第15話
リングの上では序盤から一転、伊藤の猛攻が始まっていた。
小柄な少女の身体を抱え上げるや、今度はボディスラム。
痛みを堪えて立ち上がろうとする亜里砂の手を取って引きずり起こし、ブレンバスター、ダブルアームスープレックス、投げっぱなしジャーマンと、長身を利した投げ技で幾度となくマットへ叩き付ける。
「……ううっ」
仰向けに倒れたまま身動き出来ない亜里砂。
レフェリーがKOのカウントを取り始めるが、伊藤はそんなものお構いなしにストンピングで少女の顔面や腹を踏みつけた。
「ブレイク! ダウンした相手への攻撃は反則!」
レフェリーが間に入ったため、舌打ちして伊藤はいったん離れる。
普段の悪役としての試合ならばレフェリーを突き飛ばして相手をリングから引きずりおろし場外乱闘へ持ち込むところだが、今夜はやけに大人しい。
ここで亜里砂を潰すつもりの伊藤としては、反則負けや両者リングアウトで簡単に試合が終わっては困るからだ。
カウント8で辛うじて立ち上がった亜里砂に背後からのラリアート。
身体を「く」の字に負った少女の上半身を押さえつけ、腹と背中へ膝蹴りとエルボーを同時にお見舞いした。
サンドイッチ攻撃で嬲られた亜里砂の口から苦痛の呻きが洩れるが、身体を支えられたままダウンすることも許されない。
「あたしが留守中に随分好き放題やってくれたようだけど……楽にKOなんてさせないよ。プロレスのリングに土足で上がり込んだ報い、今夜は徹底的に思い知ってもらうからな!」
◇
「宮本武蔵の映画は観たか? 俺は昔、萬屋錦之助が主演したシリーズが好きなんだが」
唐突に岡本が話題を変えた。
「ええ、あれは私もDVDで全部揃えてますよ。原作の小説も読みました」
「カッコいいよなぁ武蔵は。吉岡一門との決闘、それに巌流島……どれも最初の一撃で相手をぶっ潰し、勝負が終わり次第さっさと退散。まあ史実がどうだったか知らねぇが、昔の武芸者同士の『果たし合い』ってのはあんな感じだったんじゃねえか?」
「そうですね……決闘といっても相手が1人とは限らない。もし勝ったとしても、どこに敵の伏兵がいるか分かりませんしね」
まだボクサーになる以前、街中の喧嘩でも場数を踏んだ若い頃を思い返しながら、長谷川は答えた。
「俳優のブルース・リーは実際にもカンフーの達人だったが、奴さんに言わせれば『喧嘩は先手必勝、最初の6秒以内で相手を仕留めるのが理想』だそうな。もっとも映画の中じゃ正義のヒーローだから、悪役から殴られても耐えに耐えて、最後に怒りを爆発……って現実とは正反対の演技をしなきゃならなかったのは皮肉な話だがな」
「つまり恒河流も本気の喧嘩前提の短期決戦を目的に編み出された……あ! 鷹見の動きが急に鈍ったのは――」
「あの嬢ちゃんは確かに強え。ストリートファイトなら女子プロレスどころか男のプロレスラーや総合格闘技のヘビー級チャンプにも勝っちまうかもしれねえ。だがそれはあくまで『喧嘩』での話。陸上競技でいえば短距離スプリンターの強さだ」
長谷川もようやく上司の言わんとすることを理解した。
一口に「真剣勝負」といっても、ルールに則って対戦する格闘技や武道と、文字通り互いの命を賭けた「果たし合い」やストリートファイトでは必要とされる「強さ」の性質が全く異なるのだ。
「プロの格闘家であっても全力で戦える時間は限られている……」
「だからボクシングやキックは3分ごとのラウンド制をとり、アマレスなら休憩を挟んで6分の前後戦……他の格闘技や武道だって試合の制限時間は短いもんだろ? リングの上で20分30分、時には1時間以上もぶっ通しで取っ組み合ってる『格闘技』なんてプロレスくらいのもんだぜ」
「恒河流の場合は……どうなんでしょうか」
「俺も鷹見から全部聞いたわけじゃねえが、何でもありの実戦を前提に『相手を倒す』ことだけを目的とした格闘術なら……それこそ最初の6秒、長くても5分かそこらの短期決戦で相手を仕留められるよう技や稽古の体系が組み立てられているはずだ。……いや、そもそも10分以上ダラダラ戦う試合なんか想定してねぇんだろ」
「ちょっと待って下さい。5分しか戦えないなんて――それじゃプロレスラーとして使い物にならないのでは?」
「そうでもないぜ。たとえばタッグマッチで適当に休ませるとか、鷹見の試合だけラウンド制の格闘技戦ルールをとるとか、やり方はいくらでもある。まあそれも本人が筋書きつきのファイトに同意した上での話だがな」
そこまでいってから、岡本は再び腕時計に目を落とし訝しげに呟いた。
「……しかし伊藤のやつ、いつまで遊んでんだ? 確か『15分程度で終わらせる』って言ってたはずだが」
◇
亜里砂は伊藤の両手で首を締められ、ネック・ハンギングで高々と宙に吊り上げられていた。
(く、苦しい……)
唯一自由になる足で伊藤のボディを蹴るものの、大地を支点にできない状態では恒河流本来の力が出せず殆どダメージを与えられない。
「軽いわねぇ……梃子の原理か何だか知らないけど、アンタ地面に手か足をつけてないと何にもできないの?」
伊藤は少女の身体を無造作に投げ捨て、自分は手近のロープ際に背中を預けると、亜里砂が再び立ち上がるのを退屈そうに待った。
「ああ、つまらない。これじゃまるで弱いものいじめよねぇ……可哀想だから、アンタにも1度だけチャンスをやるよ」
「……?」
ぜいぜい肩で息をしながら、亜里砂は怪訝そうに伊藤を見上げた。
既に両足で立っているのがやっとという有様だ。
「例の『徹甲』とかいう技、受けてやるよ。試合が終わったあとで悔しまぎれに『メデューサが自分の必殺技を恐れて逃げ回ったから負けた』なんて吹聴されても迷惑だしね」
1歩踏み出し、両手を開いた無防備な姿勢で少女の前に立ちはだかった。
(どういうつもりなの……?)
一瞬、亜里砂は心中で複雑な葛藤を覚えた。
完全な状態で使えば大の男でさえ一撃で吹き飛ばす「徹甲」だが、威力が大きい分瞬間的に消耗する体力も相当なものだ。
今使えば残り少ないスタミナが完全に底を着くことになる。
さらに小栗戦ではまだ余力があったため「手加減」することも出来たが、今の状態ではそんな芸当も無理だろう。
(最後の一発……下手すれば伊藤さんに大ケガさせちゃうかもしれない……でも……)
ベルト争奪トーナメント第1戦、あの日控え室のTVで観戦した加納エミのファイトが胸中に蘇る。
この試合で伊藤に勝てば、トーナメント決勝戦でエミと、「ヴァルハラ」のエースと戦う権利が得られるのだ。
(負けたくない……勝ちたい。勝って、「あの人」と……!)
亜里砂は覚悟を決めると、息を吸って腰を落とし、右拳を腰に引きつけた。
今にも気絶しそうな全身の痛みに耐えつつ、眼前の伊藤に向けて大きく右足を踏み出し、同時に右拳による直突きを繰り出した。
ダンッ!!
マットを踏みしめる足音が響き渡り、伊藤の身体が後方へ吹き飛ばされる。
背後のロープにぶつかり外に飛び出すかと思えるほどの勢いで大きくはみ出すが、次の瞬間には反動で元に戻り、トップロープに両腕を掛けた姿勢のままがくりと頭を垂れた。
数秒、店内が沈黙に包まれる。
「……くっくっく」
地の底から響くような嗤い声。
やがて伊藤が顔を上げ、乱れた髪をかき上げながら、おかしくて堪らないという様子で高らかに笑った。
「アーッハハハ! これが恒河流の『必殺技』ってヤツ? 全然っ効かないわね!」
(そんな……「徹甲」の衝撃を殺した……ロープの反動を使って……)
亜里砂の両足から力が抜け、よろよろとマットに膝を突く。
フワリと身体が宙に浮く感覚。
いつの間にか背後に回った伊藤が、自分の背中を抱え軽々と肩の上まで担ぎ上げている。
プロレス技でいえばバックドロップかアトミックドロップに移行する直前の体勢だが、もはや意識が薄れかけた亜里砂には、相手が何をしようとしているのか判断すらつかなかった。
「中々面白いもん見せてもらったよ……こっちも何かお返ししてあげなくちゃねぇ?」
亜里砂の身体が弧を描き、勢いよく前方に落とされる。
「……!」
尻から脳天まで串刺しにされるような激痛を覚え、少女は悲鳴を上げようとしたが声にならなかった。
◇
試合の様子をモニターするTVを前に、大部屋の控え室は水を打ったように静まり返っていた。
ついさっきまでは伊藤の優勢に歓声を上げていた選手たちだったが、突然一部の古参レスラーたちが黙り込んでしまったため、他の若手もわけの分からぬまま沈黙したのだ。
モニターの中では、マットに倒れた亜里砂が股間を押さえたまま苦しげに身もだえしている。
「まさか……」
「リングの上で『あれ』を使うなんて……」
古参レスラーたちは青ざめた顔を見合わせ、ひそひそと囁き合った。
「あのう……」
若手の1人がダイモン小栗をつかまえ、恐る恐る尋ねた。
「伊藤さん、いま何をしたんですか? 鷹見は何であんなに痛がってるんですか?」
「……アトミックドロップ、通称『尾てい骨割り』は知ってるよな? まあホントに割ったらシャレになんねーからその辺は上手く手加減するわけだが」
「はい。でもあれは普通の試合でもしょっちゅう使う、つなぎの技ですよね? ……って、まさか本当に尾てい骨を!?」
「そうじゃねえ。伊藤さんはな、鷹見の身体を落とす時、僅かに角度を変えてあいつの金的に膝をぶち当てたんだ」
「金的? え? で、でもアレって男の人の――」
「まあ普通はそれで知られてるけどな。本来は八不打(※)のひとつ、アソコと尻の穴の間にある会陰部……要するに男女関係ねえ人体の急所だ。もっとも野郎の場合はぶら下がってるモノ蹴飛ばした方が手っ取り早いから、アソコが金的ってことになってるが」
※中国武術において「稽古中、絶対に打ってはならない」とされる人体の急所八カ所
「はあ……で、そこを打たれるとどれくらい痛いんですか?」
「い、いや、あたしも話に聞いただけだから、そこまで具体的なことは」
「知りたいか?」
小栗と若手が振り返ると、そこに笹崎凉子がいた。
「私は経験がある。キックから転向して『ヴァルハラ』に入団した当初、プロレスをバカにしていた私は道場で伊藤さんにも散々大口を叩き……そして制裁を受けた。スパーリングの最中、不意打ちであの技を食らったんだ」
それを聞いて、若手はゴクリと唾を飲み込む。
「その……やっぱり痛かったですか?」
「痛い? そんな生やさしいもんじゃない」
凉子は部屋の隅、用具入れロッカーの横に立てかけられたモップを取ると、その柄の先を突き出した。
「……こいつをいきなり自分のアソコに突っ込まれた気分だった」
「いーっ!?」
若手選手は思わず顔を引きつらせた。
「ねえ、いくら何でもやり過ぎじゃない? 伊藤さん、もしかして鷹見を潰しちゃうつもりなのかなぁ」
「潰すも何も……このまま試合続けたら、あの子本当に死んじゃうわよ?」
試合前とは一転し、選手たちは別の不安を抱いて会話を交わす。
それが誰であれ、日頃自分たちがファイトするリングの上から死人が出るなど、決して気持ちの良い話ではない。
「……」
そんな女子レスラーたちの様子を無言で見守っていた加納エミは、ジャージのポケットに入れたスマホがバイブしているのに気づき手に取った。
「はい。……社長ですか? ええ、今控え室で試合をモニターしています」
スマホの向こうから、岡本の声が何事かを指示する。
「……分かりました。すぐに支度します」
◇
「気分はどう? 痛くて声も出ないでしょ? フフフ」
傍らにしゃがみこんだ伊藤が聞いて来るが、亜里砂は返答できる状態ではなかった。
「あっ……がっ……カハッ!」
声を上げるどころか呼吸すら出来ない。
ただ股間を押さえて悶絶し、倒れたまま全身を痙攣させていた。
セコンドの美鶴は空手経験者だけあり、伊藤が亜里砂に何をしたのかすぐに気付いた。
空手の試合でも希に女子選手が金的を蹴られ負傷するケースがある。
そのため、フルコンタクト系の流派では試合の際、女子選手にもアンダーガード(女性用ファールカップ)を装着させる道場もあるほどだ。
「あかん。今夜の伊藤さん、どう見てもマトモやないで!」
やむなくタオルをリング内に投入、それを見たレフェリーが直ちにゴングを要請する。
試合自体はここで伊藤の勝利と決まったが――。
「いつまでのんびり寝てやがんだ! まだまだこれからなんだよ!」
伊藤は亜里砂の髪の毛をわしづかみにし、強引にリング中央まで引きずった。
「試合終了です! 伊藤選手、離れて!」
「うるせー! テメー、いつからあたしに命令できる身分になった!?」
伊藤から睨めつけられ、レフェリーの佐藤はその場で立ちすくんだ。
マッチメイク制をとるプロレスにおいて、レフェリーの権限はボクシングなど他の競技に比べて極めて小さい。
他の選手ならともかく、マッチメイカーの1人である伊藤から「試合の筋書きを変更した」といわれてしまえばそれ以上どうしようもないからだ。
とりあえヘッドセットマイクから、客席にいるはずの岡本に対し密かに伺いを立てる。
「……あの、社長? いったいどうなってるんですか?」
『もう手は打った。おまえは何もしなくていい』
亜里砂の身体を蹴飛ばして無理矢理仰向けにすると、伊藤はその上に馬乗りになってマウントポジションを取った。
「あ……」
「テメーも格闘家なら、この体勢の意味が分かるよなぁ? せめてものはなむけだ、最後は格闘家らしく終わらせてやるよ!」
身動き出来ない少女の顔面に、容赦のないパンチが降り注ぐ。
タップしてギブアップの意志を伝えようにも、既に試合は終わっているのだ。
たちまち亜里砂の顔が腫れ上がり、吹き出した鼻血が頬を伝ってマットを赤く染めた。
「こりゃあ凄いことになりましたなあ……」
「本当に殺す気かしら?」
口々に無責任なことを言いながら、店内の客たちも飲食の手を止め、食い入るように事の成り行きを注視している。
そのとき、一陣の風のごとく白い影がリング内に飛び込み、伊藤の肩口を激しく蹴り飛ばした。
白いリングコスチュームに身を包んだ加納エミだ。
片手にはリングアナウンサーから奪ったと思しきマイクを握り締めている。
「いつまで調子に乗ってんだバカ! 試合はとうに終わってるだろ!?」
不意打ちを食らってマットに横転した伊藤を、マイクを取ったエミが怒鳴りつけた。
一瞬何が起きたか分からず唖然とする伊藤だが、すぐに悪役としての己の役割を思い出したか、すかさず立ち上がるとエミからマイクを奪い取った。
「バカヤロー! こんなガキ、最初からあたしの敵じゃねーんだよっ!!」
リング中央でぐったり大の字になり、顔面血まみれになって倒れた亜里砂を指さし、
「よーく見ろ加納! 次はテメーがこうなる番だからな!」
実はこの時点で、リング上は陰惨な真剣勝負からいつものパフォーマンスの場へと切り替わっているのだが、見ている客の殆どは気付かない。
単純に、正義感の強いエミが状況を見かねて乱入したとしか思ってないだろう。
「上等だ! 出来るもんならやってみやがれ!」
「決勝戦なんか待ってられるか! いまここでぶち殺してやるよ!」
マイクを投げ捨てた伊藤とエミがマットの上で四つに組み合う。
続いてリングサイドの各所から伊藤の配下である悪役レスラー、エミに与するベビーフェイスたちが一斉に乱入し、互いに戦い始めた。
もはや客の視線は倒れた少女から離れ、突如として始まったバトルロイヤルのごとき乱闘に釘付けとなっている。
「亜里砂ちゃん! しっかりしてな!」
亜里砂が薄く目を開けると、上から心配そうに覗き込む美鶴とフェアリー岬の顔がおぼろげに見えた。
「ったく無茶するんだから……じゃあ私もひと暴れしてくるから、あとは美鶴ちゃん、お願いね」
ウィンクしてそう言い残すと、岬はトレードマークのツインテールをなびかせながら、自らが属するベビーフェイス陣営を助けるため乱戦に加わっていった。
そのスキに美鶴が亜里砂の身体をリングサイドまで引きずり、ちょうどリング下で練習生2人が用意した担架の上に乗せる。
そのままこっそり「パラスト」店内から運びだすが、そのとき既に亜里砂の意識は失われ、以後の記憶はぷっつりと途絶えてしまった。
◇
再び意識を回復したとき、亜里砂は自分が保健室のような部屋の中でベッドの上に寝かされていることに気付いた。
病院というほど本格的な設備があるようには見えないので、おそらくビル内にある医務室といったところだろう。
顔の上に何か冷たいものが乗っている。
「……ん……」
「気がついた?」
わずかに顔を傾けると、視界の端に誰かの顔が入った。
ボンヤリとしか見えないが、その声には聞き覚えがある。
「……エミさん……助けてくれたんですか?」
「ふふっ、社長の指示よ。伊藤さんが何だかエキサイト気味だから、他の子たちと一緒に止めてやれって」
最後に記憶が途切れる間際、リング上に大勢の人間が上がり乱闘が始まったらしいことは漠然と憶えている。
「加納さん、新しい氷持ってきました~」
美鶴の声だ。
室内には他にも何人か人の気配がある。
「ありがとう。私が替えるわ」
「試合の方は……」
「残念だけどTKOで伊藤さんの勝ち。トーナメント決勝は彼女と私がやることに決まったわ」
「ごめん! うちがタオル投げてもうたわ~。とても見てられなくて」
「いいんです、大橋さん……あのまま続けたら、私きっと殺されてましたから」
「ホントに亜里砂ちゃんも無鉄砲よねえ。相手はあのメデューサ伊藤よ? しかも途中でスタミナ切れ起こすって分かってたんなら、笹崎さんが忠告した通り片八百長で負けとけばよかったのに」
「そう言うな。もしラウンド制の格闘戦ルールなら、もう少し結果も違ってたかもしれない」
エミと美鶴の後ろから、呆れたようにいう岬と、それを窘める凉子の声も聞こえた。
「ごめんなさい……私のせいで迷惑かけて」
自分の瞳から涙が溢れ、頬を伝って流れ落ちるのが分かった。
「伊藤さんに勝ちたかったんです。そうすればトーナメントの決勝で、エミさんと試合できるから……」
「それであんなに無理したの?」
氷嚢の氷を替えながら、エミがため息をついた。
「やっぱり伊藤さんが真剣勝負の件を出したとき、マッチメイカーの1人として止めるべきだったわね。私の判断ミスだわ」
「……鏡、見せてもらえますか?」
「今はやめといた方がいいと思うけど……」
エミは美鶴に言いつけ、室内にある小さなスタンドミラーを持ってこさせた。
差し出された鏡を覗くと、無惨に腫れ上がった自分の顔が霞んで見える。
瞼の腫れで視界がぼやけているのは、精神衛生上却ってよかったかもしれない。
「お化けみたい……」
「これは一時的なものよ。幸い鼻や顔の骨も折れてないようだし、腫れが引けば元通りになるわ」
鏡を引っ込め、エミが氷を替えた氷嚢を再び顔に乗せてくれた。
「ありがとうござ……あれ?」
その時になって気付いたが、いつのまにかリングコスチュームのレオタードが脱がされ、自分は裸の上にブカブカのジャージを着せられていた。
「あの……私、何で裸なんですか?」
「着替えさせてもらったわ。あなた、その……漏らしてたから」
「……」
亜里砂は顔から火の出るような思いだった。
記憶に残ってないが、おそらくあのアトミックドロップを受けた際に失禁していたらしい。
「私の完敗です……恒河流の弱点が見抜かれてることも知らずに伊藤さんに勝とうだなんて……百年早かったです」
「バカねえ、この前もいったでしょ? プロレスで肝心なのは試合の中身。勝ち負けなんてお飾りみたいなもんだって。それに加納さんと試合がしたいのなら、『ヴァルハラ』にいればそのうち機会はいくらだってあるじゃない? うちは万年選手不足のインディー団体なんだから」
「その辺にしておけ岬。私は元キックボクサーだから、鷹見が勝負にこだわった気持ちも分かる」
エミと入れ替わるようにして、凉子が枕元に近づいた。
「さっきの試合だがな……見ていて鳥肌が立ったよ。おまえはメデューサ伊藤を『本気』にさせた。リングの上で彼女の凄みを引き出した……負けたとしても、これはプロレスラーとして誇っていいことだ」
「笹崎さん……」
再び涙が溢れ出した、その時。
「この大馬鹿野郎っ!! おまえ、俺を騙して鷹見を潰す気だったな!?」
部屋の外から雷鳴のような男の罵声が聞こえた。
岡本の声だ。
「加納を乱入させてうまく演出に繋げたからいいようなものの、危うくトーナメント戦までぶち壊しになるところだったんだぞ!」
「あーそうだよ! 社長、あんたこそプロレスを何だと思ってるんだい?」
伊藤らしき女性の声が怒鳴り返している。
「ちょっと腕が立つからって、あんなガキをホイホイリングに上げるから、あたしらプロレスラーが世間の連中に舐められるんじゃないのさ!」
「『ヴァルハラ』の社長は俺だ! 俺のやり方が気に食わないってんならいつでもクビにしてやる! ただしおまえも俺に債務があることを忘れるなよ? たとえ団体を辞めても、借金だけはきっちり返してもらうからな!!」
「ふんっ、好きにしな!」
リングシューズの足音が、つかつかと廊下を遠ざかって行った。
「……ったくあの女、何考えてやがる」
ドアが乱暴に開き、岡本らしきスーツ姿の男が部屋に入って来た。
「すまなかったなぁ、鷹見。伊藤のヤツ、大人げもなく暴走しやがって……」
「いいんです。私は全力で戦って、それでも伊藤さんに敵わなかった……それだけのことですから」
「あの、社長……やっぱり止めませんか? こんなこと」
言いにくそうな声で、エミが切り出した。
「止める? 何の話だ」
「確かに伊藤さんもやり過ぎでしたが……鷹見さんはまだ中学生なんです。スタミナ面にも問題がありますし、プロレスのリングに上げるのは……私も、早すぎたと思います」
「おいおい、お前まで何言い出すんだ?」
慌てたように岡本がいう。
「この子とはもう契約してるんだ。1年以内に身体の故障や病気以外の理由で鷹見の方から解除を申し出た場合、違約金として600万円支払うこともな」
(あれ? そんな契約になってたんだ)
車の中で慌ててサインした何枚もの契約書類。
よく内容を確かめる暇もなかったが、その中にはそんな条項もあったらしい。
「それは……私が立て替えます。他の子たちと違って、私は社長に借金があるわけじゃないですから」
「落ち着け加納。確かにおまえはオカモト金融に債務はねぇが、育ち盛りの赤ん坊抱えてそんな余裕があるのかよ?」
「エミさん……お気持ちは嬉しいですけど、私『ヴァルハラ』を辞めたりしません」
亜里砂の声に、口論していた岡本とエミが振り向いた。
「鷹見さん……本当にそれでいいの?」
「おう、よく言った鷹見! 今回の治療費は全部こっちで持つし、負傷欠場した分のファイトマネーも補償するから心配すんな」
「それより、さっきの話……伊藤さんクビになっちゃうんですか?」
「当然だ。トーナメント第1戦の件といい、これ以上好き勝手なことされちゃかなわねぇしな」
「でも……このあと決勝戦でエミさんと対戦するんでしょう? そんな大事な試合が私のせいで中止になるなんて、イヤです!」
「これは俺とあいつとの問題だ。おまえは関係ねえ」
それだけ言うと、岡本は背広のポケットから出したサングラスをかけ直した。
「とにかく、おまえはケガが治るまでしばらく休め。あとで長谷川に送らせるが、うちの会社と懇意にしてる病院があってな。大抵のケガなら立ち入った事情を聞かずに治療してくれる」
◇
(伊藤のヤツ、世話焼かせやがって……)
内心で苦々しく思いながら、長谷川は伊藤の控え室へと向かっていた。
岡本は強硬姿勢を崩さないが、現実問題としていまマッチメイカーの彼女に辞められては今後「ヴァルハラ」の運営に支障を来しかねない。
そして何より、鳴り物入りで始めた「ベルト争奪トーナメント」のイベントが台無しになってしまう。
別に伊藤の肩を持つ義理もないが、経営陣の1人として、ここは双方の間に入って仲裁するしかないと思った。
目的の部屋の前まで来ると、伊藤の付き人を務める若手選手が、なぜかオロオロした様子で廊下に突っ立っている。
「あっ、長谷川さん!」
「どうした?」
「伊藤さんの様子がおかしいんです。部屋に戻るなり、シャワーも浴びず着替えもしないで……」
「……とにかく入るぞ」
控え室に踏み込むと、部屋の奥にあるベンチに腰掛けた伊藤の背中が見えた。
首にタオルを掛けた他はリングコスチュームのままだ。
「おい、伊藤」
名前を呼んでも、女は振り向こうともしない。
それでも長谷川は言葉を続けた。
「悪いことは言わねえ、今すぐ社長のところに行って侘び入れて来い。俺からも穏便に済ますよう口添えしてやるから」
「……その話、あとにしてくれない?」
その時になって長谷川も気がついた。
伊藤は背中を丸め、自らの脇腹を押さえて苦しげに肩を震わせている。
「おまえ……まさか?」
「小栗の言うとおり……あの小娘、本当のバケモノだったよ……」
半分振り返った女の額には脂汗が浮かび、自嘲めいた笑いで口許を歪めている。
「さっきの試合中にもらった一発……あれで、肋をやられちまった」