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第21話

「ヴァルハラ」選手寮に引っ越したことで、今まで徒歩で通っていた通学距離は長くなり、中学校へは電車で通うことになった。

 幸い岡本から貰った支度金があるので、卒業までの定期代はそれでまかなえる。

 20分ほどといえ朝夕のラッシュ時間とぶつかる電車通学は亜里砂ありさにとってちょっとしたカルチャーショックであったが、間もなく慣れた。

 以前は筋トレのためスポーツバッグの底に入れていた鉄板は混雑時に危険なので外し、今朝も他の学生やサラリーマン同様、つり革につかまり電車に揺られながら窓の外をぼんやり眺めている。


(お父さん、独りでちゃんと家事や炊事ができてるかなぁ……)


 実家の父親の心配、道場でのトレーニングなどについて一頻り考えたあと、


(そういえば、貴文君と一緒に帰れなくなっちゃった)


 ふとクラスメイトの東貴文あずまたかふみのことを思った。

 だからといって別に寂しいとか辛いという感情はなかったが(そもそも学校に行けば毎日顔を合わせているのだから)、一緒に下校しながら格闘技マニアの貴文からあれこれ聞いた蘊蓄うんちくは、亜里砂にとって結構勉強になるものだった。

 またクラスでも彼女が女子プロレス団体に所属し、既にリングに上がっていることを知っているのは貴文だけなので、自らのプロレス体験をこっそり話せるのも彼だけだ。


(……そういや、この前プロレス観戦に誘われたんだっけ)


『娯楽園ホールって知ってるだろ? そこで毎週色んなプロレス団体が試合してるんだ。よかったら休みの日に行かないか? チケット代奢るから』

『あれ? 東君、プロレスは格闘技じゃなくてショウだから興味ないんじゃなかったの?』

『前はそうだったけど……鷹見の話を聞いてるうちに段々観てみたくなって、さ』


 その時はちょうど寮への転居が決まり慌ただしい頃だったので「そのうちにね」と曖昧にお茶を濁したが、考えて見れば亜里砂もまだ「観客」として生のプロレスを観戦した経験がない。

 幼い頃ブラウン管TVで視ていた女子プロレスへの漠然とした憧れと、父の借金返済のため唐突に投げ込まれた「プロレス業界」の生々しい現実。

 双方のイメージの落差には未だに埋めがたい溝があるものの、もし1人の観客として今時のプロレスに接すれば、また違った見方が出来るかもしれない。

 中学最後の夏休みも間近だ。

 もう少し身辺が落ち着いたら、貴文の方が高校受験で本格的に忙しくなる前に、一度くらい行ってみてもいいかな――そんな風に思った。


(でも東君、何でチケット代まで奢ってくれるんだろ? うちの借金問題知ってるから気を遣ってくれてるのかな)


 相変わらず、その点だけは感度が鈍い。



 授業を終え、寮のある町の駅まで戻ると、その足で直接「道場」、すなわちヴァルハラ選手専用のスポーツジムへと向かう。

 寄り道せずに急いで行けば、ちょうど夕方からのグループトレーニング開始に間に合う時刻だ。

 既にある程度の経験を積んだ若手以上の選手たちは思い思いのメニューで、あるいは親しい先輩レスラーによるマンツーマンのコーチで個別に鍛えているが、亜里砂は他の練習生たちと共に「プロレス初心者」としてベーシックコースに参加している。

 その日はチーフトレーナーの加納エミ、サブトレーナーとしてダイモン小栗おぐりが練習生たちのコーチに当たった。

「本番」のリング上では悪役ヒールのペイントレスラーとしてラフファイトと反則の限りを尽くす小栗だが、その一方で元柔道選手としてのスキル(及び素は意外と面倒見のいい人柄)を買われ、道場ではコーチ陣の1人、また寮では舎監のような立場を任されているという。


「おはようございまーす!」


 更衣室に入るなり元気良く挨拶すると、大橋美鶴おおはしみつるをはじめ17~20歳と少し年上の練習生たちも「おはざーす!」と大声で応えた。

 当初「謎の拳法家としていきなりリングデビュー。連戦連勝の末、トップヒール・メデューサ伊藤との試合では負けたといえ彼女の肋を折った」という前評判から一体どんな怪物が入って来るのかとビクビクしていた練習生たちであったが、引っ越して来た亜里砂本人はごく普通の素直な女子中学生だったため、すぐに彼女と打ち解けた。

 それどころか、まだ小学生のように小柄で愛くるしい少女は、早くも寮のマスコット的な存在と化しつつある。

 制服を脱いで赤いノンスリーブレオタードに着替え、リングシューズを履いた亜里砂は、他の練習生たちと共に道場内の一角に集合した。


 エミの指示に従い、女子レスラーの卵たちはまずストレッチ運動からスタートする。


 ストレッチと聞けば「運動前の軽い準備体操」のイメージがあるが、プロレス道場だけにこの時点からハンパではない。

 特に床の上で両足を広げ、上半身を前に倒すいわゆる「股割またわり」では、早くも悲鳴や泣き声を上げる練習生が続出した。

 いくら男に比べれば身体が柔らかいといっても、180度開脚などそうそう容易くできるものではない。

 時間をかけて徐々に広げていくならまだしも、2人1組で股割の姿勢をとった途端に後ろから相方が全体重をかけて背中を押してくるので、他の格闘技の経験がないまま入門した練習生にとってはもはや拷問といっても過言ではないだろう。

 そんな中、相方の手を借りるまでもなくすぅっと両足を180度開き、上体を倒して床にぴたりとくっつけた亜里砂の姿に、周囲から驚きの声が上がった。


「亜里砂ちゃん、すごい!」

「身体、柔らかいんだねー」

「えへへ、柔軟にはちょっと自信があるんです。あ、こんなことも出来ますよ」


 再び俯せになった亜里砂は、いわゆる逆エビの状態で両足を持ち上げたかと見るや、何と左右の足首が両肩にくっつくまで仰け反って見せた。


「うわぁ……中国雑伎団みたい」

「うそっ! これじゃボストンクラブ(逆エビ固め)なんか全然効かないじゃないの?」


 練習生はもちろん、近くでトレーニングしていた選手たちまで呆気に取られて曲芸のごとき亜里砂のストレッチングを見守っている。

 しかしこの柔軟さと1日千回の指懸垂で鍛え上げた筋肉は、恒河流奥義「徹甲」を繰り出す上で不可欠なものだ。

 大地を支点とし、崩拳に似た構えから相手に直突きを当てたその瞬間、全身のバネを効かせて拳一点に筋力を集中、ヘビー級ボクサーのパンチ並の衝撃を生み出すためには常人離れしたしなやかで強靭な肉体が必要とされるのだから。

 だが恒河流の技だけでトップクラスのプロレスラーに勝てないことは、メデューサ伊藤戦の敗北で身を以て思い知られている。

 エミにもいわれた通り、亜里砂はこの一ヶ月の間にレスリングと組み技の基礎、そしてプロレスラーの底知れぬタフネスさを可能な限り学び取るつもりだった。


 ストレッチの次は筋力トレーニング。

 練習生のうちはまだジムのトレーニングマシンには触らせてもらえず、腕立て、腹筋、スクワットなど基礎的な運動の反復練習となる。

 1つの運動につき30~50回くらいを1セットとしてメニューをこなすのだが、セットとセットの合間にはひと息つく余裕も与えられないので、小一時間も続けるとやはりへばって動けなくなる練習生が続出した。

 さらに首の筋肉を鍛えるためのブリッジ。

 今は細い首で自らの体重を支えるのが精一杯の練習生も多いが、いずれは腹の上に別の練習生が乗っかっても耐えられるまでに鍛えるのが目標である。

 これらの訓練メニューを難なくこなしていける練習生は亜里砂の他、美鶴をはじめわずか数名。

 こうして見ると、社長肝いりでスカウトされた亜里砂の付き人として美鶴に白羽の矢が立ったのは決して偶然ではない。

 元々実戦空手の黒帯を持つ彼女は、練習生の中でもリングデビューに一番近い「成長株」として社長やエミからも期待されているのだろう。


(そのうち、大橋さんとタッグを組んでファイトできたりするのかな?)


 そう思うと亜里砂は内心嬉しくなり、トレーニングにもますます身が入るのだった。

 

 さて、ここまでのトレーニングはいかにハードとはいっても、他のプロ格闘技の基礎トレと大差はない。

 問題は、10分の休憩時間を挟んだ、そのあと。


「それでは、これから受け身の稽古に入ります」


 エミの言葉を聞いた途端、練習生たちの顔から血の気が引き、どよんとした空気が漂った。


「あ~あ……また地獄の30分が……」

「仕方ないわよ……プロレスラーになるには避けて通れない道だもの」

「受け身稽古」といっても、柔道の道場などで初心者向けに優しく教えてくれるようなものとはまるで違う。

「相手の技は真っ向から受ける」を原則とするプロレスにおいては、まずは技を受けることに対する恐怖感の克服、そして受けたときの痛みに耐える精神力を養う――つまりは先輩レスラーから一方的にプロレス技をかけられまくるのが「ヴァルハラ」における受け身稽古の第1歩である。

 一応、バックドロップやジャーマンスープレックス、パワーボムのように頭部や首の骨を強打する技は、この場ではまだ使われない。

 それらの技に対してはひたすら首回りや両肩を鍛えることで頭部への直接ダメージを極力抑えるのがプロレス流の「受け身」であり、練習生でも身体の出来上がった「上級者」と見なされた者たちだけに初めて使用が許される決まりになっている。

 とはいえボディスラム、サイドスープレックス、ラリアート、ドロップキックなどオーソドックスなプロレス技のフルコースを立て続けに食らうことには変わりなく、たとえ30分と時間が限られていても彼女ら練習生たちにとって「地獄」「拷問」と恐れられるのも無理はない。


「おっ、もうそんな時間か」

「おーし、いっちょ揉んでやるかっ!」


 受け身稽古が始まったと知り、周囲で思い思いのトレーニングに励んでいた先輩レスラーたちまで技の「かけ役」を務めるべく意気揚々と集まって来る。

 そんな中、エミがサブコーチのダイモン小栗に指示した。


「小栗さん。あなたは鷹見さんの相手をしてあげて」

「うっす!」


 90kgの巨体を揺らせてのっそり亜里砂に歩み寄る小栗の姿に、他の練習生たちは息を呑んだ。


 柔道三段。メインイベンターとしては加納エミやメデューサ伊藤に比べやや格が落ちるとはいえ、こと投げ技に関していえば小栗は「ヴァルハラ」きっての使い手といって良い。

 しかも亜里砂とは本番のリングでセメントマッチを行い、3分足らずで敗れたという因縁もある。

 いったいどんなトレーニングになるのか――?

 練習生のみならず、周囲の若手や古参レスラーたちさえ興味深く2人の様子を見守った。



「よろしくお願いしまーす!」


 亜里砂は目前に小山の如く立ちはだかった小栗に向かい、いつもどおりペコリと頭を下げた。

 道場での小栗はフェイスペイントを施していない素顔なので、あんパンに目鼻をつけたようなどちらかといえば愛嬌のある顔立ちであるが、その細い目はさすがに笑っていない。


「鷹見よぉ……前にリングでファイトした時、真っ先にあたしの一本背負いを食らったろ? あの時、おまえどう思った?」

「はい。あの時は本当に一瞬のことで……小栗さんの投げが早すぎて、受け身を取る余裕さえなかったです。気がついたら、大の字でマットに叩き付けられてました」

「だろうなぁ……実は、あれで正解なのさ」

「え?」

「人間、投げられると分かりゃ本能的に手足を縮めて背中を丸めたりするだろ? だがそいつはマットにぶつかる衝撃が背中の一部に集中するから逆に危険だ。あの時みたいに、いっそ潔く自然体で投げられた方が全身に受けた衝撃をマットが吸収してくれる分、却ってダメージは減るし、お客さんからは派手に技が決まったように見える!」

「あ、なるほど」

「ただし痛ぇのは我慢するしかねーな。痛みに耐え、相手の技の威力をアピールしつつも自分のスタミナは温存する。無茶な注文なのは百も承知だが、この道場で鬼の受け稽古をひたすら受けてりゃ、いずれ自分なりに受け身のコツも分かってくるってもんだ」

「はい! ありがとうございます」

「なあに、心配すんな」


 ニヤリと笑い、両手の太い指をバキバキ鳴らした。


「あたしの投げ技を我慢できるようになりゃ、本番の試合でどんな技を食らったって屁でもなくなるさ。一ヶ月でメインイベンター級の受け身を仕込んでやるぜっ」

「あ、あはは……どうぞお手柔らかに……」


 その言葉が終わらぬうちに少女の片手が取られ、凄まじい一本背負いでマットに叩き付けられる。


「……ッ!!」


 むろん受け身など取る暇さえなく、亜里砂は大の字のままマットに叩き付けられ、大きくバウンドした。


「っしゃあ、いい投げられっぷりだ! おまえは体重が軽いからマットに弾かれて衝撃を逃がせる。見た目も派手でいい絵になるぜ!」


 亜里砂の方はもはや返答する余裕もない。

 試合のように反撃することもできず、小栗が繰り出す様々な投げ技に身を任せ、マットの上をボールのように跳ね回るばかりだった。



 夕方8時にグループトレーニングが終わると、練習生たちは寮へと戻り、風呂と夕食を済ませたあとは就寝まで自由時間となる(深夜にトレーニングやバイトを行う者もいるので、その辺りは人によりまちまちだが)。

 だが亜里砂はまだ帰れない。

 この後はエミがつきっきりの特別トレーニングが待っているからだ。

 2人でリングに残ると、まずはレスリングとプロレスの基本技について手取り足取り、1時間ほどみっちりレクチャーを受ける。

 実をいえば恒河流に「組み技」というものは殆ど存在しなかった。

 実戦で2人以上の敵を相手に戦った場合、下手に関節技や絞め技など使えば己の動きが止まって残りの敵に無防備な姿を晒す。すなわち死に繋がる――というのがその理由らしい。

 亜里砂の場合、護身術として合気道や柔術の基本も教わったそうだが、今にして思えばこれは外部の人間から恒河流の「真の姿」を隠蔽するためのカモフラージュも兼ねていたのだろう。

 亜里砂からそのことを打ち明けられたとき、エミは恒河流創始者・赤月源次あかつきげんじの真意を計りかね、同時に怒りすら覚えた。

 好意的に解釈すれば、赤月は打撃系の格闘家ならば誰しも夢見る「一撃必殺」の理想を「徹甲」という形で現実のものとした。それについては称賛に値するだろう。

 だが現代の日本において、リングの外で恒河流の技を使えば「相手が凶器を持っていた」など余程の事情がない限り「過剰防衛」と見なされ、一歩間違えれば本人が犯罪者になりかねない。


(こんなの格闘技でも武術でもない……赤月さん、貴方はこの子に一体何をさせたかったの?)


 とにかく今のエミにとっての急務は亜里砂を「強くする」ことではない。次のリング復帰までに彼女を「まともなプロレスの試合が出来る」よう矯正することにあった。


 リング上でのレクチャーを終えると、次はジャージに着替え、さらに反射材付きのベストを身につけ夜のロードワークが始まる。


「プロレスラーとして鷹見さんの致命的な欠点はスタミナ面にあります。より正確にいえば、短期決戦だけを想定する恒河流に馴染んだ貴方の格闘スキルを見直し、少なくとも30分1本勝負をフルタイムで戦えるペース配分を身体に覚えさせることです」

「はい!」

「まずは普通のプロレスで試合ができるようになること。その上で、貴方の持ち味である恒河流の技をどうアレンジしていくか――よく考えておいてね」


 道場を出て夜の街を10kmほど走るわけだが、途中であるいは神社の石段、あるいは住宅地の急斜面に出来た階段などを通りかかれば、そこをダッシュで昇り降りする走り込みも行う。

 ただでさえ「鬼の受け身稽古」で散々痛めつけられた身体でこのメニューをこなすのは亜里砂にとってもかなりの苦行だったが、まだ三つの1人娘・陽菜ひなを託児所に預けてまで付き合ってくれるエミのことを思えば弱音も吐けない。


 ちょうど折り返し地点にあたる公園まで来たところで小休止となり、2人はベンチに座ると自販機で買ったスポーツドリンクで水分を補給した。


「伊藤さんのお祖父さんはね、地元では有名な合気道の達人だったのよ。つい先日亡くなってしまわれたけど」

「それで伊藤さんもあれだけの『さばき』が使えたんですか……」


 エミの話を聞いて、亜里砂も納得した様に頷いた。


「でも『バーニング・ギャルズ』の頃は、あの人が合気道の技を使うところなんか一度も見たことありませんけど」

「もうずっと昔……私と彼女が、まだFEWAの練習生だった頃のことよ」


 スポーツドリンクのペットボトルを手にしたまま、遠くを見るような目でエミがいった。


「ある日道場でスパーリングをしている最中、彼女、先輩レスラー相手につい『捌き』を使っちゃったの」


 伊藤としては決して悪意はなかった。

 先輩レスラーや周囲で見ている他の練習生たちの前で「ちょっといいところ」を見せてやりたかった――その程度の無邪気な感覚だったのだろう。

 だがその行為が、結果として先輩たちの逆鱗に触れた。

 たまたま合気道有段者だった伊藤が「プロレスに喧嘩を売った」と受け取られてしまったのだ。

 まだ職場でのいじめやパワハラが現在ほど問題視されていない時代。また当時は女子プロレスといえども選手たちの間にはなまじの大学体育会以上に厳格な上下関係が存在していた。


「その日から先輩たちから彼女へのいじめが始まった……ちょうど同期に入門して、寮でも部屋が同じだった私は伊藤さんを庇おうとして……やっぱり標的にされちゃったの」


 トレーニングに名を借りた連日のリンチ。

 といっても練習生を故意に負傷させれば、先輩レスラーといえども団体から処罰は免れない。だがプロレスには豪快で華やかな「表の技」の他に、相手の身体に傷痕を残さずとも強烈な苦痛を味合わせる禁じ手の「裏技」が数多く存在していた。


「あの試合で彼女が貴方に使った変形アトミックドロップ……あの技も、そのとき散々使われたわ。もちろん私も受けた」

「……」


 亜里砂は思わず生唾を呑んだ。

 自分の場合は20分程度の試合での体験だったが、もしあんな陰険な痛め技で朝から晩までいじめ抜かれたら――。


「何度も逃げ出そうと思ったわ。でも高校さえ行かずに入門した私たちが団体を辞めたって、他に雇ってくれる所なんかどこにもない。だから毎晩、ベッドの上で2人して泣きながら抱き合って『頑張ろうね』ってお互いに言い聞かせたの」


 延々一ヶ月近く続いたいじめだが、2人は耐え抜き、結局先輩レスラーたちの方が根負けした。

 逆に「根性のあるヤツら」と一目置かれ、後に早めのリングデビューと「バーニング・ギャルズ」としてのブレイクに繋がったのは何とも皮肉な話であるが。


「妹さんの件だけじゃない。そんな辛い思いまでして勝ち取ったリングデビューだったから……彼女にとっては『プロレスラーであること』こそが自分の全て。あれ以来合気道の技も一切封印して……あの試合で久し振りに使ったのも、きっとプロレスを恒河流から守るためやむを得ない選択だったのね」

「プロレスを守るために……」

「私がいうのも筋違いかもしれないけど……今回限りでいい、彼女のこと許してあげて。その代わり、もし今後貴方に何か手出しをするようなら、私が」

「ちょっと待ってください! 私、伊藤さんのこと恨んでなんかいませんよ!?」


 亜里砂は慌ててベンチから立ち上がり、声を張り上げていた。


「それより、エミさんこそ……伊藤さんと仲直りするべきじゃないですか!?」

「……それは……」

「私、強くなります! 拳法家でも格闘家でもなく、プロレスラーとして。それで、いつか伊藤さんと対等に話せるような立場になれたら――何としてもお二人を和解させてみせます!」

「!?」

「余計なお世話かもしれません。とんだお節介かもしれません……でも……このままでいいわけないじゃないですか!!」


 エミは驚いたように亜里砂を見上げたが、やがてふっと微笑み、自らも立ち上がった。


「ふふ、ありがとう。……さ、それじゃもうひとっ走り行きましょうか?」


 公園を出ると、今度は選手寮を目指す方向でロードワークと走り込みを再開する。

 寮の玄関まで辿りついた頃には、時刻は既に深夜の零時近くとなっていた。


「じゃあお疲れ様。明日の学校、遅刻しないようにね?」

「はい! 明日もよろしくお願いします!」


 駐車場に停めた車で帰るため再び道場の方へ向かって走り出すエミに大声で挨拶すると、亜里砂も踵を返して寮へと入った。

 既に食堂は終わっているが、調理担当のおばさんが亜里砂の分の夕食にラップをかけて冷蔵庫にしまっておいてくれたので、それをレンジで温め遅い晩ご飯をとる。

 風呂に入って宿題を済ませると、もう時計は2時を回っていた。


(明日も6時起きかあ……でもクラスのみんなだって、今頃は受験勉強してるだろうし。私も頑張らなくっちゃ!)


 同室の練習生たちを起こさないよう、亜里砂はこっそり自分のベッドにもぐり込むと、そのままストンと眠りに落ちた。



 どんなに1日が長く思えても、月日が流れるのは存外早いものだ。


 本格的に道場でのトレーニングを始めてからひと月近くが経ったある晩、いつものようにエミと共にロードワークを終えて寮に帰ってきた亜里砂は、敷地内の駐車場に見慣れぬ赤のスカイラインGTが停まっていることに気付いた。

 スポーツカーの前には、長身の艶めかしいボディにぴったりフィットした黒のワンピースドレスをまとった若い女が、2人を待ち受けるようにして立っていた。

 メデューサ伊藤――伊藤真紀いとうまきである。


「貴方……身体の方はもういいの?」

「ご覧の通りよ。ついさっきまで、あたしも道場で一汗流してたトコ」


 驚いた様に尋ねるエミに答えてから、伊藤はちらっと亜里砂をみやった。


「ご、ご退院おめでとうございますっ!」

「あらあら、しばらく見ないうちに随分仲良しさんになったのね? まるで本当の姉妹・・みたい」


 真紅のルージュを引いた唇が、皮肉をこめて笑いに歪む。


「別にえこひいきしてるわけじゃないわ。鷹見さんはデビューの仕方が特殊だったから、短期間で教えるべきことが多いだけです」


 エミは伊藤をきっと睨みつけた。


「もういいでしょ? この子は格闘家じゃなくプロレスラーとして『ヴァルハラ』の一員になると決意してくれたの。もう私たちの仲間なのよ」

「ふうん……ま、いいわ。あれだけ痛めつけても最後まで逃げ出さなかった根性は認めてやるよ」


 どうでもいい――という風情で肩を竦める伊藤。


「伊藤さんとの試合、身を以てプロレスの凄さと奥深さを勉強させて頂きました。私もプロレスラーとして、1日も早く先輩方に近づけるよう頑張ります」

「へぇ~、なかなか殊勝な心がけじゃない。なら先輩レスラーとしてひとつだけ忠告してやるよ。その女……加納エミには気をつけな。そりゃあたしは悪役ヒールだからリングの上では悪さもするさ。でもそれはあくまで仕事の話。それに引き替え、加納こいつはリングの外で一人殺っちまってるからねぇ」

「……!」


 思わず言い返そうと身を乗り出した亜里砂の肩を、エミの手がぐっと押しとどめた。


「用はそれだけ? なら早く帰った方がいいわよ。お互い、明日も早いんだから」

「まあまあ。実は復帰第1戦の日程が決まったから、それを伝えに来たのよ。アンタにも関係する試合だし」

「ベルト争奪戦の決勝ね?」

「あたしもそっちの方がよかったんだけどねぇ……社長としちゃもう少し話題を引っ張りたいとかで。とりあえず前哨戦としてタッグマッチで当たることになったわ」

「そうなの……それで日程とカードは?」

「試合は一週間後。あたしは小栗と組む。アンタが組む相手は――そこのおチビちゃんよ」


 亜里砂は呆気にとられて伊藤の顔を見つめた。


「私が……エミさんと?」

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