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第19話

「そう、あの子も鷹見さんのように真っ直ぐな性格で、いつも前を向いて一生懸命頑張る女の子だった。年齢も16だからあまり変わらないわね」


 加納家で夕食をご馳走になり、自宅へ送ってもらう軽自動車の車内で、ふとエミが思い出したように切り出した。

 後部座席のチャイルドシートに座った陽菜ひなは、満腹したこともあってかすやすやと寝息を立てて眠っている。

「あの子」――伊藤真紀の妹、伊藤真由いとうまゆ

 かつてエミと伊藤がタッグチーム「バーニング・ギャルズ」で一世を風靡していた頃、中学を卒業した真由は姉の後を追うように上京、FEWA(極東女子プロレス)に入門したのだという。


「子供の頃、FEWAのTV中継は毎週視てましたけど……伊藤さんに妹さんがいたなんて全然知りませんでした」

「伊藤さんがね、団体の経営陣フロントに頼み込んだのよ。『自分の妹だからといって特別扱いして欲しくない。実力でリングデビューできるまで、彼女のことはマスコミにも伏せておいて欲しい』って」

「でもあの伊藤さんの妹なら……プロレスラーの素質は充分ですよね?」

「ええ。お姉さん譲りの恵まれた体格に、小学生の頃から合気道で磨いた格闘センス。そして何より、同期の練習生の中でも一番練習熱心だったのが真由さんだったわ。もしあのままデビューできていれば、きっと私や伊藤さんを凌ぐほどの人気レスラーになっていたでしょうね」


 そこでエミは言葉を切り、赤信号の前で車を停めた。

 そこから先を話してよいものか、内心で逡巡しているようだ。

 助手席に座る亜里砂の方も、果たして自分が聞いてしまって良い話なのかどうか分からない。

 ただ、運転席でハンドルを握るエミの言葉にじっと耳を傾けるより他なかった。

 やがて信号が青に変わり車を発進させると、エミは再び口を開いた。


「……もう10年近く昔のことになるわ。ある日私が道場でトレーニングしていると、真由さんが来て『バックドロップの受け身を練習したい』って頼まれたの。いつもは専属のトレーナーが相手をしてたんだけど、その日はたまたまお休みしてて」


 プロレスに全く興味がない人間でも「バックドロップ」という技の名くらいならどこかで耳にしたことがあるだろう。それくらいオーソドックスなプロレス技のひとつだ。

 ただし担ぎ上げた相手レスラーの身体を後頭部からマットに叩き付ける危険な技だけに、かける側は慎重な「手加減」を、かけられる側も目立たない形で上手に「受け身」を取る必要がある。


「もちろん真由さんにとってバックドロップを受けるのはその日が初めてじゃなかった。もっと危険で難しい技もマスターしていたし、改めて基本技を復習したかったんだと思う」


 その日、道場には姉の伊藤真紀もいたが、彼女は別の若手レスラーに稽古をつけていたため、エミは快く真由の相手を引き受けた。

 道場のリングに昇り、実戦に近いスパーリング形式でバックドロップをかけること2回。

 真由は見事にそれを受け切った。


『エミ先輩、今度はもう少し急角度で……いっそ垂直に落とす感じでかけて頂けますか?』

『大丈夫? それは男性レスラーでもかなり危険な技よ?』

『平気です! トレーナーさんと同じ技でもう何度も練習してますから』


「そして3度目にかけた垂直落下式のバックドロップ……私は落下の瞬間受け身を取りやすいよう速度を緩めけど、彼女は受け損なって……そのまま立ち上がってこなかった」

「そんな……!」


 頸骨骨折。

 異状に気付いたエミはすぐ救急車を呼んだが、医師が駆けつけたとき、既に伊藤真由は事切れていた。


「で、でも……それは『事故』ですよね? エミさんだけの責任じゃ――」

「警察や団体側もそう判断したわ。だから私は一切責任を問われなかった……それだけじゃない。『バーニング・ギャルズ』の人気に傷がつくことを嫌ったFEWAは、報道関係者に圧力をかけて事故の情報を口封じしたの」


 当時、バーニング・ギャルズを中心に女子プロレスは人気絶頂期にあった。

 そのためスポーツ新聞やプロレス専門誌の出版社は国内最大の女子プロレス団体・FEWAの怒りを買って出入り禁止になることを怖れ、この事件を一切報道することはなかったという。

 その他の全国紙など一般マスコミにとってはプロレスなどイロモノ扱いなので、報道されたとしても精々社会面の片隅にひっそり掲載されたくらいだろう。


「実は、ある先輩レスラーから『エミさんと伊藤さんの仲がよくない』って噂を聞きました……それって真由さんの事故が原因だったんですか?」


 エミは首を横に振った。


「マキ、いえ伊藤さんはずっと私の味方だった。真由さんのお通夜の晩、私を人殺しと罵って責めるご遺族を窘めてくれたのも彼女。『エミは何にも悪くないよ。それより、妹ができなかった分まであたしたちで頑張ろうね』って……」


 車の方は変わらず安全運転だが、エミの声は震えを帯び始めていた。


「……でもあの時の私には、彼女の優しさが却って辛かった。いっそ頭ごなしに罵倒してくれればまだ気が楽だったのに……毎晩悪夢にうなされて、トレーニングや試合にも全然身が入らなくなって……その挙げ句、私は逃げ出した。伊藤さんにも相談せず、団体には内容証明郵便で退職願を郵送して、夜中に荷物をまとめて実家に逃げ帰ったのよ」

「……」

「我ながら最低よね。だから彼女が私を憎んでいるとすれば、それは真由さんの事故の逆恨みなんかじゃなく、私が彼女を裏切ってプロレスから逃げたからなの」


 FEWA認定チャンピオン。国民的人気女子プロレスラーである加納エミの突然の失踪を、団体フロントは「本人都合による引退」と取り繕ったものの、それ以上ファンが納得できるような説明はできなかった。

 バーニング・ギャルズ解散をきっかけに女子プロレスブームは潮が引く様に去り、やがてはFEWA自体が倒産し、幾つかの小規模インディー団体に分裂することとなった。


 一方、実家に戻ったエミは親戚から紹介された一般人の男性と見合い結婚していた。

 相手は一流大卒で仕事熱心な上場企業の社員。

 プロレスなどTVで視たことさえないというが、エミにとってはむしろ好都合だった。

「普通の主婦」として一から人生をやり直す。

 そう、ただ愛する夫と子供に囲まれた「ささやかな普通の幸せ」さえつかめれば、それで充分。

 だがようやく手に入れた「幸せな家庭」も、予期せぬ夫の浮気が元で莫大な借金を抱え込み、呆気なく崩れ去ってしまった。


「だから、あの時……あんなに怒ったんですね」


 亜里砂は昼間に道場で会ったとき、「あなたは自分の技で人を殺してみたいの?」と問い詰めるエミの険しい表情を思い返し、自分の膝に視線をおとしたままポツリと呟いた。


「何も知らないくせに、私が人の命を軽く扱うようなこと言ったから……」

「他の格闘技の選手がどう思っているか知らないわ。でも私たちプロレスラーにとって一番怖ろしいのは、試合で命を落とすことじゃなく、自分のミスから相手の命を奪ってしまうこと……」


 前方の道路から視線を外さないまま、エミの頬を一筋の涙が伝った。


「私がリングから去った後も、伊藤さんは現役として踏みとどまった。FEWAが潰れた後は後継団体『ヴァルハラ』の旗揚げに参加して……彼女にとってプロレスのリングは単なる試合の場所じゃないわ。妹さんがデビューを夢見ながら果たせなかった神聖な場所。そこを身体を張っても守ることがプロレスラーとしての誇り、そして真由さんへの『供養』なのね」

「エミさんは、伊藤さんがいることを知って『ヴァルハラ』へ?」

「いいえ。岡本さんに誘われて契約してから初めて知らされたわ」


 現社長の岡本は、当初エミをスカウトすることで「バーニング・ギャルズ」を復活させ、「ヴァルハラ」の目玉にするつもりだったらしい。

 しかしオカモト金融の事務所で数年ぶりにエミと再会した伊藤は、嘲笑に顔を歪め、開口一番こういった。


『よう、よくも平気な顔で戻って来られたな? この人殺し女』


「ひどい! いくら何でもそんな言い方って」

「確かにショックだったわ。でもね、同時に少しだけ気分が楽になった……一度は逃げ出した自分の罪と向かい合って、償うためのチャンスを神様がくれたんだって。私はもう二度とプロレスから逃げ出さない。たとえ伊藤さんから許されることがなくても2人で『ヴァルハラ』を盛り上げて、いつか昔みたいに本物のリングで試合ができるように頑張ろうって」


 そこでエミはにっこり笑い、


「あ、もちろん私自身、今でもプロレスが好きなことに変わりないわよ? でも陽菜は無関係……この子には将来プロレス以外の道を、普通の女の子として幸せになって欲しいから……もっと大きくなるまでプロレスのことは一切教えないつもり」

「伊藤さんと……何とか仲直りできないんですか? たとえ『バーニング・ギャルズ』でなくとも、お2人は『ヴァルハラ』を支える看板選手じゃないですか」

「それが出来ればいいとは思うけど……難しいでしょうね。彼女自身が決める問題だし」


 亜里砂の自宅がある「鷹見製作所」工場正門前でエミは車を停めた。


「お疲れさま。今夜はぬるめのお風呂にゆっくり浸かって、よく身体を休めてね」

「今日はありがとうございました。あの……今度の日曜日、また道場にお邪魔してもいいでしょうか?」

「歓迎するわ。またみっちり鍛えてあげる。ウフフ……」

「……あはは~」


 走り去る軽自動車のテールランプを見送ると、亜里砂は合い鍵を使って通用門をくぐり、母屋へと向かう。

 ようやく普通に歩けるほどまで回復したが、さすがに今夜は指懸垂千回は無理だろう。

 しかし芯まで疲れ果て、全身筋肉痛の残る身体に浴びる夜風が、亜里砂にとって言い様のない充実感を覚えさせてくれた。


「――よしっ!」


 己に気合いを入れると、少女は足早に自宅を目指した。



「ただいまー!」

「おかえり。今日は随分遅かったな」


 自分の部屋で持ち帰りの書類仕事を続けていたらしい父の勲が、お茶の間に顔を出し声をかけてきた。

 スマホから連絡を受けていたとはいえ、年頃の娘を抱える父親としてはやはり気が気でなかったのだろう。


「うん、先輩のレスラーさんから色々教わってたから」

「いくら医者からOKが出たからって、ケガも治ったばかりだろ? あんまり無理するなよ」

「平気、平気。……あ、ところで、ちょっと相談したいことがあるんだけど」

「ん? どうした」


 勲がちゃぶ台の前に腰を下ろすと、亜里砂も制服姿のまま父と向かい会う形で正座した。


「私、中学を卒業したら『ヴァルハラ』に就職して本物のプロレスラーになりたい。それで、今から充分トレーニング時間が取れるよう選手用の寮に引っ越したいんだけど……いいかな?」

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