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第18話

「本番の試合よりも強めに投げる」というエミの言葉に偽りはなかった。


 彼女が動いたと思ったときには、既に亜里砂自身もわけが分からぬ程のスピードでボディスラムの体勢に担ぎ上げられていたのだ。

 投げるフォーム自体は他のプロレスラーとさして変わらない。

 だが次の瞬間、エミは低くジャンプし自らも身を投げるようにして亜里砂をマットに叩き付けた。

 人気のないジム内に大きな落下音が響く。

 プロレスのリングはマット下がサスペンション構造になっているため、見た目や音が派手な割には、投げ技の衝撃がある程度吸収されるようになっている。

 そして亜里砂自身も師である赤月源次から投げ技に対する受け身の方法は一通り伝授されている――はずであったが、今のは「ヴァルハラ」のリングに立って以来体験する最も強烈な投げであった。


(こ、これがただのボディスラム……!?)


 亜里砂が立ち上がるのを待たず、少女を引き起こしたエミは続いてフロントスープレックスで背後に投げ捨てた。

 一見オーソドックスな投げ方だが、抱え上げたときのクラッチが完璧なため受け身を取ろうとしても取れない!


(これが本物のプロレス技なら……私が今まで修行してきた受け身なんか一切通用しない……!)


 身体のダメージよりもそちらの「現実」にショックを受け、呆然としてマット上に這いつくばった亜里砂の背後からエミの両腕が回される。

 3度目は俵返し(サイドスープレックス)で強引に投げ飛ばされ、少女の身体が宙を舞った。



「……今日はこの辺にしときましょうか?」


 およそ1時間後、トレーニング終了を告げるエミの言葉を聞いた途端、亜里砂は全身の力が抜けてマット上に大の字となった。


「あら……やっぱり、ケガが治ったばかりのところに厳し過ぎたかしら?」

「い、いえ、大丈夫です……」


 やっとの思いで亜里砂は答えた。

 エミは頭や首など致命傷を負いそうな場所こそ強打せぬよう巧みに「手加減」してくれたが、それでもたっぷり1時間投げまくられた亜里砂の身体は鉛のように重く、とても自力で立ち上がれる気分がしない。


「……ただ、ちょっとだけ……休ませて、ください……」

「ダメよ。汗をかいたままじっとしてたら、身体を冷やして風邪ひいちゃうわ」


 その言葉が終わらぬうち、亜里砂はひょいと抱き上げられ、いわゆる「お姫様だっこ」の格好でリングから下ろされていた。


「え? あ、あの……」

「せめてシャワーだけでも浴びとかなくちゃ」


 そのまま有無を言わせず亜里砂をジムのシャワールームまで運んだエミは、更衣室で少女の体操服を器用に脱がせると、自らもレオタードを脱いで全裸となった。


(えええ~!?)


 成熟した美女の一糸まとわぬ姿を目の当たりにして、亜里砂は同性でありながら思わず顔が火照った。まあ彼女自身も真っ裸ではあるが。

 とはいえ1人ではまともに足腰も立たぬ有様。

 エミの肩を借りつつシャワー室へのドアをくぐると、個別に仕切られたスペースに2人で入り、背後からエミに支えられる形でシャワーを浴びる。

 頭上から降り注ぐ熱い湯が、トレーニングの疲れと身体の痛みを洗い落としてくれるような心地よさだ。


「目立たないけど全身の筋肉がまんべんなく鍛えられた、本当にレスラーとして理想的なボディね……家では一体どんなトレーニングしてるの?」


 耳元で、エミの声が囁くように尋ねてきた。


「普通に腕立て伏せとか腹筋とかストレッチとか……あと、鴨居に指を掛けて懸垂とかやってます。1日千回くらい」

「指懸垂で? 素晴らしいわ! 元々の運動神経に加えてそれだけの自主トレを継続できる精神力……もし鷹見さんが陸上や体操の選手なら、間違いなくオリンピック候補にだってなれるでしょうに。何だかもったいないわね」

「そ、そんなこと……エミさんこそ、さっきの投げ技……さすが『ヴァルハラ』のエースです。直にご指導頂けて、本当に光栄です」

「ウフフ、ありがと。でも私だってもうアラサーだしね。1日も早く、団体の明日を担う若い子たちに育って欲しいわ」


 そんな会話を交わしているうち、ふと亜里砂は自分を背後から抱き留めるエミの身体つきが気になった。

 女子プロレスラーだからもっとゴツゴツした筋肉質かと思いきや、背中に密着した彼女の感触は驚くほど柔らかい。


(エミさんこそ、器具だけに頼らない筋トレとストレッチングを毎日欠かしてないんだ……それこそ10年近くも)


 それはそれとして、ちょうど肩の辺りに当たる豊かな2つの膨らみは、亜里砂にとって不思議なまでの安心感と、どこか懐かしく切ない感情を想起させるものだった。


(この感じ、初めてじゃない。ずっと昔、誰かにこうしてお風呂に入れてもらったっけ……)


 トレーニングの疲れも相まって、うとうと夢うつつとなる亜里砂。

 一方、エミは両手にボディソープを取って泡立てると、すっかり己の胸の中に身を委ねた少女の身体を優しく洗い始めていた。


(……お母さん……)



 肩を揺すられはっと目覚めたとき、亜里砂はいつの間にか元の制服を着せられ、見知らぬ自動車の助手席に座っていた。

 車内の広さから判断して、おそらく国産の軽自動車だろう。


「起こしちゃってごめんなさい。家まで送るわ」


 すぐ隣の運転席から、やはりレディスーツに着替えたエミが車のエンジンをかけながら声をかけた。

 シャワールームですっかり眠り込んだ自分を、エミはわざわざ着替えさせたうえ、駐車場に停めたマイカーまで運んでくれたのだろう。


「あのっ大丈夫です! 近くの駅まで送って頂ければ、あとは自分で……」

「いけません。あれだけの投げを受けたあなたは、いま自力で歩くのも難しい状態のはずよ。トレーナーとして最後まで無事に送り届ける責任があるわ」

「はあ……」


 そこまでいわれては断れず、亜里砂も自宅の住所を伝えた。


「あら、ちょっと遠回りになるわね」


 少しの間考え込んでいたエミだが、やがてポンと手を打ってにっこり笑った。


「よかったら、晩ご飯うちで食べて行かない?」

「そんな……いいんですか?」


 スマホで時間を確かめるとまだ夕方の5時だ。

 父親の夕食は家を出る前に調理し、いつでもレンジで温めて食べられるようにラップして冷蔵庫に入れてある。

 家へは帰りが遅くなる旨、電話しておけば問題ないだろう。


「じゃあ、お言葉に甘えて……」

「決まりね。ところで帰りにちょっと託児所に寄るけど、いいかしら?」

「?」


 その時になって初めて気付いた。

 車のバックシートにピンク色のチャイルドシートがベルトで固定されていることに。



(……あれ? ここがエミさんの家?)


 エミの車を降りた亜里砂は、駐車場から建物を見上げて意外の感を覚えた。

 加納エミといえば現役レスラーのエースにしてチーフトレーナー、そしてマッチメイカーをも兼ねる、「ヴァルハラ」においては社長の岡本に次ぐ重鎮である。

 当然その自宅も庭つき一戸建てか高級マンションかと思いきや、そこはごく普通の賃貸アパートであった。


「『エースの家にしては……』って思っちゃったでしょ?」


 後部座席から3歳になる長女の陽菜ひなを降ろして抱き上げながら、エミが笑った。


「と、とんでもないです! そんなこと……」

「団体エースなんて偉そうにいってもね、月々貰う給料は普通のサラリーマンとそんなに変わらないわよ? 家賃に生活費、この子の養育費、それに将来に備えた貯金……そう、贅沢は敵なのよ」


 最後の方はちょっと節をつけて歌うように、自動車と家の鍵を束ねたキーホルダーのリングを指先でクルクル回しながら、エミは軽い足取りで自宅の扉へと向かう。


『育ち盛りの赤ん坊抱えて――』


 伊藤戦の直後、医務室で聞いた岡本の言葉が亜里砂の脳裏を過ぎる。


「エミさんだって大変なのに……なのに、私のために600万なんて……」


 その頃になってようやく自力で歩けるまで回復した亜里砂は、瞳に涙をためて深々と頭を下げた。


「申し訳ありません! 本当に……ご迷惑をおかけしましたっ!!」

「私だって人の親よ? いくら借金のためといえ、まだ15歳のあなたの将来が、大人の勝手な都合で決められるのが許せなくて……」


 胸に抱いた陽菜を見つめて呟くエミだったが、亜里砂の方へ振り返りペロっと舌を出すと。


「とはいえ、確かに勢いで言っちゃったところもあったしね。鷹見さんが『ヴァルハラに残る』って決意してくれて本当に嬉しいわ。ウフフ」

「はいっ!」



「お邪魔しまーす」


 亜里砂が玄関口から屋内に上がると、中もごく平凡な2LDKアパートだった。

 ただし床には幼児向けの玩具が幾つも置かれ、壁には陽菜が描いたらしいクレヨン画が至るところに貼られているのがいかにも小さな子供のいる家庭らしい。


(旦那さんは、まだ仕事かな?)


 そんなことを考えながらリビングを見回した亜里砂はそこではっとした。

 壁に貼られた絵の中に描かれた「人間」は、母親のエミと陽菜自身だけ。

 他には動物や花や乗り物、アニメキャラらしき架空の人物だけだ。


「ありもので悪いんだけど、カレーでいいかしら?」

「はい。……あ、私もお手伝いします!」


 キッチンの方から尋ねるエミの言葉に答え、亜里砂も慌ててそちらへ向かった。


「夫とはね、離婚したのよ。2年前に……だからあの子は父親の顔を憶えてないの」

「……そうなんですか」


 冷蔵庫から取り出したニンジンやジャガイモの皮を並んで剥いている最中、まるで世間話のごとくエミが切り出した。

 リビングの絵を見た亜里砂が訝しく思っているのに気付いたのだろう。


「とても真面目な会社員で、いい人だったのだけれど……どこで道を踏み外したのか、外の飲み屋で知り合った女の人に……」


 会社帰りに通っていたパブのホステスに入れ込みむあまり、金品を貢ぐためクレジットカードやサラ金から借りまくった。それでも足りず、ついに岡本の経営するヤミ金にまで手を出してしまった。

 返済が滞り、職場や自宅にまでサラ金業者たちが押しかけてくるに及び借金の件が露呈。上司から「退職金で返済しろ」と言い含められ、夫は会社を辞めざるを得なかった。

 もちろん中途退職金だけで全て返済できる額ではない。

 エミ自身は何とか夫を助けてやりたかったが、当時生まれたばかりの陽菜を守るため、やむなく離婚せざるを得なかった。


「それで私自身は取り立てに合うこともなくなったけど、事情が事情だからあの人に対して慰謝料や陽菜の養育費まで請求するわけにはいかない。建てたばかりのマイホームも借金の抵当に取られて、途方に暮れてるとき……あの岡本さんが声をかけてきたの。『この件に関してはお互い被害者みたいなものだから力になろう』って」

(あの社長……本当に口が達者だなぁ)


 亜里砂は内心で呆れたが、同時に以前から感じていた疑問をそれとなく口にしてみた。


「えっと……そのとき、エミさんはもうFEWAを引退されてたんですよね。引退の理由はやっぱり結婚だったんですか?」

「一度引退したのは確かだけど……理由は違うわ」


 エミの表情が一層暗くなる。

 亜里砂としては何とか話題をプロレス方面に逸らすつもりが、もっと触れてはならない「何か」に触れてしまったようだ。

 そのとき、リビングの方から陽菜がトコトコ近づいて来た。


「こらっ、お料理中にこっち来ちゃダメ!」

「ママー、そのおねーちゃん、だれ?」

「この人は鷹見亜里砂さん。ママと一緒にお仕事してるお姉さんよ?」

「たかみ……ありさ?」

「『ありさ』でいいよ? こんばんは、陽菜ちゃん」

「ごめんなさい、鷹見さん。料理は私が作るから、しばらく陽菜の相手をしてやってもらえないかしら?」

「え、私が? いいですけど……」



 最初は初対面の亜里砂を警戒する様子の陽菜だったが、玩具を使い20分ばかり遊んでやると、すっかり懐いて「おねーちゃん、おねーちゃん」と甘えてくる程になった。


「お待ちどおさま」


 その頃になってエミが亜里砂たちを招いた。

 同時に食欲をそそるカレーの香りが部屋中に漂う。


「いやー、おねーちゃんとあそぶぅ」

「ダメ。晩ご飯を食べてから、ね?」


 リビングのテーブルには大皿に盛ったカレーが二皿。

 さらに付け合わせのサラダとオレンジジュース。

 陽菜用の小皿にはすりリンゴと蜂蜜を混ぜて辛みを抑えた子供用カレーが盛られ、加納家のささやかな夕餉が始まった。

 席についてスプーンにすくったカレーを一口含んだ途端、亜里砂は胸が一杯になり、涙ぐんで俯いた。


「ごめんなさい、辛すぎたかしら?」

「違うんです……私の母も、離婚して家から出たんです……私が中学に上がった年に」

「あ……」

「それから家の食事も学校のお弁当も私がずっと作って……だから……こんな風に誰かに晩ご飯を作ってもらうなんて、何年かぶりで……」


 掌で涙を拭った亜里砂は、気を取り直してカレーをを口に運んだ。


「美味しいです……こんな美味しいカレー、生まれて初めて食べました!」

「ありがとう。でも陽菜が大きくなったら、やっぱり鷹見さんのような思いをさせてしまうのでしょうね……」

「陽菜ちゃんにはエミさんがいるじゃないですか? うちは父子家庭だから、私が母の代わりになるしかなかったですけど」

「だといいんだけど……」

「ねえ陽菜ちゃん? 陽菜ちゃんのママはねー、とーっても強いプロレスラーなんだよ?」


 お皿から顔を上げた陽菜が、きょとんとした顔で丸っこい瞳を瞬いた。


「ぷろれすらーってなーに?」

「あ! この子にはプロレスの話は一切してないの。その手の番組やビデオも全然見せてないわ」

「え、そうだったんですか?」

「その……三歳児は一番目が離せない年齢なのよ。1人で結構動き回れるし、好奇心も旺盛で……だから真似したら危ないでしょう?」


 確かに筋は通っている。

 だがいつもの理路整然とした口調に比べ、その時のエミの言葉はやや歯切れの悪いものとして亜里砂には聞こえた。


 ともあれ母親であるエミがそういう以上、この場でプロレスや格闘技の話を出すわけにいかなくなった。

 となると、遙かに年上のエミといったい何を話せばいいのか?

 話題に詰まった亜里砂がリビングを見回すと、本棚の一角に目立たぬ形で小さな写真立てが置かれてるのに気付いた。


(ポートレート?)


 写真立てが置かれている高さからして、幼い陽菜の目に入らないようにとの配慮だろう。

 しかし視力の良い亜里砂には、そのポートレイトに誰が写っているのかすぐ分かった。

 今から10年近く昔、女子プロレスラーにしてアイドルデュオ「バーニング・ギャルズ」として人気絶頂を誇っていた頃の加納エミと伊藤マキ。

 夜叉のごときトップヒールと化した現在の姿とは対照的に、B・G時代の伊藤は髪をショートにカットし、その顔にはまだあどけなささえ残る。

 ジャージ姿で明るく笑う2人に挟まれるようにして、高校生くらいの少女が朗らかにVサインを出していた。


「あの写真……バー……いえエミさんと伊藤さんですよね?」

「あら見つかっちゃった? 我ながら未練がましいけど、自分の人生で一番輝いてた時代だったから……」

「真ん中の子はどなたです? ファンの子でしょうか」

伊藤真由いとうまゆ……伊藤さんの妹さんよ」

「伊藤さんに妹が?」


 初耳だった。


「その方、エミさんたちと『同じ仕事』をされてるわけじゃないですよね?」

「もう亡くなったわ。……いえ違うわね……私が殺したの」

「……え?」


 カチャン、とスプーンを皿に置く音。

 驚いた亜里砂が慌てて視線を戻すと、エミは食卓の上で組んだ己の両手に、じっと視線を落としたまま黙り込んだ。

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