第26話
「うう~ん……」
選手寮のベッドで目を覚ました亜里砂は、寝ぼけ眼をこすりながら枕元の目覚ましを見やった。
「えっもう8時!? まずいよ遅刻しちゃう!」
慌てて掛け布団をはねのけて飛び起き、2段式ベッドのハシゴを降りてハンガーラックにかけた制服に着替えようとしたところで気がついた。
「そっか、今日は土曜日……学校お休みだっけ」
思えば夕べは道場でトレーニングのあと夜の零時過ぎまで走り込みの特訓をやっていた。
エミの件もありまともに眠れる精神状態ではなかったものの、徹底的に自分の身体をいじめたおかげで、寮のベッドに潜り込むと同時にストンと眠りに落ちることができた。
その際「明日は土曜日」と分かっていたので目覚ましはかけなかったのだろう。
わざわざトレーニングに付き合ってくれた美鶴、そしてルームメイトの練習生2人はまだベッドでぐっすり眠っている。
中学の授業は土日連休。
プロレスの方も試合の予定は入っていない。
――正確にいえば今後のスケジュールが全て白紙になってしまったため、会社からの連絡待ちというところだ。
といって気楽に遊びに行く気分にもなれなかったが。
「今週は家に帰ろうかな……」
久しぶりに父親の顔も見たいし、恒河流の型稽古なら実家でも出来る。
とりあえず顔を洗って朝食でもとろうと思い、パジャマからジャージに着替えて部屋を出た。
◇
1階の食堂に入ると、長テーブルの1つに数名の先輩レスラーたちが額を寄せ合うようにして座っていた。
ひときわ目立つのはダイモン小栗の巨体。
あとはフェアリー岬、笹崎涼子を含め若手・中堅のレスラーが何名か。
「おはようございまーす」
「おう、鷹見! ちょうどよかった」
顔を上げた小栗が、なぜか真顔で手招きする。
「……?」
不思議に思いながらも近づいた亜里砂の目に、テーブルの上に広げられた何部かの朝刊が目に入った。
どれもいわゆる「スポーツ新聞」である。
亜里砂自身はその手の新聞を自分で買ったことは一度もないが、父の工場の社員たちが昼休みなどに読んでそのまま休憩所の段ボール箱に放り込んだものを好奇心からのぞき見したこともあるので、どういう内容の新聞かおおよそは知っている。
一面のカラー写真と派手な見出しが躍る紙面を見るなり、思わず「えっ!?」と声を上げそうになった。
『元バーニング・ギャルズの加納エミ、試合中急死!』
『対戦相手はBG時代のパートナー・伊藤マキ』
「あの、これって……」
「今朝のスポーツ新聞はどれもこのニュースが一面トップだ。ネットでも流されてやがる」
「バーニング・ギャルズ」といえばおよそ10年前、日本中に女子プロレスブームを巻き起こした人気アイドルレスラータッグである。
その片割れ、加納エミが試合中に突然の事故死。
しかも相手は同じ「バーニング・ギャルズ」のパートナーだった伊藤マキ(現・メデューサ伊藤)となれば、これは当時のブームを知る年代の読者にとって充分興味をそそる話題といえよう。
「でも『ヴァルハラ』の試合って、マスコミには一切非公開だったんじゃないですか?」
「確かにな。だが加納さんが倒れたあと、会場には救急車が直接乗り付け、そのあと警察まで事情聴取に来てる。常にスクープのネタを捜している新聞記者たちに嗅ぎつけられてもおかしくはない」
涼子が冷静な口調で答えた。
そうした「トップ屋」連中の中には、昔エミたちが所属していたFEWA(極東女子プロレス)担当記者だった者もいたのかもしれない。
記事の中では10年前に起き、当時はFEWA側の圧力で隠蔽された伊藤の妹・真由がトレーニング中に不慮の事故死を遂げたことまで詳細に触れられている。
事故当時、真由のスパーリング相手を務めていたのが今回亡くなったエミであることも。
「ひどい……これじゃ、まるで伊藤さんがわざとエミさんを死なせたような書き方じゃないですか!?」
「事実かどうかはこの際問題じゃない。特にこの手のスポーツ新聞の場合、とにかく読者の興味をひきそうなストーリーを勝手にこしらえて飛ばし記事にするなんて常套手段さ」
「加納さんたちだけの話じゃねえ。鷹見、おまえのこともしっかり書かれてるぞ」
「え?」
いわれて見れば、問題の試合の出場選手として伊藤やエミの他、双方のタッグパートナーを務めた小栗、そして亜里砂自身も顔写真入りで大きく紹介されている。
「ま、未成年者がプロレスのリングに上がっちゃいけないって法はないが……さすがに現役中学生は珍しいからな。親はともかく、学校なんかには無届けだろ? しばらくそっちの身辺も騒がしくなると思うから、一応覚悟しとけよ」
「はあ……」
どんな顔をしたらよいかも分からぬままとりあえずうなずいた時、ポケットのスマホが着メロを奏でた。
電話をかけてきたのは父の勲だった。
『亜里砂か? 今朝、うちの若い連中から新聞を見せてもらったんだが……』
「鷹見製作所 」の社員にプロレスファンがいるかどうかは知らない。
だがスポーツ新聞はプロ野球やサッカーJリーグといった人気スポーツから芸能、ギャンブル、風俗etc.と専ら成人男性を対象にした記事がメインなので愛読している者も多いのだろう。
『おまえの出場した試合で亡くなった選手が出たとか……大丈夫か?』
「ウン、心配ないよ……亡くなったのは先輩レスラーで……私はケガとかしてないから」
エミの顔が脳裏を過ぎり、思わず涙が溢れそうになるのを堪えながら、辛うじて亜里砂は答えた。
『ついさっき、その件で学校から電話があってな』
「えっ!?」
さっそく来た。
スポーツ新聞とはいえこうまで大々的に報じられたのだから、中学の先生たちにも情報が入って不思議はない。
そして悪い事に、小栗から指摘されたとおり亜里砂の中学では「生徒のバイトは原則禁止。家の事情などやむを得ない場合は必ず事前に届け出ること」と校則で定められていた。
そのため今日は土曜休日であるにも拘わらず、校長、教頭、そして亜里砂の担任教師らが学校に集まり今後の対応について協議しているのだという。
『父さんからも一応事情は説明しといたが……担任の阿倍野先生がな、月曜の朝に保護者同伴で面談したいそうだ。とにかく一度家に帰ってこい。月曜は父さんも一緒に学校に行くから』
「……ウン分かった。今日帰るよ」
スマホを切って顔を上げると、先輩レスラーたちが心配そうにこちらを見やっている。
「あの、すみません。月曜まで実家に……」
「ああいいぞ。帰って親父さんを安心させてやれ。あたしらはこれから病院で人間ドッグに入る予定だし、伊藤さんのことも気がかりだ……この土日はトレーニングどころじゃねぇだろうな」
「こっちのことは何も心配しなくていいのよ? マスコミの方は社長がうまく対応してくれるはずだし」
小栗が腕組みしてうなずき、岬は苦笑しながら手を振った。
◇
そして月曜日。
早朝から勲の車で登校した亜里砂は校長室に出頭。校長や教頭、担任教師の阿倍野も交え面談に臨んだ。
「無届けのバイト」すなわち彼女がプロレスラーとしてリングに上がっていた件については、既に勲が鷹見家の財政事情も含めて説明したこともあり、学校側も概ね理解しているようだった。
それでもなお学校側が懸念しているのは、「亜里砂が強制的にプロレスをやらされているのでは?」という疑惑を抱いているからだろう。
ただでさえ学校でのいじめや家庭内のDVが社会問題となっている。
もし15歳の少女が家の借金のためリングに上がり「暴力的なショー」を強いられているとすればこれは由々しき児童虐待であり、ことと次第によっては父の勲はもちろんのこと、学校側までマスコミにつるし上げを食いかねない。
「先生、プロレスのことはよく知らないんだが……」
応接間のテーブルを挟んで向かい合った阿倍野が、亜里砂の目をじっと見つめながら尋ねた。
「あれは、その……本気で相手を蹴ったり投げたりしてるものなのか? 噂じゃ『八百長』って話も聞くが」
「えっと……」
亜里砂は返答に窮した。
もし男女問わず他のプロレスラーに同じ質問をしたら、阿倍野はその場で怒鳴りつけられているところだろう。
彼ら彼女らにとってプロレスを「八百長」呼ばわりされることはそれほどの屈辱なのだから。
もっとも亜里砂の場合は元々「真剣勝負」といわれてリングに上がり、後になってプロレス業界のシステムを知らされた口なので、正直どう答えてよいのか分からない。
「あの……確かにアマレスやボクシングみたいな他の格闘技と違って、筋書きみたいなのはありますけど……」
「やっぱり」と言いたげな表情で校長と教頭が顔を見合わせる。
「で、でもそれは八百長とかお芝居っていうのとは違うんです! 他の格闘技はルールの範囲内で本気で戦って相手に勝つのが目的ですけど、プロレスの場合はルールは二の次でもお客さんに試合を楽しんでもらうのが目的で……だから、私たちレスラーはリングの上でケンカしてるんじゃなくて、お互い力を合わせてどれだけ過激な、夢のあるファイトを見せられるかいつも一生懸命に考えてて――」
「つまりはエンターテイメント。本来はTVや映画の中でしか見られないような迫力のある肉弾戦を、リングの上で再現してる……って考えて間違いないのか?」
そうなのだろうか?
「私なんかまだまだ新人だから、口だけじゃうまく説明できませんけど……そう考えて頂いても、いいんじゃないかと……思います」
「だとしても、危険な仕事であることに変わりないだろう? 現に先日は同じ試合に出場したレスラーの方が亡くなってるわけだし」
「……」
亜里砂は唇を噛んで俯いた。
「先生はな、おまえのことが心配なんだよ。家の借金を返済するためにプロレスのリングに上がったというのは分かった。でもそれは本当におまえの意志なのか? 親孝行のつもりで無理してるんじゃないのか?」
「――違います!」
思わず亜里砂はソファから立ち上がっていた。
「初めは知らないことばかりで驚きましたけど……何人もの先輩レスラーと試合して、色んなことを教わって……今の私はプロレスが大好きになりました! 身体が小さくて学校の勉強も苦手、体力以外に大した取り柄もない私が、プロレスのリングでなら思い切り輝けるような気がするんです!」
阿倍野は驚いたように教え子の顔を見上げ、しばし考え込んだ。
「しかしおまえももう3年生だ。受験勉強はどうする? 確か公立高校を志望してたんじゃなかったか」
「あ、そのことなら……進路はもう決めました」
「なに?」
「中学を卒業したら、私『ヴァルハラ』に就職して本物のプロレスラーになります! 社長も約束してくれました」
「本当ですか? お父さん」
「は、はい。家で何度も話し合ったんですが、娘の決心も固いようなので……」
「そういうことなら……これはバイトというより、内定先の会社での『事前研修』と見なしていいんじゃないですかな?」
それまで黙って話を聞いていた校長が口を開いた。
「校長? しかし鷹見はまだ15ですよ。いくら何でも早すぎるんじゃ」
「中卒で相撲部屋に入門する子だっているじゃあないか。阿倍野君、君の世代ではピンと来ないかもしれんが……昔はプロレスといえば野球や大相撲と並ぶ人気のスポーツでねえ。私も若い頃はTVでジャイアント馬場やアントニオ猪木の試合を夢中になって視ていたものだよ。はっはっは」
それをきっかけに室内の空気も和らいだ。
結局亜里砂のプロレスラーとしての活動を学校側も公認することとなり、「試合で授業を休む場合は必ず事前に連絡する」などいくつかの約束を取り決めた後、面談は無事終了となった。
「本当にこれでよかったんですか?」
HRの準備のため阿倍野は職員室へ、亜里砂は教室へとそれぞれ引き上げた後、残った教頭が不安そうに尋ねた。
「ゆうべ、さる教育委員から電話があった」
自分の椅子にかけ直しながら校長は答えた。
「……この件について、なるべく穏便に対処してくれとのお達しだ」
「教育委員会が? 何でまた」
「さあてねえ」
これは鷹見父娘も阿倍野もつゆ知らぬこと。
たまたま「パラスト」会員の中に都道府県ごとに5人ずつ任命される教育委員の1人がいた。
今回の事故があまり大きなスキャンダルに発展し、自らに火の粉が降りかかるのを危惧したらしい。
「何にせよ、あの子が将来の進路としてプロレス入りを決めたというなら学校として止める理由もない。今後この件について外部からクレームがついたとしても、我々は毅然として対応すればいいというわけだ」