第23話
序盤戦の5分はあっという間に過ぎ去った。
このひと月、エミから受けた「特別トレーニング」によりスタミナ面の方もだいぶ改善されたとはいえ、このまま戦い続けていればやはり自分の方から先に息が上がってしまうだろう。
そう判断した亜里砂は、依然として猛攻を続ける小栗の一瞬の隙をついてコーナーから脱出。
自軍コーナーの方へ転がり込むようにしてエミとタッチした。
小栗の方も深追いはせず、すかさず自軍コーナーへ戻って伊藤と交代。
白ワンピ水着タイプのコスチュームに身をつつんだエミが白鳥のごとく軽やかにトップロープを飛び越えマットに降り立った。
対照的に黒革のボンデージスーツで身を固めた伊藤は悠然とロープをくぐりマット中央へ進み出る。
かつて人気アイドル兼レスラー「バーニング・ギャルズ」として一斉を風靡した両選手の対決に、ゲストの客から大きなどよめきが上がった。
今はタッグチームを解散しアイドルレスラーを卒業したといえ、両名ともまだ二十代後半。
プロレスラーとしてはむしろこれからが「旬」といえる年齢だ。
両者すぐには組み合わず、2mほどの距離を置いて互いの目を睨みつけつつゆっくりと円を描くようにリング上を歩く。
いわゆる「視殺戦」。
会場内の震えるようなムードが高まったところで、おもむろに歩み寄り高く挙げた両手で四つに組み合った。
そのまま数秒間力比べが続くも、やがて体格に勝る伊藤がジリジリと押し返してきた。
と、不意にエミが力を抜き、前のめりになった伊藤の胸板めがけてドロップキックを放った。
「エミさんの方から仕掛けた!?」
亜里砂は思わず小声で叫んだ。
団体エースといってもベビーフェースであるエミは、普段の試合において序盤戦は相手に攻めさせ一方的に技を受け続けるパターンが多い。
業界用語では「セール」というらしいが。
「加納さんから先に手を出すのは、相手が自分と対等以上の『一流レスラー』と認めた場合だけよ」
リング下でセコンドを務める岬が小声で囁いた。
「おそらく社長も今夜のファイトを見て、どちらがFEWAチャンピオンに相応しいか決めるはず……面白くなるわよ」
「……」
息を呑んだまま、亜里砂はリング内を注視する。
「ヴァルハラ」においてそれぞれベビーフェースとヒールのトップを張るエミと伊藤。
むろん過去にも両者は何度もリングでぶつかっているが、それらの試合はどれも時間切れや両者リングアウト、あるいは伊藤が暴走しての反則負けなどで、未だにはっきりした「決着」はついていないという。
亜里砂の場合、伊藤とは既にセメントで闘って敗れ、またエミからはこの一ヶ月の特別トレーニングを通して彼女のレスリング技術が極めて高いものであることを知っている。
だがエミと伊藤、どちらがプロレスラーとして実力が上かとなると、それは亜里砂自身でさえ分からなかった。
顔をしかめて胸を押さえる伊藤に対し、エミが容赦なくドロップキックを連発。
殆ど助走をつけず、しかも長身の伊藤の顔面近くに綺麗に身体を伸ばして突き刺さるエミのキックは、プロレス技というより新体操の演技でも見ているかのように美しい。
だが3発目でかわされ、自爆したところをボディースラムでマットに叩きつけられた。
「ハッ丁度いい! 決勝戦といわず今ここで潰してやるよ!」
客席に向かい見得を切った伊藤は起き上がろうとするエミの頭を小脇に抱え、そのまま身体を落としてマットに叩きつけるDDT。
さらに引きずり起こし、今度は高角度のブレンバスターを決める。
普段の試合ならそれだけでフィニッシュホールドになってしまいそうな大技の連続である。
半ば失神状態のエミがリング上で大の字になった。
しかし伊藤はすぐにはフォールを狙わず、エミの身体を蹴飛ばして俯せに転がすや、馬乗りになってキャメル・クラッチを極めた。
「エミさん!」
「まだよ、まだ早い!」
慌てて救援に飛び出そうとした亜里砂を岬が制止した。
「まあ見ててご覧なさい。ここからが『加納エミ』のプロレスだから」
エミの顎に後ろから両手を回した伊藤が、大きく後方に身体を倒した。
両選手の傍らに回り込んだレフェリーの佐藤が「ギブアップ?」と問いただす。
もっとも技を極められたた女の表情は苦しげに歪められ、とても声の出せる状態ではなかったが。
「ホラホラ、早くギブアップしねーと背骨が折れるよ!」
伊藤はさらに身体を倒し、エミの上半身がほぼ直角になるまでのけぞった。
――これで決まりか?
店内の観客が固唾を呑んで見守る中、力なく揺れていたエミの片手がすうっと上げられ――。
メデューサ伊藤の、背中まで長く伸びたソバージュヘアの先端をぐっと握りしめた。
「……!?」
驚いた伊藤の身体が大きく傾き、腰を浮かせた。
その足元からエミは素早く脱けだし。
次の瞬間には大柄な伊藤の背中に飛び乗り、後方に回転してローリング・クラッチホールドで押さえ込んでいた。
すかさず駆け寄ったレフェリーがカウントを取る。
掌が2度マットを叩き、3度目を叩こうとした時、伊藤が勢いよく身体を伸ばしてエミをはね除けた。
(すごい……やっぱりレスリング技術ならエミさんの方が上だ!)
亜里砂と同じように感じたのか、客席のあちこちから感嘆のため息が上がった。
本来の常連客である「パラスト」会員たちは、一部のゲスト客がなぜここまで盛り上がっているのか理解できずきょとんとしている。
ただし仕事の「接待」として招待したお得意先が喜んでいるなら、彼らにしても悪い気はしないだろうが。
ストロング・スタイルを基調とした加納エミの王道プロレス。
華やかな大技とは別に、相手レスラーの肉体を密着した状態からいかにコントロールするかの術を彼女は知り尽くしている。
その気になれば、間接技で一瞬にしてギブアップを奪うことも、絞め技で相手を「落とす」ことも可能だろう。
対する伊藤の方にも相手の技をことごとく捌く「合気」という奥の手がある。
だがこの試合で合気を使うことはないだろう。
それは「プロレスラー」である彼女自身を否定しかねない諸刃の剣なのだから。
「あの……この試合、ホントにセメントじゃないんですか?」
リング下の岬に、亜里砂はこっそり尋ねた。
「うーん、ここまでハイレベルの攻防だと私にも区別がつかないけど……」
岬は腕組みして小首をかしげ、
「でも加納さんに多少のブランクがあるといっても、あの2人は十年来の付き合いだもの。お互いの手の内を知り尽くしているからこそ、遠慮せず全力を出し切っていけるんじゃないかしら」
「そうなんですか……」
岬の言葉に納得する一方で、亜里砂の胸中にふと別の疑問が生じた。
(伊藤さんって……ホントにエミさんのこと嫌ってるのかな?)
伊藤の妹でトレーニング中の事故で亡くなった真由を巡る確執。
岬や他の先輩レスラーからも「加納エミとメデューサ伊藤は犬猿の仲」と聞かされ、事実、亜里砂自身の目前でも伊藤はエミに対して敵意剥き出しの態度を取っていた。
にも拘わらず――。
こうしてエミと熱闘を繰り広げる伊藤の姿は、亜里砂の目には日頃の気怠そうな態度が嘘のように生き生きとして映っていたのだ。
そんな少女の逡巡をよそに、リング内では伊藤がパンチとキックを主体としたラフファイトでエミに反撃を加えていた。
どうやらピンフォールを奪われそうになったことより、トレードマークともいうべき長い髪を引っ張られたことに腹を立てているらしい。
エミの下腹部に荒っぽく膝蹴りを叩き込み、短い悲鳴を上げて身体をくの字に折ったところで自軍コーナーの方へと突き飛ばした。
ロープから身を乗り出したダイモン小栗と共に、2人がかりでいたぶろうという魂胆だろう。
「もういいわよ亜里砂ちゃん。行って!」
岬からの合図を受け、亜里砂はエミを救出すべく飛び出した。
長身の伊藤の背中めがけて派手なハイキックを浴びせる。
(こ、こんな感じでいいのかな?)
本来「実戦」のみに特化した恒河流には、威力は別として見た目地味な技が多い。
そのため、現在は空手黒帯の美鶴や元キックボクサーの涼子に頼み、技のバリエーションを増やすべく他の格闘技の打撃技も併せて学んでいる最中だった。
「邪魔すんじゃねーこのチビ!」
「ブレイク! いま試合の権利があるのは加納選手と伊藤選手。両選手は速やかにリング中央に戻って!」
レフェリーの警告も虚しく、コーナー付近で乱闘となった4人の女子レスラーは、そのままロープを乗り越えもつれるようにしてリングサイドへ飛び降りた。
試合開始からおよそ10分、予定通り最初の場外乱闘である。
羆のごとき雄叫びを上げ、凶器のパイプ椅子を振りかざした小栗が亜里砂に襲いかかる。
懐に飛び込み直突きを当てることも出来たが、この場は小栗の見せ場を作るため、亜里砂はあえてパイプ椅子の一撃を受け床に敷かれたマットの上に倒れ込んだ。
ジャージ姿の練習生・美鶴が亜里砂を庇って飛び込むが、やはりパイプ椅子で乱打されひとたまりもなくKOされる。
(大橋さん……ごめん!)
小栗の怒りの矛先が美鶴に集中している間、亜里砂は何気に距離を取り、マットに手をかけ深呼吸しながらダメージの回復を待った。
リングを挟んだ反対側ではエミと伊藤が取っ組み合っている。
伊藤がエミの手を取り、客席とリングを隔てるフェンスの方へと振り飛ばす。
ガシャン! と大きな音が店内に響き渡った。
その間、リング上ではレフェリーが片腕を上下に振り大声でカウントを取っていた。
20カウント取ってもレスラーたちがリング内に戻らなければ、この試合は両者リングアウトで引き分けとなる。
さすがにここで試合を終わらせてはあっけなさ過ぎるので、亜里砂は18カウントまで聞いたところで素早くリング上に転がり込んだ。
同様に伊藤と小栗もリングに引き返して来る。
ここでいったん仕切り直し、再び試合続行となる手はずだった。
「……?」
亜里砂は訝しげに左右を見やった。
同じタイミングでリングに戻って来るはずのエミの姿が見えない。
「エミさん……?」
立ち上がってリングサイドを見渡すと、フェンスのすぐ側に俯せになって倒れたエミの背中が見えた。
「……え?」
やはり不審に思ったか、途中でカウントを止めたレフェリーが急いで場外に飛び降りエミの様子を確かめる。
殆ど間を置かず、大きく両手を振って試合終了のゴングを要請。
筋書きと違う展開に、相手チームの伊藤と小栗も怪訝そうに顔を見合わせている。
もはや試合のことなど忘れ、亜里砂はリングから飛び降りた。
「エミさん!?」
「彼女に触らないで!」
背後から大声で呼び止められる。
反射的に足を止めた少女の傍らを、白衣のリングドクターが駆け抜けた。
俯せに倒れたエミの間近に片膝を突き、彼女に声をかけたりペンライトで顔を照らしたりしていたが、間もなくスマホを取り出し誰かと喋り始めた。
「社長ですか? これはちょっと……はい、はい。今動かすのは危険です。すぐに救急車の手配を!」
亜里砂は場外のマットの上に立ち尽くしたまま、まるで悪夢でも見ているような気分でその光景を凝視していた。