第25話
「急性心筋炎だったそうだ」
翌日の夜、道場2階の会議室に呼び集められた「ヴァルハラ」所属選手たちを前に、岡本が加納エミの死因を告げた。
「しんきんえん?」
「それって……心臓麻痺みたいなものですか?」
聞き慣れない病名を耳にして、ベテランから練習生まで女子レスラーたちは首を傾げ、互いに顔を見合わせた。
「簡単にいや心臓にウィルスが感染して炎症を起こすとか……最初医者から説明されたときは俺も何がどうなってるのかさっぱり分からなかった。プロの医者でも診断に悩むくらい厄介な病気らしい」
「で、でも……エミさん、試合前まであんなに元気だったのに……」
まだ目の前の現実が信じられない気分で亜里砂がいった。
昼間は表向き平静を装い学校の授業を受けてきたものの、頭の中は未だに真っ白。
正直、夕べの出来事は全て悪い夢だったと思いたい。
ヴァルハラのエース・加納エミはプロレスラーとしての実力はもちろん、自らの健康管理においても完璧主義者だった。
酒・煙草は一切やらず、普段のトレーニングも最新のスポーツ科学に基づく合理的なもの。
ただし「エース」の宿命として、相手レスラーの大技やラフファイトを常に受け続ける過酷な試合の日々が、本人も気づかぬうちにダメージとして蓄積していた可能性は否定できないが。
「それがなぁ。こいつは原因もはっきりしない、いざ発作が起きるまで本人の自覚症状も殆どないって面倒な病気で……患者によっては下痢や腹痛、あと風邪に似た症状が出るケースもあるそうだが」
「あ……」
亜里砂はあの夜の控え室で、しきりに咳をするエミの姿を思い出した。
「もし……私が、あのときエミさんを止めてれば……!」
「亜里砂ちゃんだけのせいやないで! うちらだってあのとき一緒にいたやん」
「そうよ。あの程度の症状だったら加納さんも含めて誰もただの風邪だとしか思わないわ。仮にもプロレスラーが『風邪ひいたから試合をドタキャンします』なんて言えるわけないでしょ?」
亜里砂の両側に座った美鶴と岬が口々に慰める。
しかしテーブルの上には少女の小さな拳が握りしめられ、その上にポロポロ大粒の涙がこぼれ落ちた。
(この一ヶ月、エミさんは嫌な顔ひとつせず私のトレーニングに付き合ってくれた……自分が休む時間も、陽菜ちゃんと過ごす時間も犠牲にして……!)
そこでハッと気づき、慌てて顔を上げ岡本の方へ振り向いた。
「あのっ! 陽菜ちゃんは……エミさんのお子さんは!?」
「朝方になって加納の両親が病院に駆けつけてきたんでな。子供もそちらに引き渡した」
「陽菜ちゃんのお父さんにも連絡したんですよね?」
「前の旦那か? いや……携帯も自宅電話も不通、そもそも本人が今どこに住んでるかも分からねぇ。連絡しようがないぜ」
「あいつは離婚した段階で親権も放棄してる。いずれにせよ、子供は加納側の親族が引き取ることになるだろう」
なぜか苦々しい顔で長谷川が口を挟んだ。
「でも、陽菜ちゃんにとってはやっぱりお父さんと暮らせた方が……」
「それがあの馬鹿、浮気相手の女に余程未練があったらしくてな。いったん自己破産したあと、性懲りもなく別のヤミ金に手を出しやがった」
「ええと……『オカモト金融』みたいなトコですか?」
「うちは金利は高くともきちんと金を貸すぞ。約束どおり返済してくれりゃそれでOKだ。しかしな……」
長谷川の話によれば――。
一般に「ヤミ金」と呼ばれる業者のうち、大半は最初から金など貸すつもりもなく、金に困って泣きついてきた客から「保証金」など様々な名目でさらに金を搾り取る詐欺師同然の集団だという。
「そういう連中のバックにはたいていヤクザがついてる。それこそ骨の髄までしゃぶり尽くされて……どっちにしろ二度と真っ当なカタギの生活にゃ戻れないだろうな」
「そんな……」
「『娘の葬儀は親族だけで執り行います。今後、プロレス業界とは一切関わり合いたくありません』ってのが先方の希望だ。まあ後日会社からも見舞金を出すつもりだが……果たして受け取ってもらえるかどうか」
肩をすくめて岡本が付け加える。
「だからあの子供も引き渡すしかねえ。可哀想だが、こっから先はあちらさんの身内の問題さ」
「……」
「あの……加納さんが発作を起こしたのは、やっぱり……あの試合が原因で?」
伊藤とタッグを組んでエミと対戦したダイモン小栗が、恐る恐る尋ねた。
「あの試合の前から既に加納は心筋症を患っていた。発作を起こしたのが試合で激しく動いたからか、それとも偶然のタイミングだったのかは医者にもはっきり判断できないってよ。とにかくあれは『不慮の事故』……だから警察に呼び出された伊藤も一通りの事情聴取だけでもう帰されてる」
それを聞いて、会議室に少しだけ安堵した空気が流れた。
もっとも警察から解放された伊藤自身はこの場にいない。
メインイベンターである彼女は寮ではなく郊外にある1Rマンションで独り暮らし。
岡本の方には「これからマンションに直帰する」と電話一本が入ったきり、その後の連絡はないという。
「ま、あいつに限って早まった真似はしねえと思うが……しばらくの間、交代で若手を行かせて様子を見た方がいいかもなぁ」
「今後の試合のスケジュールはどうなるんですか?」
それまで無言で話を聞いていた笹崎涼子がおもむろに質問した。
「いったん白紙にして仕切り直しだな。何せ今回の目玉だったベルト争奪戦を戦う2人のうち1人が欠けちまったし」
「トーナメント一回戦を戦った小栗さんと鷹見で敗者復活戦をやって、勝った方が加納さんの代役として出場すれば?」
「それも含めてしばらく待ってくれ。いま『パラスト』のオーナーと色々揉めててな」
あの夜支配人の反対を押し切って救急車を呼んだ「ヴァルハラ」側の判断は間違ってなかった。
だが試合の舞台を提供した「パラスト」経営者からは、プライバシー厳守が売り物の会員制クラブに救急車が乗り付けたり、挙げ句の果ては警察沙汰にまでなりかけたことで「店のイメージダウンになった」と厳しいクレームがついたのだという。
「とにかく、新しい試合スケジュールは決まり次第報せる。それと練習生以外の所属選手は時間があるうちに人間ドックに行って精密検査を受けとけ。費用は会社で持つ」
人間ドックのパンフレットをデビュー済み選手に1枚ずつ配ると、岡本は長谷川を従え会議室を出て行った。
会議は終了となり、女子レスラーたちも各々帰り支度を始めるが、その顔は一様に冴えなかった。
団体エースでありチーフトレーナーとして自分たちを指導してくれた加納エミはもういない。
それどころかこれから先「パラスト」を会場として今まで通り試合が出来るかどうかさえ定かでないのだ。
岬や美鶴と共に道場を出た後も、亜里砂は嗚咽を漏らしていた。
「ひどいよ。こんなのってないよ……『ヴァルハラ』と陽菜ちゃんのために、エミさんはあんなに頑張ってたのに……」
「もういいわよ亜里砂ちゃん。あ、よかったら何処かで晩ご飯食べてかない? 私が奢るから」
岬が気分転換を促すも、亜里砂はしゃくり上げながら首を横に振るばかりだった。
「おい、鷹見」
ふいに名前を呼ばれて振り返ると、背後の宵闇の中に私服姿の涼子が立っていた。
私服といってもTシャツにジーンズというラフな軽装だが。
「……何でしょう?」
返答はなかった。
一歩踏み出すなり、涼子はいきなり亜里砂の頭を狙いハイキックで蹴りつけてきたのだ。
「――!?」
とっさに屈んで紙一重で避けた亜里砂は、素早く道路を横転すると、恒河流の構えをとりながら立ち上がった。
涙で潤んだ少女の瞳に、早くも野獣のごとき眼光が灯っている。
「何するんですか?」
「ふふ。それでいい」
涼子は微苦笑しながら蹴り足を戻した。
「加納エミには人を見る目があった。おまえにプロレスラーとして団体の将来を託せるほどの素質を見出したからこそ、あの特別トレーニングを施したんだ。決して単なる親切でも義理でもない。それはそこにいる岬や大橋、そして小栗さんや私だって同じなんだ」
「……!」
「そのおまえがいつまでもメソメソしてたら、加納さんが浮かばれない。……忘れるな」
それだけいうと、驚く3人を追い越して足早に選手寮の方へと立ち去っていった。
しばし無言で涼子の背中を見送っていた亜里砂だが、何を思ったか道場の方角へ引き返し始めた。
「どうしたの?」
「今日の分のトレーニングと、あと走り込みやってきます。たとえこの先団体がどうなっても……プロレスは続けたいですから」
「しょうがないわね~。じゃ、私たちも付き合っちゃおうか? 美鶴ちゃん」
「へ? あ、ハイ。そうしまひょ」
既に夜の帳が降りた街角を、3つの人影が競争するかのように走り去っていった。




