第3話
(やり辛えな……)
握り固めた両の拳を構えながら、長谷川は内心で毒づいた。
別に相手が子供だからという理由ではない。
目の前で対峙する亜里砂の体が自分に比べ小さすぎるため、直に殴るには猫背気味にかがみ込む不自然な体勢を取らざるを得ないからだ。
(あの小娘、拳法か何かを使うのは確かだが……むしろその自信を逆手に取るのもありか?)
亜里砂のファイティングスタイルは長谷川も一度目にしている。
おそらく彼女はあの不良に対してやったのと同様、間合いに飛び込んでの金的蹴りを狙ってくるだろう。
ならばボクシングの流儀にこだわらず、真下に来たところを両手を組んで叩き潰した方が早いのではないか?
現役を引退して多少体がなまっていることは認めざるをえないが、動体視力はまだまだ衰えていない。
加えてリーチに関しては亜里砂の蹴りより自分の腕の方が長いくらいなのだから。
(来るなら来てみろ。俺はあんなチンピラどもとは違うぜ)
長谷川は上体を起こし、あえて下半身のガードが手薄になるように見せかけた。
対する亜里砂は、攻撃の機会を窺っているのか、構えを取りながら軽く左右にステップを踏み始めている。
(めんどくせえ。いっそこっちから仕掛けるか)
ウェイトの差を考えれば、彼女がどんなにガードを固めようとジャブの一発で消し飛ばせる。
上司の岡本からはああ言われたものの、さすがに殺すつもりまではない。
とりあえず骨の一本でも折っとけば、お灸を据えるには充分だろう――そう判断した長谷川は、金的への攻撃は警戒しつつも大きく一歩前へ出た。
直後、亜里砂の姿がふっと視界から消えた。
(なにっ?)
逃げたのかと思い左右に視線を走らせた、その瞬間。
全く予想外の脇腹付近に衝撃を覚えた。
慌てて振り向いた男の目に映ったのは、すぐ足元で地面に両手をつき、逆立ちするかのような高角度で真っ直ぐ右足を蹴り上げた少女の姿。
ボクシングでいえば「レバー打ち」と呼ばれる箇所に、スニーカーのくるぶし付近まで深々と突き刺さっている。
「……ぐっ」
激痛に耐えかね、長谷川の巨体が地面に片膝を突いた。
「今の蹴りは肝臓に入れました。下手に暴れると破れちゃいますよ?」
亜里砂はすかさず蹴り足を戻して後方に飛び退き、再び先程と同じく身構えた。
「よし、そこまで!」
まるで審判役でも勤めるかのように岡本が声を張り上げた。
「ご苦労だったな長谷川。車に戻って休んでろ」
「オス……も、申し訳ありません」
部下の敗北を目の当たりにしながら、岡本は狼狽するどころか上機嫌で拍手した。
「いやあ、見事なもんだお嬢ちゃん。昼間、チンピラ2人を倒したのは偶然じゃなかったんだねぇ」
「何でそれを? まさか、あの2人も」
「おっと勘違いしないでくれ。我々は、たまたま近くに停めた車の中から目撃したってだけだから」
「……ともかく、今夜はもう帰ってもらえますか?」
「もちろん約束通り帰るよ。……ところで面白い技を使ったようだが、何か格闘技でもやってるのかい?」
「格闘技っていうか……私にこの技を教えてくれた師匠は『自分が編み出した新武道』っていってましたけど」
「ほう。流派の名前は?」
「こうが流」
「甲賀? 忍法の?」
「ううん、そうじゃなくて。漢字だと……えっと……」
亜里砂は気まずそうに口ごもった。
「おいおい、自分の流派名だろ?」
「だって、師匠は私が中学に上がった年に引っ越しちゃったから……漢字まで覚えてないんです」
「しょうがねぇなあ」
岡本はスマホを取り出し、「こうが」の漢字変換で表示された候補リストを亜里砂に見せた。
「――あ、これです!」
「『恒河』? ガンジス河のことだな。ふむふむ『恒河流』……なるほど」
スマホのメモ帳アプリに何やら書き込むと、岡本は亜里砂の父へ振り向いた。
「鷹見さんは詳しいことを?」
「ええ、娘が『師匠』と呼んでるのは、3年くらい前までうちの社員として勤めていた赤月という男のことです。その当時でもう50近い年齢でしたが、趣味が拳法というだけあって若い連中に負けないくらい腕っ節も強くて……昼休みや休日なんか、娘に拳法を教えてくれていたんですよ」
月謝は無用。子どもの体力作りや万一の護身術にも最適――そう聞かされた亜里砂の両親は、赤月を信頼して娘に対する指導を任せていたという。
ただし恒河流そのものについて詳細は知らされていない。
他の子どもたちが習っている空手や少林寺拳法のようなものだろう、とさして気に留めなかったのだ。
「で、その赤月さんは今どこに?」
「娘もいった通り、3年前に『自分もこの歳だし、故郷に帰ってのんびり余生を過ごしたい』といって退職しました。あの頃は不景気のどん底でしたし……今思えば、若い連中が口減らしに遭わないよう気を遣ってくれたのかもしれませんねえ」
昔を懐かしむかのようにしみじみと語る勲。
一方岡本の方はスマホを背広の内ポケットにしまうと、ついさっきまでの恫喝が嘘だったかのように愛想良く勲の両肩にポンと手を置いた。
「いや気に入りましたよ鷹見さん。どうです、ひとつお嬢さんを私に預けてみてくれませんか? 何ならあなたの希望通り返済期限を延長してもかまいませんから」
「ええっ!?」
その言葉を聞いた途端、勲の顔から血の気が引いた。
「そ、それだけはご勘弁を! 娘はまだ15歳で――」
「誤解なさらないように。別にいかがわしい店で働かそうって話じゃありません……実は私、金融業の傍らこんな仕事もやってましてねぇ」
そういって勲に渡した名刺には「女子総合格闘技団体『ヴァルハラ』代表取締役社長」の肩書きがある。
「そうごう……かくとうぎ?」
「まあ簡単にいえば女子プロレス団体です」
勲はポカンとした顔で岡本を見やった。
「女子プロレスって……そんなのまだやってるんですか? TVでも全然見かけませんけど」
「もちろん昔みたいにTVで全国中継されるようなメジャー団体はなくなりましたが……今でも根強いファンに支えられて、幾つかの小規模団体が活動してますよ? うちの『ヴァルハラ』もその1つというわけです」
「はあ……でも、娘はまだ中学生ですし……」
「15歳でオリンピックに出場する子もいるじゃないですか? 実力と才能が揃っていれば、プロ入りするのは早いほど有利です。試合は月2、3回のペース、しかも夜ですから学校の授業にも支障ないですし……何なら中学を卒業したらそのままうちに就職すればいい」
それでもまだ躊躇う勲の背を押すように、岡本はさらに言葉を続けた。
「まずは契約金とデビュー戦のファイトマネーとして3百万円お支払いしましょう。今夜の利息分はこれで相殺できるわけですな。残債についても2戦目以降のファイトマネーから天引きする形にすれば、返済もずっと楽になるというものです」
「ホントですか!?」
横から話を聞いていた亜里砂が思わず大声を上げた。
「私がプロレスラーになったら、父さんの借金も返せるんですか?」
「おそらくはね。君ほどの逸材なら、いずれ一晩で100万円稼ぐドル箱レスラーになるのも夢じゃないよ」
「父さん、私やるよ! 別に借金のためだけじゃない。いつかプロの格闘家になって世界一強くなるって――師匠と約束したんだから!」
「……おまえが、そういうなら……」
「交渉成立ですな。ではすぐに300万円返済済みの領収書を作りましょう。……と、その前に、娘さんの団体入りとプロレスデビューについて、保護者の同意書と仮契約書にサインを頂けますか?」
3人はその足で母屋に向かった。
リビングのテーブルに向かい合って座ると、岡本が便せんに万年筆を走らせて手書きの同意書と仮契約書を作成。
勲はまるで狐につままれたかのような表情で、渡された書類に署名捺印した。
「……では今夜はこれで失礼します。正式の契約やデビュー戦の日程などについては、後日改めてご連絡しますから」
◇
「おう、悪かったな長谷川。俺が運転してすぐ病院へ連れてってやるぜ」
工場の入り口に停めたベンツに戻ると、岡本は後部シートに横たわり苦しげに唸る部下に告げた。
「ううっ……申し訳ありません。あの、取り立ての方は……?」
「ありゃもう済んだ。利息分と引き替えにあの娘を『買った』から」
「まさか……」
「鷹見亜里砂か……あのお嬢ちゃんに300万円分の値打ちがあるかどうか、これからじっくり試さなくちゃなぁ」
ニヤリと笑いながら運転席に着くと、岡本はドアを閉めて煙草に火を点けた。