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第20話

「あの……『ヴァルハラ』の選手寮に引っ越したいんですけど、大丈夫でしょうか?」

『ほう? うちの方は別に構わねぇが……親父さんには話したのか?』


 電話の向こうから岡本が聞き返してきた。


「はい。最初は反対されましたけど、説得して何とか承諾してもらいました」

『わはは、そうかそうか。なら保護者同意書を郵送するから、そいつに署名捺印してもらったら一度会社の方へ来てくれ。細かい手続きはその時に説明しよう。場所は親父さんに聞けば判る』


 かくして数日後の放課後、亜里砂は学校帰りに初めて「オカモト金融」のオフィスを訪れた。

 そもそも父のいさおがこの会社から高利と知りつつ大金を借りたことが自分のリングデビューのきっかけになったかと思うと、何やら複雑な心境である。

 受付の女性社員は制服姿の少女を見て怪訝そうな顔をしたが、亜里砂が自分の名前を告げると内線電話で確認の後、奥の応接間に案内してくれた。


「……よし。おまえさんは未成年者だしな、保護者の同意さえ取れれば、転居や何やらの手続きはうちの顧問弁護士にやらせとくから心配するな」


 応接間に現れた岡本は亜里砂が提出した書類を一瞥すると、そういってカバンに仕舞い込んだ。

 今日は珍しくサングラスを外した素の顔である。


(こうして見ると意外に普通のおじさんだなあ……)


 何しろヤミ金に合法なサラ金、さらには女子プロレス団体のオーナーまで兼業する男である。時と場合、相手によって硬軟使い分けているのだろう。


「で、こっちの書類にも記入してもらえるか? 入寮申請書、あとこれは寮生活の規則集。後でもいいから目を通しといてくれ」

「あっ、はい」


 テーブルに差し出された新たな書類と小冊子を受け取ると、亜里砂は急いで卓上備え付けのボールペンを取り、申請書に必要事項を記入する。


「そういえば寮の生活費はタダだって聞きましたけど」

「ああ。家賃と水道、光熱費は会社持ち、朝晩の食事は賄いつき。そういや鷹見は中学生か……昼の弁当は、悪いがコンビニかどこかで買ってくれ」

「ええと、台所をお借りして自分で作ってもいいですか?」

「構わないぜ。おまえ自分で料理もできるのか? いやあ感心、感心」


 恰幅のよい身体を揺すって岡本が笑った。


「とにかく本腰入れて『ヴァルハラ』の選手になってくれるってんなら大歓迎だ。中学を卒業してうちに就職するなら、改めてメインイベンター待遇で契約しよう。ファイトマネーもぐっとアップするぜ」

「ありがとうございます」


 現在、亜里砂のファイトマネーは1試合につき3万円。これが新人レスラーの日当として高いのか安いのか、亜里砂にはよく分からない。

 そもそも支払われる前に全額が父の借金返済分として天引きされてしまうので、彼女は自分が稼いだお金をまだ見たことさえなかった。


「寝具の類いはこちらで用意しておく。着替えと身の回りの物だけ持って来てくれれば充分だが……ま、引っ越しとなりゃ色々物入りだろ。こいつは支度金だ」


 テーブルにポンと置かれた封筒の中身を確かめると、手の切れそうな新札の1万円札が5枚入っていた。


「ええっ!?」

「足りねぇか?」

「足りるも足りないも……私、月のお小遣い千円ですよ? こ、こんな大金……貰っちゃっていいんですか?」

「へえ、そうかい。今時の中学生なら、もっとたんまり小遣い貰ってるかと思ってたがなぁ」

(うちにそんな余裕があったら、父さんも最初からヤミ金なんかに頼らないよ……)


 ――と内心思う亜里砂だが、さすがに口には出せない。


「あとこれまで全額返済に充ててたファイトマネーだがな、親元を離れるとなりゃ日用の消耗品や衣服なんかは自腹で買ってもらうことになる。だから1試合につき1万円までは現金払いで支給しよう」

「あ、助かります……ところで次の試合は決まったんですか? 私の方は、もうお医者さんからOK貰ってますけど」

「それなんだがなぁ……伊藤のヤツ、肋のケガは順調に回復してるんだが、改めて検査してみたら、あの試合とは関係なく昔痛めた膝が炎症起こしてるのが判ってな。大事を取ってもうしばらく退院を延ばすことになった」

「そうなんですか……」

「申し訳ないが、伊藤が戻るまで試合の方は待っててくれ」


 亜里砂とメデューサ伊藤の凄惨なセメント試合は、公式結果も内容的にも伊藤の一方的な勝利――のはずだった。

 だがその後彼女が亜里砂の「徹甲」により肋骨を折られ、結果的に負傷欠場に追い込まれた事実が発覚し「ヴァルハラ」関係者に少なからぬ衝撃を与えている。

 社長の岡本としては、伊藤と亜里砂の復帰をほぼ同時期にすることで、せめて「痛み分け」のイメージに留めておきたいのだろう。


「その代わり、週に1回試合した分のファイトマネーを補償しよう」

(試合もしないで週に3万円貰えるの? でもうち2万は返済分に天引きされて……何だかややこしいなあ)


 これはマッチメイカーたる伊藤がこともあろうにリング上で暴走し、独断で亜里砂を潰そうとした行為に関する、よくいえば「慰謝料」有り体にいえば「口止め料」の意味合いをも含めた補償金だろう。


(伊藤さんには悪いけど……試合がない間、私はエミさんのコーチでプロレスのトレーニングに集中できる。これは私にとってとても貴重な時間だ)

「……で、もうひとつ、こいつも申し訳ないんだが」

「は?」


 我に返った亜里砂は岡本に視線を戻した。


「試合に負けたといえ、おまえはメデューサ伊藤を負傷欠場に追い込んだ。つまりは『ヴァルハラ』看板選手の1人と互角に渡り合った……ってことで、うちからはもう出せるタマがねぇんだよ。残るはエースの加納エミだが……あいつは対戦相手の技を全て受ける主義だから、きっと恒河流の必殺技も真っ向から受けちまう……分かるだろ? いま加納まで壊されたら、うちの団体は立ち行かねぇんだ」

「つまり……これからの試合は『筋書き付き』のファイトをしろってことですよね?」

「察しがいいな」

「薄々感じてましたから……でもきっかけはどうあれ、こうしてプロレスの世界に足を踏み入れた以上、中途半端に終わらせたくないんです。それが本当のプロレスラーになるための条件だっていうなら……私は演出アングルでも筋書きでも受け入れます」


 岡本はやや意外そうな顔つきになった。

 てっきり真剣勝負セメントにこだわる亜里砂が噛みついてくると思っていたのだろう。


「……ま、しばらくの辛抱だ。俺だって、おまえほどの逸材をナイトクラブのショーなんかで終わらせる気はさらさらねぇからな」

「え?」

「今スポンサーになってくれる会社を捜してるとこだがな、いずれ資金繰りの目処がついたら、『ヴァルハラ』をそろそろ表舞台に出そうかと思ってる。会場を借りての自主興行ってやつだな」

「昔、TV中継でやってたみたいなあれですか?」

「そうさ。まずは自主興業や他団体との交流戦で知名度を上げて……ゆくゆくは海外に打って出て総合格闘技(※)への進出。その時こそおまえの恒河流の出番だ。身体の小さなおまえがガチの試合で総合格闘技の世界チャンプをぶっ倒してみろ? それこそ日本中に格闘技ブームが再来するぜ」


※:打撃・投げ技・組み技など幅広い攻撃手段が認められた格闘技。米国の有力団体UFCには女子部門も存在している。


 やや興奮気味に語る岡本の目は、まるで子供のように輝いている。

 少なくとも嘘をついているようには見えない。


「そ、そうでしょうか?」


 もっとも今の亜里砂は「エミに弟子入りして一からプロレスを学ぶ」と決意したばかりである。

 ここで世界や日本がどうのといわれても、今ひとつピンとこないのが本音であったが。



 次の日曜日、亜里砂は実家から「ヴァルハラ」の選手寮に引っ越した。

 といっても荷物は着替えや学校の教材、参考書などを除けばさほど多くない。

 私物といってもせいぜい古いCDラジカセ1台、お気に入りのCDや本が数点ずつといったところだ。

 経費節約のため、業者には頼まず父の勲が社用のワゴン車を出してくれた。


「いいか、身体には気をつけろよ? いくら日頃鍛えてるっていっても、生活環境が急に変わると体調を崩しやすいからな」

「私は平気だよ。父さんこそ大丈夫? コンビニ弁当やインスタント食品ばかりに頼っちゃダメだよ?」

「心配すんな。父さん1人だって家事や自炊くらいどうにでもなるさ、ハハハ」


 そういって笑いながらも、ハンドルを握る勲の横顔はどこか寂しげだ。

 本音をいえばまだ中学生の娘を寮になど入れたくはない。

 とはいえ、この事態を招いた元々のきっかけが自分の仕事で作った借金かと思えば、あまり強く出られないのがもどかしいのだろう。


(ごめんね、父さん……でも、これは私自身が選んだことだから)


 ワゴン車が寮の近くまで来ると、玄関前に立っていたジャージ姿におかっぱ頭の少女が大きく両手を振った。


「亜里砂ちゃーん! こっち、こっち!」


 付き人の大橋美鶴おおはしみつるだ。

 予め引っ越しの日にちと時間を伝えていたので、わざわざ出迎えに待っていてくれたのだろう。

 美鶴の誘導で、車はそのまま寮の駐車場へと入った。


「ホンマに来てくれはったんや~。嬉しいなあ」

「ハイ! 改めて、今日からお世話になります」


 亜里砂はぺこりとお辞儀した。


「部屋番は205号室。4人の相部屋で、うちも一緒やで? 残りの2人は今道場の方やから、帰って来たら紹介するわ」

「わあ、大橋さんと同じ部屋ですか? 心強いです!」


 おそらく岡本が気を利かせてくれたのだろう。


「き、君っ、その2人は当然女性だろうね?」


 何やらそわそわしながら勲が尋ねた。


「は? おじさん何ゆーてますねん。ここは女子プロレス団体の選手寮、元より男子禁制ですがな~」

「それもそうか……ん? すると私も不味いのかな」

「う~ん、いくら亜里砂ちゃんのお父さんでも、建物の中まではちょっと……あ、でも荷物運びはうちが手伝いますさかい、お父さんは車で待っててもらえますやろか?」

「なら、お言葉に甘えて……娘をよろしくお願いします」


 美鶴に向かい頭を下げると、勲はそそくさとワゴン車の運転席へと戻った。

 それもそのはず。

 思えば妻と離婚して3年、娘の亜里砂や工場の女性社員などを除けば身の回りにまるで女っ気がなかった勲にとって「男子禁制の女子寮」など外国よりも縁遠い世界に感じられたのだ。



「ヴァルハラ」選手寮は鉄筋コンクリート4階建て。

 作りはそこそこ立派だが、どうみても築20年以上は経っているかと思しき中古建築である。

 引っ越し荷物のダンボール箱を抱えて美鶴と共に入館すると、エントランスから廊下にかけて、薄暗い屋内はガランと人気がなかった。

 原則として練習生は3、4人の相部屋。リングデビューを果たして選手となれば2人部屋に移ることができる。

 人気と実力が評価されメインイベンター契約を結んでようやく個室の生活が許されるが、そのクラスになれば収入も月給制で安定してくるため、自分でアパートやマンションを借りて寮を出て行く者も多いという。

 亜里砂の場合は既にリングデビューしているものの、プロレスの技術に関しては素人同然のため、自ら希望して練習生待遇で入寮するという変則的な形をとっている。

 風呂・トイレは共同だが、風呂は旅館のような大浴場が24時間使用できる。

 また乾燥機付きのランドリー室も備えられ、生活面では「なかなか快適」という話だった。


「この時間、みんな道場でトレーニングしたり、バイトしたりで殆ど外出しとるからな~。夕方になれば戻ってくるから、逆に騒々しくなるで」

「ここ、元は何の建物だったんですか?」

「どこかの会社の研修所だったそうや。例によってオカモト金融にお金を借りて……借金のカタに取られたんやろなぁ」

(父さんの工場も、一歩間違えたらこうなる運命だったのかなあ……)


 そう思うと、またもや複雑な心境となる亜里砂。


「……そうそう。先輩から聞いた噂によれば、ここって『出る』そうやで~」

「出るって……何がですか?」

「決まってるやん」


 美鶴は意味ありげにニヤリと笑った。


「何でも研修所時代に、理由は知らんけどトイレで首吊った社員がおったそうで……今でも真夜中になると~」

「アハハ、やめてくださいよー。私、そういうの信じませんからねっ」


 そういった矢先、廊下の角からぬっと人影が現れたため、亜里砂は「わっ!?」と声を上げてダンボール箱を取り落としそうになった。


「よう、鷹見。寮に入るって聞いてたけど、今日だったのか」

(え、誰?)


 Tシャツにジャージ姿のその女性は、やはり「ヴァルハラ」の女子レスラーらしい。

 廊下が狭く見えるほどの巨体だが、あんパンに目鼻を付けたような愛嬌のあるその顔には全く見覚えがなかった。


「何なら手伝おうか?」

「あ、いえ……荷物はそんなに多くないし、私と大橋さんで何とかなりますから」

「そうか? まあご覧の通りボロっちい寮だが、メシは意外と美味いぜ。おまえもガッツリ食って早く大きくなれよ。ワハハハ!」


 遙かに背の低い亜里砂の頭をポンポン叩くと、女子レスラーは豪快に笑いながら玄関の方へと立ち去っていった。


「ねえ、今の人も練習生かな……って大橋さん?」


 美鶴の方へ振り向くと、それこそ幽霊でも見たように顔を強ばらせている。


「な、何言うてんねん……今の、ダイモン小栗さんやないか!」

「……えっ!?」


 言われて見れば、その後ろ姿は確かにリングでも対戦した小栗その人だ。

 試合中は顔中にペイントを施していたので全然判らなかったが。


「そういえば、小栗さんの素顔って一度も見たことなかった……」


『あいつはどうにもキャラが地味でなぁ……』


 岡本が彼女をフェイスペイントの悪役レスラーとして売り出した理由が、何となく腑に落ちた亜里砂であった。

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