第17話
「えーと……この駅の西口から出ればいいんだよね」
初めて下りた駅の改札を出た亜里砂が、電話で教わった通り西口から出ると、そこは少しこぢんまりとした駅前商店街のある町だった。
既に負傷は完治し、医師からも試合出場にOKをもらっている。
ただし今日の目的はプロレスの試合ではなく、日曜の休みを利用して「ヴァルハラ」所属の女子レスラーたちが「道場」と呼ぶトレーニングジムを訪れることだった。
これはプライベートな訪問なので、交通費は自腹でバス・電車を使い、メモ書きの略地図を頼りに自分で捜すのだ。
幸い道に迷うことなく、商店街の外れあたりにある「その建物」は徒歩10分弱で見つかった。
『レディース・トレーニングジム シエル』
そう看板を掲げたコンクリート3階建てのビルは、表向きどこにでもありそうな女性向けフィットネスクラブといった外観である。
実際「オカモト金融」が融資し、経営破綻したため抵当として接収したフィットネスクラブを改装したものらしいが。
現在は女子プロレス団体「ヴァルハラ」の専用ジムとして日常のトレーニングに使われている。
すぐ近所には女子レスラーたちが共同生活する寮もあるという。
表のガラス扉には「本日休業」の札がかかっていたため、亜里砂は裏口に回った。
インターホンのボタンを押して自分の氏名と訪問目的を告げると、すぐ通用門のロックが外れ屋内に入ることができた。
持参した上履きに履き替えて廊下を歩くと、壁際の大きなガラス窓を通してジムの内部が見渡せる。
TVや雑誌でしか見たことのないようなトレーニングマシンの数々、天井からぶら下がったサンドバッグ。
さらには試合で使うのとほぼ同じ本物のリングまで設営されている。
(うわぁ、本格的……)
中学の制服姿で踏み込むのはいささか場違いだと知りつつも、ジム内に入った亜里砂は、手近で目についたトレーニングマシンの一つに恐る恐る手を触れてみた。
(これ、どうやって使うのかな?)
「今日は他の選手には休んでもらったわ。ビル管理や警備の人たちを除けばあなたと私、2人だけよ」
声がした方に振り向くと、レオタード姿の加納エミがトレーニングベンチに横たわり、100kgはありそうなバーベルを呼吸に合わせてゆっくり上げ下げしていた。
「身体の具合は?」
「はい。おかげさまですっかり……お医者さんから試合の許可も頂きました」
「そう、よかった」
持ち上げたバーベルをラックに置くと、エミはベンチから降り、タオルで汗を拭きながら歩み寄ってきた。
「それで、一昨日電話をもらった件だけど……心の整理はついたかしら?」
「……」
亜里砂はすぐには答えず、視線を床に落とした。
一昨日の晩、スマホでエミに電話し「このままプロレスを続けていいのか分からなくなった」と素直に心境を告白した。
しばらく電話の向こうで黙って聞いていたエミだが、
『とにかく一度会って話をしましょう。できればそれまでに、あなたなりの希望をまとめておいてもらえると助かるわ』
話し合いの場所として「ヴァルハラ」の道場を指定された。
そして今、こうしてエミ本人と対面しているわけだが――やはり、亜里砂の中では未だに答えが見つかっていない。
そんな亜里砂の心中を察したのだろう。
ややあって、エミの方が先に口を開いた。
「この間の伊藤さんとの試合……どう思った?」
「……すごく痛かったです。痛くて、怖くて……もちろんお互い同意しての真剣勝負だから、伊藤さんを恨んだりはしません。でも結局全然歯が立たなかった自分が情けなくて、悔しくて……」
喋っているうちにあの悪夢のような記憶が蘇り、亜里砂は俯いたまま大粒の涙をポタポタと床に零した。
「私、プロレスを……格闘技を甘く見てました。相手の攻撃はすべて避ければいい。殴られる前に殴って相手を黙らせればいい……思い上がりもいいとこです。人に殴られるのって、投げ飛ばされるのって……あんなに痛いことだったんですね」
「あの試合はさすがにやり過ぎだったけど……普段私たちがファイトしてるプロレスだって概ね似たようなものよ? もちろん相手のレスラーも最低限の手加減はするし、こっちも身体を鍛えたり上手な受け身を覚えることでダメージを抑えることはできるけど、それで痛みが消えるわけじゃない。たとえばボクサーが人を殴るプロとするなら、私たちプロレスラーは殴られる方のプロなのよ」
「……」
「伊藤さんが肋骨を折った話は聞いてるわよね?」
「……はい」
「彼女も『徹甲』の一撃を受けて内心怖かったと思うわ。だから普段の試合では『禁じ手』になってる裏技まで使って反撃したのね……自分の負傷を悟られないように」
「それでも負けたのは私です。何も言い訳できません」
「そのことなら気にしなくてもいいのよ? あなたが正規の入団テストも受けずにいきなりリングデビューしたことに怒ってた子もいるけど、あの試合に関しては誰ひとりあなたのことを笑ったりしてない。むしろ『最後まで逃げなかった鷹見は根性がある』ってみんなから見直されてるくらいよ」
「……でも、私に恒河流を教えてくれた師匠は……昔の武道家同士の果たし合いで、負けることはそのまま死を意味したって――」
そこまで聞いてエミの表情が一変した。
「あなたは自分の技で人を殺してみたいの?」
柔和な微笑をたたえていた「ヴァルハラ」のエースが、まるで別人のごとく柳眉を逆立て亜里砂を険しく睨み据える。
「え!? いえ、そんな……違います!」
「たとえあなた自身に死ぬ覚悟があったとしても対戦相手までそうとは限らない。ましてや相手の家族や親しい人々がどんな思いをするか……少しでも考えたことがある!?」
「わ……私……」
「――あ、ごめんなさい。ついムキになってしまって……」
エミは己の顔に手を当て亜里砂に背を向けると、気を鎮めようとするかのようにトレーニングベンチの脇に置かれたスポーツドリンクで喉を潤し、一度深呼吸してから振り返った。
「あなたが格闘家として純粋に強くなりたいと願う……その気持ちはとても立派だし、むしろ曲げて欲しくないと思う。でもね、プロレスの世界に限ってその考えは通用しないのよ」
「分かってます……演出とか筋書きとか、そういうのがあるんですよね?」
「もっと本質的な問題よ。護身、プライド、名誉、お金……人により動機は色々だけど、殆ど全ての格闘技や武術は『自分はできるだけ傷つかず相手を倒す』この一点を目的として、選手は自分の身体を鍛え技を磨いてるわよね? でもプロレスだけが違う。プロレスの目的は対戦相手を倒すことでも自分が勝つことでもない。お客さんに他の格闘技や武術では見られないような激しく夢のある試合を見せること。だから、相手のレスラーは倒すべき『敵』じゃなくて一緒に試合を創り上げる『仲間』なの。そう思えない人は本当の意味でプロレスラーになれないし、なるべきじゃないわ」
「……!」
予想もしなかったエミの言葉に、亜里砂は胸を衝かれたような気分で顔を上げた。
「鷹見さんが望むような真剣勝負で戦える場所は、プロレスのリング以外にいくらでもあるわ。ボクシング、キックボクシング、実戦空手、総合格闘技……あなたほどの才能があればおそらくどんな競技でも超一流のトップアスリーターになれる。こんなこと言ったら社長に叱られちゃうけどね、埋もれて欲しくないのよ。こんな小さな団体で……うふふ」
エミの顔に、いつもの穏やかな微笑が戻った。
「あの……!」
「お金のことなら、違約金の600万円はこの前言ったように私が立て替えるわ。元々の借金が残ることになるけど……それは鷹見さんのお父様と社長の、それこそ大人同士の問題。それに巻き込まれて娘のあなたが犠牲になるなんて、許されることじゃ――」
「あの! えっと、そうじゃないんです!」
「え?」
「今のエミさんのお話――私が今まで考えていた格闘技や武術とは全然違うけど、とっても素敵な考え方だと思います!」
少女は拳を握り瞳を輝かせて、かつて憧れ、今は同じ団体に所属する先輩レスラーを見上げた。
「実は私、自分が身につけた恒河流をこれからどう使おうかずっと悩んでたんです。師匠が姿を消しちゃったからこれ以上何を目指して修行すればいいか分からない。誰かに教えようにも、悪用されたら危険な技ばかりで下手な人間には教えられない……『強くなりたい』という気持ちは今でも変わりません。だけど他の誰かを殺したり傷つけたりせず恒河流の『技』を活かす――それがプロレスのリングならできるじゃないですか! 子供の頃、私TVで『バーニング・ギャルズ』の試合を見ていつも夢と勇気をもらってました。今度は自分がリングの上であんなファイトをしてみたいんです!!」
「本当にいいの? 今後は社長がどう言おうと『ヴァルハラ』のリングで真剣勝負は私が許しません。別に団体の面子がどうなんてことじゃなく、同じ団体の仲間同士がリングの上で殺し合うところなんかもう見たくないから……つまり、伊藤さんへのリベンジを願ってもそれは無理なのよ?」
「ええ。岬さんに言われた通り、もう試合の勝ち負けにはこだわりません。次に伊藤さんと戦うときは、あくまで同じプロレスラーとして、互いにリングの上でどれだけ輝けるかを競いたい――それじゃあダメですか?」
「プロレスの試合に筋書きがあることは、少し格闘技に詳しい人間の間じゃもはや常識。それを分かった上で、なおプロレスを支持してくれるファンの人たちも大勢いるけど……少なくともプロボクシングや総合格闘技の世界チャンピオンみたいに『格闘家』として尊敬されることは期待できないわよ。それでもいいのね?」
「はい! 私、加納さんや笹崎さん、岬さん、大橋さん――『ヴァルハラ』で出逢った先輩方のおかげで、ようやく自分の『夢』を見つけられました!」
亜里砂は腰を折り、先輩レスラーに向かい深々と頭を下げた。
「お願いします。私にプロレスを教えて下さい!!」
加納は亜里砂の覚悟のほどを見極めるように、少女の目をじっと見つめていたが。
「……今日、トレーニングウェアは?」
「学校で使ってる運動着とハーフパンツなら……」
「充分よ。着替えたら、ストレッチで充分身体をほぐしておいてね」
更衣室で運動着に着替え、柔軟体操を終えた亜里砂がジムに戻ると、上下にジャージを着込んだエミはパイプ椅子に座り、クリップボードに挟んだ書類の束を用意して待っていた。
「まずは『ヴァルハラ』でやってる正規の入団テストと同じメニューをこなしてもらいます。鷹見さんの基礎体力や身体能力を把握したいですから」
「はいっ!」
そして亜里砂はエミに指示される通り運動メニューを消化し始めた。
腹筋50回、足上げ腹筋20回2セット、腕立て伏せ20回5セット、スクワット200回――それらを殆ど間隔を置かずスピーディーに行っていくのだ。
大の男でも途中でへばりそうなメニューであったが、亜里砂にとっては毎日自宅で行っている恒河流の稽古に比べればずいぶん楽な運動に思えた。
さらには各種トレーニングマシンを用いた筋力測定、ランニングマシンやエアロバイクを使った心肺能力の測定etc.
全てのメニューを終えたあと、結果の数値を書き込んだ測定シートを眺め、エミは感嘆したようにため息を洩らした。
「驚いたわね……鷹見さん、あなたの身体能力は中学生のレベルを遙かに超えてます。おそらく一般の入団志望者としてテストを受けても楽々と合格したでしょう。ただ……」
「ただ?」
「うちの入団テストには体力測定の他に体格審査もあって……最低でも身長155cm以上が合格ラインなの」
「そんなぁ~!」
「あ、もちろん鷹見さんの場合はもうリング上で『実績』があるから。これくらいは免除して構わないでしょう」
半べそをかいた亜里砂を、エミは慰めるように笑った。
「あの……身長は別にして、今の私にプロレスラーとして足りないものって何でしょうか?」
「そうね。ちょっとこっちに来て」
エミはジャージを脱ぎ捨て再びレオタード姿になると、亜里砂には上履きを脱がせ2人でジム内にあるリングの上に昇った。
「ちょっと両手を貸して……そうそう」
リング中央で向かい合うと、自分の両手を亜里砂の肩にかけ、亜里砂にも同様に自分の肩に両手を掛けさせた。
つまり2人はがっぷり4つに組み合った格好になる。
「これがレスリングの基本体型、ロックアップ。最近はレスラーでもパンチやキックの打撃技を得意にする選手が増えたけど、プロレスのベースはあくまでレスリング。本来はこの体勢から試合を始めるのが基本なの」
「はいっ」
「じゃあちょっと力を入れるから、倒れないよう踏ん張ってね?」
「はい――って、ええっ!?」
エミは特に強く押してきたように思えなかった。
もちろん亜里砂も言われた通り踏ん張って抵抗する。
――にもかかわらず、エミの片手が左肩を押したと思った次の瞬間には、亜里砂はマットの上に押し倒され、わけもわからぬまま俯せの体勢で押さえつけられていた。
「恒河流の技を使えば相手の身体に殆ど触れないまま倒すことも可能でしょう。だけどそれだけじゃ20分、30分と続くプロレスの試合はできないわ。あなたはまずレスリングの基本を学ぶ必要があります」
続いて亜里砂を押さえつけたまま、彼女の左手を取って逆関節を極める。
「あいたたた! ま、参りました!」
「まだよ! 柔術やサンボならこの時点で試合終了だけど、ここから先が『プロレス』なの。暗黙の了解があるから本当に腕を折られることはない。でも逆にいえば、あなたはこの痛みに耐えながらロープをつかむか、自らの力で相手の技から逃れるか、それともギブアップするか選択しなければならないのよ」
「……!」
やがてエミは亜里砂の腕から手を離し、少女を再び立ち上がらせた。
「とまあ、ここまではテクニック面の話。今まで打撃系の恒河流を修行してきた鷹見さんには違和感があるかもしれないけど、あなたほどの才能があれば、レスリングも関節技もさほど時間をかけずにマスターできるでしょう」
「はい! ありがとうございます」
「問題は次。うちの練習生には必ず受け身を取るためのトレーニングをやってもらってます」
「それ大橋さんから聞きました。リングの上で、先輩レスラーから投げられる……ってやつですよね?」
「そうよ。プロレスの場合、あからさまに受け身を取ったらお客さんがしらけてしまいます。かといって無防備に受けてたら命が幾つあっても足りない。いかに目立たず、相手の投げ技の威力を際立たせつつ自分のダメージも最小限に抑えるか……こればかりは身体で覚えてもらうしかないわ」
亜里砂は思わず息を呑んだ。
バックドロップ、ブレンバスター、パワーボムなどプロレスの投げ技には人間の頭部や首を直接痛めつける技が多い。
素人が面白半分にかければ、確実に大ケガ、最悪死をも免れないだろう。
「これからしばらく私があなたを投げ続けます。もちろん安全面には配慮しますが、本番の試合よりも強めに投げます。覚悟はいいですね?」
「はい……お願い、します」
一瞬、メデューサ伊藤にリングの上で投げまくられた地獄のようなトラウマが蘇る。
だが亜里砂は怖れを振り払い、改めてロックアップの体勢でエミと組み合った。