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第2話

 帰宅後は工場倉庫の片付けを2時間ほど手伝い、夕飯と宿題を済ませると、既に時刻は夜の10時を回っていた。


「ふぅ。じゃあお風呂入って寝る前に……一汗かきますか」


 鷹見亜里砂たかみありさは2階の自室で部屋着を脱いで上は体操服、下はハーフパンツと軽装に着替えると、1階にある和式の居間へと降り、まずはいつものようにストレッチングから開始した。

 両手両足、首や肩などを軽くほぐした後、両足を大きく広げて畳の上にストンと座った。

 いわゆる股割、しかも大人でも難しい180度開脚。

 そして上半身を前に倒し、いとも容易く綺麗なT字型を描く。

 5分間その体勢を維持すると、すっくと立ち上がり、今度は筋トレに入った。

 といっても居間にトレーニング用の器具などない。

 腹筋、腕立て、スクワットなど全て自分の体と、精々床や壁を利用した自主トレである。


 30分ほどで一通りのメニューをこなすと、再びストレッチングで体をほぐしながら、天井の鴨居を見上げた。


「……はっ!」


 畳を蹴って飛び上がると、両手の指先で鴨居の板をつかみ、そのまま懸垂を始める。

 百回ほど体を上下に動かし続けると全身から汗が噴き出し、指先から両腕を通し体中の筋肉が悲鳴を上げるような気分になるが……。


 それが、却って心地よい。


 残念なのは、筋トレが終わった段階でもう夜遅いので、明日の授業に備えて就寝しなければならないことだ。

 これが土日や祝日ともなれば、自宅の周囲で走り込みはもちろん、工場の外壁を利用したフリークライミングなど、ありとあらゆる方法でトレーニングできる。


 もっともそれらは全て「基礎訓練」に過ぎず、重要なのはその後。

「もう指一本上げるのも面倒」と思うくらい己の体をいじめた後は、自室に籠もり、CDラジカセで好みの音楽をかけながら、かつて彼女が「師匠」と呼んで尊敬したある人物から習い覚えた型稽古を繰り返すのだ。

 空手でもカンフーでも、少林寺拳法でもない。

「師匠」が独自に編み出したという数十パターンに及ぶ「型」を、心を無にして繰り返す。

 それこそ型ひとつにつき何十、何百回も。


 そんな生活を、亜里砂は小学生の頃からずっと続けている。


 父親で「鷹見製作所」経営者のいさおからは「女の子が体ばかり鍛えてどうするんだ?」とよく説教されたものだが、その勲もいつからか何もいわなくなった。

 おそらくは5年前、母親の理砂子が離婚し実家に戻った頃から。


 とはいえ亜里砂自身、昼間は貴文たかふみにああいったものの、いったいどうすれば「プロの格闘家」として食っていけるのか、具体的な手段は見当もつかない。

 図書室に置いてある将来の進路に関する資料や、就職情報誌など読んでも「女子格闘家採用募集」などという告知は載っていないからだ。


(まあ公立に進学するか、うちの工場に就職するか……それから考えても遅くないよね。私、まだ15だし)


 そんなことを考えつつ指懸垂を続けていると、突然窓の外から男の罵声が響いてきた。

 同時に、父の勲が懸命に詫びる声も。


「あいつら……また来てる」


 亜里砂は鴨居から指を離し、畳の上へ着地した。

 タオルで汗を拭い、僅かに考えていたが――。


 やがて口許をきっと結び、意を決したように玄関へと向かった。



「申し訳ありません、岡本さん! 今年になってから仕事も増えて何とか持ち直してきたんです。年内には必ずお返ししますから!」


 既に社員たちも帰宅し、灯りの消えた町工場の玄関先。

 駐車したベンツのヘッドライトを浴びながら、鷹見勲は地面に額をこすりつけんばかりに土下座して悲痛な叫びを上げた。


「鷹見さ~ん、そんな悠長なこと言われても困るんだよねぇ」


 恰幅のいい体を高級スーツに包み、両手をぞんざいにスラックスのポケットに突っ込んだサングラスの男――岡本が工場の主を冷ややかに見下ろしていった。


「おたくの債務、利息だけでもう300万円に膨れあがってるんだよ? 元利の2000万円も含めて本当に年内に返せると?」

「は、はい必ず!」

「ならとりあえず利息分の300万だけでも返済してもらいましょうか。こちらもわざわざ出向いて来た以上、手ぶらで帰るわけにはいかないのでねぇ」

「あの、いま手許にある現金は30万円ほどで……」


 いくら業績が回復しつつあるといっても、実際には人件費、資材費、工場機械の維持費など経費もかかるため、その場ですぐ動かせる現金はそう多くないのだ。


「300万だよ! 一桁足りねぇだろが!」


 岡本が片手を上げ合図すると、ベンツの運転席側ドアが空き、黒スーツの巨漢がぬうっと姿を現した。


「こいつは私の部下ですが、元クルーザー級のプロボクサーでねぇ。我々は仕事柄、実に様々なお客を相手にするんですよ。時にはヤクザを相手に取り立てなくちゃならないこともある。だから聞き分けのない債務者には多少手荒な手段をとらざるを得ない。ヤクザもカタギも関係なくね」

「ひっ……!」


「もういい加減にしてよ!」


 怒りを孕んだ声が響き、母屋の方から体操着姿の少女がつかつか歩み寄って来た。

 サングラスの奥の視線が動き、岡本は「おや?」と小さく呟いたが、それ以上特に反応は示さなかった。


「父さんは必ず返済するっていってるでしょ? だいたいあんたたちだって違法な金利でお金を貸してるんだから、偉そうなことはいえないはずよ!」

「亜里砂! 家から出てくるんじゃないと言ったろう!」

「鷹見さん……銀行にも大手サラ金にも門前払いを食って泣きついてきたあんたに私が融資を決めたとき、『地獄で仏にあった気分です』とかいって両手を合わせて拝んでたっけねぇ? それを、いざ返済の段になると犯罪者呼ばわり? そいつぁあんまりじゃないですか」

「ご容赦下さい! 娘はまだ子どもです。何も分かってないんです!」

「分かってるわよ、先生にちゃんと聞いたから。あんたたちみたいな連中を『ヤミ金』っていうんでしょ? それに貸金業法って知らないんですか? こんな夜中に取り立てに来るのも法律違反だから、警察呼んだっていいんですよ」


 岡本は顔を上げ、サングラス越しに亜里砂を見やった。


「不味いねぇ、お嬢ちゃん。いくら子どもだからって、今の言葉はもう取り消しできないよ?」

「ならどうだっていうんですか?」

「長谷川ぁ! このガキちょっとシめたれやっ!」

「え、ご冗談でしょ? 殺しちまいますよ」

「構わねぇ。素手で殺ったんなら傷害致死で言い訳が立つ。まあ長くて5年、模範囚なら2、3年で出られるさ。おめえもこの辺でいっちょハクつけてみろ……それとも、俺の顔に泥塗られたまま帰れってか?」

「お……オス」

「や、やめて下さい! 殴るなら私を!」

「いいよ父さん。こんな奴らに頭下げることないよ」


 父親の前に進み出た亜里砂が、岡本をきっと睨んだ。


「こっちからもひとつ条件つけていいですか?」

「何だ?」

「私がこの人に勝ったら、今夜はもう帰ってもらえますか? 近所迷惑ですし」

「……分かった。約束しよう」


 芝居がかった仕草で肩を竦めて一歩下がると、部下の長谷川に顎で合図する。

 ヘッドライトを背に立つ巨漢が、無言のまま両手を上げファイティングポーズを取った。

 その大きな拳だけで、亜里砂の顔が隠れてしまいそうだ。

 亜里砂の方も半身でやや腰を落とし、両の拳を握って身構える。

 それは空手とも他の拳法とも違う独自の構えだった。


「ボクサーだったそうですね?」

「そうだが」

「それにしちゃ肥り過ぎじゃないですか? どうせ引退してから好き放題に飲み食いして、トレーニングなんかろくにやってないんでしょ?」


 長谷川のこめかみがピクっと引きつり、太い眉が怒りにつり上がる。

 狼狽する勲を尻目に、少女と元プロボクサーの大男は互いにじりじりと距離を詰め始めた。

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