも、2本の腕がまるで蛇のように彼の首に絡みついたかと思うと、刈り取るような動きで小脇に抱え込み、次の瞬間にはがっちりとフロントネックブリーカーを極めていた。


「……そして二発目をもらう前におまえの首を折る!」

「ウグッ……!」


 長谷川が低く呻いた。

 己の頭を抱え込んだレスラーの腕を払いのけることが出来ぬまま、みるみるうちに額から脂汗が流れ落ちていく。


「おいおい何やってんだ長谷川? 共催団体のエースに対して失礼だろうがっ」


 呆れたような岡本の声が上がった。

 岩城が腕を放すと、解放された長谷川は背後によろけ、苦しげに咳きこんだ。

 周辺にいた「グラディアトル」のレスラーたちがいきり立って長谷川の方へ向かおうとするが、これは岩城に制止された。


「いや面目ない岩城さん。部下がご迷惑おかけしました……しかしさすがエースの看板は伊達じゃありませんなぁ。こいつも元はプロボクサー。加えてストリートファイトでも場数を踏んで……大抵の者には負けないはずなんですが」

「そのようだな」

「しかしね、今日の試合に出る鷹見亜里砂は、この長谷川を10秒でKOしてますよ? もちろんガチの喧嘩で」

「まさか?」

「いや、嘘じゃねえ……」


 乱れたネクタイを締め直しながら、気まずそうに長谷川がいった。


演出アングルでもパフォーマンスでもなく、あの子は『本物』なんだよ……。あの『徹甲』って技を受けてみろ、きっとあんただってリングに立っちゃいられないぜ」

「……ふむ」


 ボディブローを受けた腹部をさすりながら岩城が考え込む。

 たった今立ち会った長谷川の強さを値踏みしつつ、この男を秒殺したという亜里砂の強さを想像しているのだろう。

 そんなプロレスラーの傍らに歩み寄り、


「如何です? ちょっと興味が湧いてきたでしょう」


 岡本がこそっと耳打ちした。


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