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第29話

 その日のイベント、某アイドルグループのコンサートを無事に終えた娯楽園ホールでは、翌日のプロレス興行に備え、夜になっても慌ただしく会場設営が進められていた。


 ライトに照らされ、イベント業者や若手選手、練習生らが入れ替わり立ち替わり作業を進めるリング周辺と対照的に、1500に及ぶ観客席は薄暗くガランと人気がない。

 そんな客席の1つに座り、「ヴァルハラ」社長の岡本はリングの方をぼんやり眺めていた。


「こちらにいましたか」


 背後からの声に振り向くと、そこに部下の長谷川が立っていた。


「試合前のエキシビションの件ですが……向こうとしては『さすがに選手は貸せないが、練習生なら構わない』との返答です」

「ま、そうだろうなぁ……こっちもそれでOKだと伝えとけ。後の段取りは任せる」


 それだけいうと、岡本は再びリングの方へ向き直った。


「……しかし社長らしくもないですね」


 巨体をかがめ、岡本の隣席に腰掛けた長谷川は、やはりリングに目を向けながらポツリといった。


「こんなバクチみたいな興業に打って出るなんて……前売りチケットがはけたからいいものの、一歩間違えればうちは大赤字になるところでしたよ?」

「おまえはマネすんなよ。昔からプロレスと映画に手を出した経営者は、手痛い目に遭うって相場が決まってるからな」

「そんな、縁起でもない」

「ガキの頃、俺はプロレスが大好きでなぁ……」


 岡本はどこか遠い目つきのまま、誰に言うともなく続けた。


「流血戦とかヒールの凶器攻撃とか、ああいうのを全部『本物』だって信じてた。周りの大人から『あれは全部お芝居でやってるんだよ』っていわれると半ベソかいて反論したもんだ……我ながらイテぇよな」

「いや、それはその……」


 どうフォローしていいものやら見当もつかず、長谷川は曖昧に口ごもった。

 元プロボクサーである彼にしてみれば、プロレスの試合に筋書きがあること、すなわち「芝居」であるのは最初から分かりきったことだ。

 本業の金貸しとしては徹底したリアリストである岡本が、ことプロレスの話になると損得も度外視し、時には子供のような一面すら見せるのを常々不思議に思っていたほどだが。


「……とはいえ中学生くらいになりゃあ、さすがの俺でもプロレスに裏があることが何となく分かってきて、次第に興味も薄れてきた……要するに『卒業』したってわけだな。そして何の因果か今度は自分がプロレス団体を経営することになって……今度こそ全部分かったぜ。この業界のカラクリってやつが、な」

「別にプロレスに限らず……世の中、どこに行ったってそんなモノじゃないですか」


 長谷川の若い頃からの夢は「日本人初のボクシングヘビー級王座に就くこと」だった。

 だが日本のボクシング界ではそもそも同じヘビー級で試合できる選手が殆どおらず、やむなく階級を落としてプロデビューしたものの、今度は無理な減量がたたって体を壊し、早々と引退せざるを得なかった。

 むろん国内に相手がいたところで、世界ベルトが獲れたかといわれれば自分でも自信がない。

 ボクシング重量級は昔から黒人選手の独壇場だ。体格的には日本人でもヘビー級のリングに上がれる者はいるだろうが、生来のパワーやバネの問題で圧倒的に不利となるだろう。

 それが分かっているから、体格に恵まれた日本人格闘家は自分たちがより有利に戦える大相撲や柔道、空手やアマレスを選ぶのだ。

 だが長谷川は今更他の格闘技に転向する気にもなれず、半ばヤケとなり酒を飲んでは裏町でケンカを繰り返す荒れた日々を送っていたところ、たまたま出会ったヤミ金の岡本に用心棒として拾われることとなったのだが。


「もちろん頭じゃ理解したつもりだった……だがよぉ、心の中にゃまだ納得しきれてない、ガキみてぇなもう1人の俺がいるんだよなぁ」

「それで……鷹見亜里砂に真剣勝負セメントを許したんですか?」


 岡本は頷いた。


「鷹見が目の前でおまえをぶっ倒したときはさすがに我が目を疑ったが……同時にこうも思った。この規格外のお嬢ちゃんなら、もしかして俺が長年見たかった『本物のプロレス』ってやつを見せてくれるんじゃねえかってな。……まあ、まさかこんな形で表のリングに出ることになるとは思わなかったが」


 ヴァルハラの女子レスラーや、長谷川以外の部下には決して見せない憂鬱そうな顔つきで、岡本は深いため息をもらす。

 亜里砂をリングに上げたことと加納エミの事故死に直接の因果関係はないといえ、結果的にはエミの死を利用する形になってしまったことに、内心負い目を感じているのだろう。


「加納も……きっと許してくれるでしょう。『ヴァルハラ』の存続を誰より願っていたのは、多分あいつですから」

「ならいいんだがな……ん?」


 内ポケットのスマホがバイブしたらしい。

 岡本はスーツの懐に手を入れ、取り出したスマホを耳に当てた。


「ああ俺だ……そうか、ようやく見つかったか……」


 何者かとの通話を終えるや、スマホを仕舞いながら立ち上がる。


「出かける。明日の開場までには戻るから、それまでよろしく頼む」

「どちらへ? 車を出しましょうか」

「いや、ちょいと遠出になるからな……とりあえずタクシーで東京駅に行く」

「……新幹線を?」



 新幹線の駅からローカル線を乗り継ぎ、降りた場所は東北の寂れた田舎町だった。

 時刻は夜の10時を回っていたが、岡本は興信所からのメールにリンクされた地図情報に従い、駅から徒歩30分ほどの場所にある「その建物」を訪れていた。


『護身と健康、美容のために拳法を!

 子ども、女性、中高年の方歓迎!

 あかつき拳法道場』


 トタンにペンキ塗りの質素な看板がなければ、誰もそこが「道場」とは分からないだろう。

 それくらい外見はごく普通の、やや古びた民家だった。


「さてと……やっぱり電話でアポくらい入れといた方がよかったか?」


 玄関前に立ち、カメラもマイクもないシンプルなドアホンのボタンを押すかどうか逡巡していると、庭に面した戸が開き、家の中から主らしき男性が姿を見せた。

 雨戸を閉めようとしていたのだろう。

 作務衣の上に羽織りという出で立ち。

 年齢は50代と思しき壮年の男だ。

 男は岡本の姿に気づいたか、雨戸を引き出そうとした手を止め怪訝そうな視線を向けてきた。


「見学希望の方ですか? 本日の稽古は、もう終わりましたが……」


 男の顔を見つめ「本人」であることを確かめると、岡本は思わず口許を緩めた。


「いや、お久しぶりです……赤月先生」

「失礼ですが、どちら様でしょうか?」

「お忘れですか? 弟子の岡本ですよ。……といってももう随分昔のこと、忘れられても当然でしょうが」


 照れくさそうに首の後ろを掻く岡本。


「第一、入門してから稽古の厳しさに音を上げて一ヶ月足らずで逃げ出した私が……今更先生の『弟子』を名乗るのもおこがましい話ですが」


 それを聞いた男――赤月源次は改めて訪問者の顔をまじまじ見つめ、間もなくポンと手を打った。


「……おおっ、君はあの岡本君か!」



 日中は稽古場として使われているであろう十畳の大部屋に人気はなかった。


「最近、仕事のお得意先から先生のお名前を伺いましてね。つい懐かしさで、こちらの住所を調べちまいました」

「ともあれ、よくぞ訪ねて来て下さった。何もない独り住まいでお恥ずかしいが、ゆっくりして行って下さい」


 畳の上に敷いた座布団を勧められると、岡本も土産に持参したウィスキーの瓶を袋から取り出す。

 やがてあり合わせのつまみを皿に盛り、グラスに水割りのウィスキーを注ぐと、男二人のささやかな酒宴が始まった。


「拳法の方は相変わらず続けられているようですなぁ。お元気そうで何よりです」

「私もこの歳だ。両親は早く亡くしているし……今ではこうして、地元の子供たち相手に拳法など教えながらのんびり暮らしてるよ。といっても恒河流ではなく、初心者向けの護身術だがね」

「そうそう『恒河流』でしたっけ……」


 岡本はわざととぼけながら、タイミングを見計らって話を切り出した。


「私もあれから気になって、色々調べましたが……赤月先生以外にその『恒河流』を名乗る道場は見つかりませんでした。やはり、あれは先生の創始なさった流派でしたか」

「……それも、もう昔のこと……」


 源次はグラスを置き、過ぎ去りし日々を思い返すようにしみじみと瞼を閉じた。


「私が初めて武道の世界に足を踏み入れたのは、今は亡き泰山益荒男たいざんますらお先生率いる極星会空手に入門したとき……あれはまだ昭和の御代。私は16歳だった」

「極星会……一世を風靡したケンカ空手ですな」


 西暦でいえば1970年代。

 当時はまだ各種防具も普及しておらず、空手といえばいわゆる「寸止め」形式が主流だった時代にあって、拳で直接殴り合うフルコンタクト形式を実践した極星会空手は従来の伝統派空手の関係者から「野蛮」「邪道」と眉をひそめられる一方で、同世代の若者たちからは強さの象徴、人呼んで「ケンカ空手」として熱狂的な支持を集めていた。

 防具などつけず殴り合い、負傷者続出の過激な試合。

 加えて道場における稽古も厳しさを極め、入門したはいいが数日で逃げ出す門下生も珍しくなかった。

 だがそれが却って評判を呼び、「極星黒帯」といえばまさに強い男のシンボルとして、格闘技を知らぬ一般人からも憧憬の眼差しで見られたものだ。

 漫画やアニメ、少年誌などを媒体にしたメディア戦略も功を奏し、国内は言うまでもなく海外にも広く普及した極星会は独自の国際大会を毎年開催するに至る。


「私自身も二十歳になる頃には黒帯三段を修め、いずれは国際大会への出場も取りざたされる立場となっていたが……」

「まさに極星会も先生も日の出の勢いだったわけですな」

「……だが当時の私はひとつの壁に突き当たっていた。国内の試合では鬼神のごとき強さを誇る極星の諸先輩が、国際大会となると体格に勝る海外の選手たちに苦杯を喫するという現実に……」


 そこまで聞いて、岡本も眉をひそめた。

 それは空手のみならず、日本古来の柔道や相撲にもつきまとう問題。

 競技が国際化し、外国人選手の技術レベルが日本人と同水準となれば、後は当然のごとく体格の優れた方が有利となる。


「しかしそれは仕方のない話でしょう? いや、むしろ喜ぶべきことですよ。昔は日本国内だけの武道だった空手が『世界のカラテ』にまで普及したわけですから」

「若かりし頃の私には、そこまで大人の考え方が出来なかった……そして悩み抜いた末、道場に辞表を出した。体格差という壁を覆すための、新たな武術を求めるために」

「……それが恒河流ですか?」


 岡本は生前のエミが亜里砂のファイトスタイルを分析したときの言葉を思い出していた。


『この技を考案した人間の意図は、あらゆる格闘技につきまとう体格差から生じるハンデを克服することにあったのではないでしょうか?』


 事実、亜里砂は恒河流の奥義を以て、遙かに体格の優れた長谷川やダイモン小栗を一蹴している。


「簡単な道のりではなかったよ……」


 源次は感慨深げに己の足跡を語った。


「まず私が注目したのは、古流柔術や合気道に見られる『捌き』の技術だった……だがこれらの技はあくまで専守防衛の戦いを想定したもの。相手の攻撃を封じるには有効だが、それだけでは膠着状態となってしまい、必ず勝利することは難しいだろう」


 次に目を付けたのは、中国拳法に実在したといわれる「発勁 」の技術。

 書籍などでは広く紹介されているものの、実際には目にした者もおらず、本当に存在するかどうかも分からない伝説の「奥義」を求め、香港や台湾、さらには中国大陸の奥地にまで源次は足を運んだ。


「しかし長旅の末に私が得たものは失望だった……彼の地において中国拳法の伝承者を名乗る者たちの何人かと出会ったが、彼らの技はいずれも形骸化、もしくはスポーツ格闘技として型式のみを残すに過ぎなかったのだから」


 失意のうちに帰国した源次であったが、「まだ見ぬ最強の武術」を追い求める彼の執念は衰えるどころか益々激しく燃え上がる一方だった。


「今更おめおめ空手の道場へ戻るつもりはなかった。昼間は工事現場や工場で働き生活費を稼ぐ一方で、私は夜間大学へ通い、学問の世界へのめりこんだ。数学、物理学、生物学、生理学……かつては東洋において一握りの『達人』のみがたどりついた遙かな武の高みを、西洋科学の力で解き明かすべく」

「なるほど……しかしそいつぁ、武道家というよりまるで研究者みたいですね」


 岡本の言葉に、源次はふっと笑いながら、グラスに新しい氷を放り込んだ。


「確かにな。あの時の私は、もはや武道家でも格闘家でもない……そう『強さ』への渇望にとりつかれた1匹の鬼に成り果てていたのかもしれん」


 いわれて見ると、今の源次には岡本の記憶にある若かりし日の彼に比べ、あのギラギラした殺気が感じられない。

 歳を取って人間が円くなったのか。

 ――それとも、何か人生観を一変させる出来事でもあったのか?


「歳月は流れ、恒河流の奥義『徹甲』を編み出したのが三十路近くになってからのこと。理論の上では完成した技だが、これを体得するには常人離れした筋力、瞬発力を必要とする……皮肉なことだが、既に体力的な峠を越えた私自身には出来ない相談だった」


 そして男は再び放浪生活に戻った。

 力仕事のバイトで日銭を稼ぎながら日本中を旅し、旅先で見所のありそうな若者を見つければ、恒河流の奥義を伝授する器かどうか見極めるため拳法の基本を教えてみる。


「つまり私もその1人だったと……しかし驚きましたよ。最初の稽古が、あの指立て伏せでしたから」


 学生時代に空手や柔道をかじり、ケンカの腕前にはいささか自信のあった若き日の岡本は、地元の不良グループを1人で叩きのめしたという赤月源次の噂を聞きつけ、彼に弟子入りを志願した。

 だが拳法の奥義を教える条件として源次から命じられたのは「指立て伏せ千回をこなすこと」。

 何とか百回くらいまで達成したところで両の掌が腫れ上がり、あえなくギブアップした岡本は「師匠」にその旨を伝えた。

 予想に反して、源次は特に怒ることもなかった。

 まるで医師のように岡本の容態を確かめ、彼がこなした稽古のメニューを聴き取ると何やら手帳に細々と書き込み、最後に一言ぽつりと呟いたのだ。


『やはり、男では無理なのかもしれん……』


 ――と。


「君には申し訳ないことをしたが……あれは意図的にそういう稽古の体系を作ったのだ」


 源次は無骨な両手を上げ、顔の前で己の指先を広げた。


「指を使った鍛錬は、全身の筋力や運動神経を鍛える上で非常に効果的だ……ただし標準以上にウェイトの大きな者には向かない面もある。下手をすれば指の骨を折ったり拳を痛めてしまうだろうから」


 つまり体の大きすぎる人間は稽古の段階で弾かれる。

 あの長谷川のごとく、無駄に体格の良い大男には決して修得できない拳法――それが恒河流。

 さらに源次は立ち上がり羽織を脱ぐと、道場の中央に移動して腰を落とし、独特の構えを取る。


(この構え、鷹見と同じ……?)


 一見小柄な男の全身から微風のような気迫が、いや殺気が吹き付けてくるのを岡本は肌で感じた。


「先手必勝、最大でも二打ち以内に相手を仕留める――素早い足さばきで敵の死角から間合いを詰め、全身のバネを効かせた必殺の一撃を相手の急所に叩き込む。それが恒河流の本義だ」


 そう言いながら男が見せた型と足運びは、やはり鷹見亜里砂の「徹甲」と同じものだった。


「その際に使用するのは下段直突き。これには人間の急所が数多く存在する脆い下半身を狙う意図がある。そして相手の体格が大きいほど、恒河流の使い手にとっては死角が大きく攻めやすくなる」


 仮に身の丈2mの大男であっても、金的を潰されたり膝関節を砕かれてしまえば、それ以上戦い続けることは困難だろう。

 またボクシングを始め、腰から下の部位への攻撃をルールで禁じた立ち技系格闘技は少なくない。


「理屈は分かりますが……しかし、あれほど厳しい稽古を乗り越えてそんな必殺技を体得できる人間が、果たしてこの世にいるものでしょうかね?」

「……居た。唯1人だけ」


 源次は呼吸を整えると、再び酒席の座布団に戻った。


「最後にたどり着いたとある街で、私は1人の弟子を得た。信じてもらえないかもしれないが……まだ十にもならぬ幼い少女だった」

「ほう」

「まだ子供とはいえ、彼女には天賦の才能があった。厳しい稽古にも耐えられるだけの精神力も……指立て伏せばかりか、常人には不可能であろうと思っていた指懸垂千回までも彼女はやり遂げたのだ」


 その少女――鷹見亜里砂は、当時まだ小学生。


「それだけではない。彼女は私が教える拳法の型や体さばきを、あたかも砂が水を吸い込むごとく覚えていった……そして今から3年前、彼女自身が12歳になった年、ついに恒河流奥義『徹甲』を体得するに至った」


 その日、源次が見守る工場の裏庭で、小さな右拳にタオルを巻いた「彼女」は、地面深く突き立てられた巻き藁に『徹甲』の一撃を打ち込んだ。


「私の目の前で、巻き藁は根元から折れて弾け飛んだ……紛れもない事実だ。あの少女……鷹見亜里砂こそはまさに恒河流の正当継承者……いや、創始者である私ですら『徹甲』は使えないから、厳密にいえば最初の免許皆伝者ということになる」

「で、その女の子のことは公にしたんですか? 近頃は女子格闘技が巷で密かなブームとなってますよ。マスコミだって放って置かないでしょうに」

「……いや……」


 源次はなぜか気まずそうに目を逸らした。


「長年の研究の末自ら編み出した奥義が現実の物となっても、私の心に生じたのは喜びや達成感とはほど遠い……恐れと罪悪感だった。三日後、当時世話になっていた工場の社長に辞表を出し、私は逃げるようにその街を離れた……」

「ええっ? もったいない、何でまた」

「自分の行いが恐ろしくなった……格闘技としても武道としても、そして護身術としても『徹甲』の威力は大き過ぎる……一歩間違えれば相手の命をも奪いかねない、平和な先進国には無用の技だった。逆に人殺しが日常化した戦乱の地であれば、人は銃で武装するから、やはり恒河流の出番はない……」


(つき物が落ちた……ってヤツか?)


 悄然として嘆息する源次の姿を見て、岡本は思った。

 先刻一瞬だけ蘇った殺気も既に消え失せ、目の前で盃を汲み交わす男は、町道場で子供たちに稽古をつけながら悠々自適の余生を過ごす温厚な老拳法家に他ならない。


「今では愚かな過ちだったと悔いている……私は己の野心と妄執のため、危うく1人の少女の人生を歪めてしまうところだった」

「でも何だか可哀想ですねぇ。その子にしてみりゃ、せっかく恒河流の奥義を究めたっていうのに、お師匠さんがいきなり雲隠れしちまったんじゃあ」

「ははは……彼女ほどの素質と才能があれば、別に拳法や格闘技でなくとも……陸上、水泳、球技、どんなスポーツでも必ずや一流の選手になれるだろう。オリンピック代表とて夢ではあるまい……その方が、よほどあの子のためだよ。そういえばもう3年か……今はどうしているだろうな」


 その言葉を聞いて、岡本は源次に真実を伝えるべきかどうか一瞬迷った。

 あるいは、何も告げずにこのまま立ち去った方が彼のためかも知れない。


(とはいえ……やっぱり話しておくべきだろうな。知らなかったとはいえ、鷹見をプロレスラーにしたのは俺の責任だ。それにあのお嬢ちゃんは今でも赤月さんのことを『師匠』と思ってんだし)


 そう思い直し、源次のグラスにウィスキーを注ぐ。


「しかし、皮肉な話ですなぁ」

「……?」

「鷹見亜里砂は、3年過ぎた今でも拳法を続けてますよ。それも女子プロレスのリングに上がって……近々、娯楽園で初めての公開試合に出場します」

「……なっ……!?」


 源次の手からグラスが滑り落ち、畳の上で砕けた。


(続く)

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