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第14話

 控え室の一角で、亜里砂ありさは黙々とストレッチを続けていた。

 既にリングコスチュームであるノースリーブ・ワンピースタイプの赤いレオタードと黒の五分丈スパッツに着替え、足にはリングシューズを履いている。

 両手、両足、両肩、首周りと身体の各所から入念にほぐしていき、その後は床の上にペタンと腰を落としていとも容易く180度開脚。

 そのまま上半身を前方に倒し、綺麗なT字型を描いて俯せになる。


 昼間は学校、夜は自宅で自主トレ。

 一週間はあっという間に過ぎ去り、今夜は「チャンピオンベルト争奪トーナメント」第2戦、30分1本勝負によるメデューサ伊藤との試合が間近に迫っていた。


「いよいよやなぁ……」


 顔だけ上げると、「ヴァルハラ」のロゴ入りジャージに身を包んだ美鶴みつるが、セコンドとして使用するタオルやミネラルウォーター、スプレー式消炎剤など小道具の支度をしながらこちらに顔を向けていた。


「でもな亜里砂ちゃん、気負いすぎは禁物やで?」


 亜里砂から見ると、美鶴の方がよほど緊張しているように思えるが。


「相手はエースの加納さんと並ぶ実力者なんや。無理に勝とうなんて思わず、その……『胸を借りる』くらいの気持ちでええんやないかな? もし負けたって、全然恥ずかしいことあらへんから」

「ありがとうございます、大橋さん」


 亜里砂はいったん起き上がると、今度は直立した姿勢から上半身を背後に倒し、背中を仰け反らせて器用にブリッジの体勢を取った。


「私は大丈夫です。これまで通り、全力でファイトするだけですから」

「な、ならええけど……」


 その時、入り口付近に設置されたインターホンのチャイムが鳴った。


「ハイ! 鷹見亜里砂の控え室ですが」


 すかさず対応に出た美鶴が、来訪者と二言三言会話してから、不思議そうな顔で亜里砂の方へ振り返った。


「亜里砂ちゃん、お客さんや……選手の笹崎さん」

「え!?」


 笹崎凉子ささざきりょうこといえば、亜里砂が「ヴァルハラ」のリング上で初めて対戦した選手。亜里砂にとっては思い出深いデビュー戦の相手だ。

 意外な人物の来訪に、少女は驚いてストレッチ運動を中断した。



「……すまないな。大事な試合の前に邪魔をして」


 美鶴と同じデザインのジャージ(ただし選手と練習生では色が違う)のポケットに両手を突っ込み、ベリーショートの髪型に鋭い目つきの凉子が、ややはにかんだ表情で非礼を詫びた。


「とんでもない! 笹崎さんの方からいらしてくれるなんて、嬉しいです!」


 そう答えてから、亜里砂はやや遠慮しつつ上目遣いで尋ねた。


「あの……先日のおケガは……?」

「ああ。もう包帯も取れたし、心配いらない」

「ごめんなさい。私のせいで……」

「謝ることなんかないさ。試合にケガは付きものだ。それにあの試合……負けた方が言うのも何だが、私も楽しかった。久々にキックのリングに上がってた頃のスリルを思い出したよ」

「……ありがとう、ございます」


 亜里砂の瞳から思わず大粒の涙が溢れ出た。

 デビュー戦の直後、大部屋の選手控え室に呼び出された彼女は、別の若手レスラーから凉子を負傷させたことについて厳しく非難された。

 その件がずっと胸のつかえとなっていただけに、凉子の言葉を聞いた途端、涙が零れるのを堪え切れなかったのだ。

 傍らから美鶴がさりげなく差し出したタオルで涙を拭う。

 凉子は少女が落ち着くのを待って、改めて切り出した。


「ところで、今夜の試合……相手はメデューサ伊藤だな?」

「はい」

「社長からは何と?」

「笹崎さんとやったデビュー戦と同じです。『真剣勝負セメントでやれ』……と」

「そうか。やはりな……」


 凉子は腕組みして2、3秒考え込んでいたが、やがて口を開いた。


「そのことで忠告に来た。この試合は……片八百長でいい、おまえが負けろ」


 亜里砂は顔を上げ、困惑して凉子を見つめた。



 メインイベントを間近に控え、大部屋の選手控え室は不穏な空気に包まれていた。


 当初、誰もが「このカードはメデューサ伊藤が勝つ筋書き(シナリオ)」を信じて疑わなかった。

 ところが試合当日が近づくにつれ、どこから洩れたのか「今回の試合は真剣勝負セメントで行われる」との噂が広まっていたのだ。

 アスリーターとして何の実績もない中学生の少女がいきなりリングデビューしたことについて、当初多くの選手が良い感情を抱かなかった。

 それでも元キックボクサーの笹崎凉子、メインイベンターでヒール陣営ナンバー2のダイモン小栗らが真剣勝負セメントで相次いで敗れたことから、「鷹見の実力は認めざるを得ない」と評価する空気も生まれつつある。


 だが相手がメデューサ伊藤となると、また話が違う。


 悪役ヒールに転向したといえ、団体旗揚げ時からのエースであった伊藤に対し、ベビーフェイスを含め今なお少なからぬ数の選手が畏敬の念を抱いている。

 つまり彼女は現エースである加納エミと並ぶ「ヴァルハラの象徴」。

 その伊藤が万が一にも敗れることがあれば、それは「ヴァルハラ」という団体そのものが鷹見亜里砂に、そして「恒河流」という無名の格闘術に敗北したことを意味する。

 いくらかは自分たちを差し置いて「ベルト争奪トーナメント」参加者に選ばれた亜里砂個人への嫉妬もあろう。

 しかしそれ以上に、今夜の試合結果如何ではインディー団体といえども彼女らが命と生活を預けた「ヴァルハラ」そのものの存在意義が問われる「非常事態」という認識が深まっていた。

 伊藤本人は試合を前にして付き人の若手選手と共に自らの専用控え室に籠もっているが、こちらの大部屋においても、若手からベテランまで十数名の女子レスラーたちがメインイベントの予想とその結果が招く「影響」についてヒソヒソと囁きあっていた。


「小栗先輩……ちょっといいですか?」

「ん? 何だ」


 自らの試合を終えて引き上げてきたダイモン小栗に、若手選手の1人が小声で話しかけた。


「今夜の試合、もし伊藤さんがヤバいことになったら……やっちゃいましょう」

「やるって……何を?」


 若手選手の話を聞き、小栗はあからさまに眉をひそめた。

 彼女を含め数名の女子レスラーが、伊藤が敗れる、もしくは敗れそうになったとき、何と「集団でリングに乱入して鷹見を袋叩きにしよう」と計画しているという。


「ちょ、待て! マジでいってんのか?」

「だってこのままでいいんですか? 社長がどういうつもりか知りませんけど、下手するとうちらの団体そのものがコケにされたまま終わっちまうかもしれないんですよ?」

「……」


 途方にくれた小栗は、ちらりと控え室の一角を見やった。

 その壁際に、ジャージ姿の加納エミが腕組みして立っている。

 予め演出アングルとして仕組まれた「乱入劇」ならともかく、マッチメイカーの意向を無視した個人的な乱入など許されるはずがない。

 だがすっかり頭に血の昇った一部の選手は、もはや演出アングル現実リアルの区別すら付かなくなっているようだ。

 若手選手に視線を戻した小栗は、突如ドスの利いた声で怒鳴りつけた。


「バカヤローッ!! テメー、伊藤さんがあんな小娘にガチの勝負で負けるとでも思ってんのかよ!?」

「い、いえ……別にそこまでは」

「だったらつまんねーこと考えてねーでドッシリ構えてろ! 今夜の試合、伊藤さんは必ず勝つ! そう信じて、そこのモニターから応援してやがれ!!」

「オ、オス……失礼しました」


(それでいいのよ)


 ほんの一瞬、そう言いたげな視線を小栗に送ると、エミは手近のパイプ椅子に腰を下ろした。



(はぁ、バカバカしい……小学生のケンカじゃあるまいし)


 そんな同僚レスラーたちの輪から離れ、フェアリー岬は1人テーブルでファッション雑誌を広げていた。

 かつて芸能界で活動した頃の教訓から「決して敵は作らない。派閥争いにも加担しない」を信条とする彼女は、今回の件からも距離を置き、なるべく関わらないよう立ち回っていた。

 加えて例のトーナメント第1戦が行われた一週間前の夜、岬は好奇心から亜里砂の控え室にこっそり遊びに行き、彼女と個人的に会話を交わしている。

 デビュー戦以来の連戦連勝からさぞ天狗になっているだろうと思いきや、実際に対面した鷹見亜里砂はごく普通の、いや今時珍しいくらい素直で純真な女子中学生だった。

 そんな彼女の素顔を知ってしまうと、どうしても妹のような親近感が芽生えてしまう。


(亜里砂ちゃん……大丈夫かなぁ?)


 試合の勝ち負けなど正直どうでもいい。

 ただあの少女には試合後も無事にリングを降りて欲しい――口には出せないものの、岬はそう願わずにいられなかった。



「なぜです? 私が伊藤さんに勝ったら、団体の面子に関わるからですか?」


 亜里砂は凉子に問いただした。


「そうじゃない。それが問題なら、まず社長が口を挟むはずだろう?」

「なら、何で……」

「先輩レスラーから聞いた話だが……今回の試合が真剣勝負セメントになったのは、伊藤本人からの申し出らしい」

「伊藤さんが?」

「彼女は試合にかこつけておまえを『潰す』つもりだ。だから自らマッチメイカーの権限を利用して、邪魔な筋書き(シナリオ)を排除したんだ」


 亜里砂はますます混乱した。

「ヴァルハラ」のリングに上がってもう数ヶ月になるが、その間メデューサ伊藤、すなわち伊藤真紀いとうまきと直に会ったことは一度もない。

 なぜ自分が面識もない彼女からそこまで憎まれなければならないのか?


「彼女は私やおまえのように他の格闘技から転向してきた選手を嫌っている。プロレスラーとしてのプライドが人一倍強いんだろうが……伊藤の場合はそれが常軌を逸してるんだ。小栗さんが普段の試合で柔道技を使わないのも、伊藤に遠慮してのことだ」

「あの、笹崎さんは……伊藤さんに何かされたんですか?」


 凉子は唇を噛んで目を逸らした。

 どうやらとても口には出せないことがあったらしい。


「……せめておまえが練習生としてプロレスの水に馴染んでからデビューしていれば、ここまで敵視されることもなかったかもしれないが……悪いことに、おまえはプロレスを知らないままリングに上がり、そしてメインイベンターの小栗さんにまで勝ってしまった。これは伊藤にとって断じて許せないことなんだ」

「で、でも私、プロレスのことバカになんかしてません! 子供の頃からエミさんとマキさん、『バーニング・ギャルズ』に憧れて……」

「残念だが今の伊藤はおまえの知ってる伊藤マキとは別人だ。そして他の格闘技からやって来てプロレスのリングを荒らすおまえのことを『外敵』としか見ていない」

「そんな……」

「理不尽だろうが、今日のところは伊藤に勝ちを譲れ。そうすれば、彼女も満足して今後おまえを目の仇にすることもなくなるだろう」

「……」


 亜里砂は拳を握りしめ、肩を震わせ俯いていたが。


「ご忠告ありがとうございます。でも、私は……今夜も全力で戦います。でなければ笹崎さんや小栗さん、今まで対戦してくれた選手の皆さんに対して失礼になりますから」

「……そうか」


 おそらく亜里砂の返答を予期していたのだろう。

 凉子はため息一つ洩らすと、ドアの方へ踵を返した。


「もし試合中に命の危険を感じたら、なりふり構わずリングから逃げろ……ここで潰れて欲しくない。私だって、またおまえとリングの上で戦いたいんだ」



「しかし今回ばかりは、真剣勝負セメントでやらせるのは不味かったのではないですか?」


 メインイベントを間近に控え、「パラスト」店内の客席から試合を見守りながら、長谷川は同席する社長の岡本に尋ねた。


悪役ヒールとはいえ伊藤は加納と並ぶうちの看板選手です。もし負けるようなことがあれば……」

「心配すんな。あいつは他の連中とは違う、必ず勝つさ」


 ウィスキーグラスを傾けながら、岡本は自信ありげに断言した。


「それならそれで、鷹見の売り出しにだってこれまで少なからぬ手間と金がかかってるんです。負けるにしても、次の演出アングルに繋げられるような形で負けさせないと全部水の泡ですよ?」

「ま、伊藤もベテランだ。そこはうまくやるだろ」

「しかしリング上ではどんなアクシデントが起きるか分かりませんし……」


 元プロボクサーである大男は一抹の不安を拭えない。

 素人目には、プロレスとボクシングのリングはロープの本数など細かい部分を除けばほぼ同じものに見える。だがその中で行われる「試合」の意味合いは、両者の間で全く異なるものだ。

 原則として真剣勝負で行われるプロボクシングの世界において、階級ごとの頂点に立つ世界チャンピオンが遙か格下の挑戦者にタイトルマッチで惨敗し、一夜にしてそれまでの名声と栄光を全て失うことなど決して珍しいことではない。

 もちろんプロレスにおいてもそうした「番狂わせ」はしばしば起きるが、それはあくまでショウビジネスとして長期的に仕組まれた「演出アングル」の一環としてマッチメイキングされた、いわば物語におけるサプライズのようなものだ。

 プロレスに興味のない一般人、あるいは他の格闘技ファンなどから「八百長」「やらせ」と揶揄される所以ゆえんでもある。

 かくいう長谷川自身、「格闘技」というジャンルにショウ的要素よりシリアスな真剣勝負を求める日本人の国民性の中にあって、なぜプロレスだけがこういう特殊な形で発展したのかよく分からなかったが。


「いくら伊藤本人からの申し出といっても、何でこんな大一番で真剣勝負セメントの許可なんか出したんですか?」

「これもいい機会だと思ってな」


 岡本がグラスを置いてシガレットケースから取り出した煙草をくわえると、長谷川は恭しくジッポーライターを差し出し火を点けた。


「これまでは『恒河流』の実力査定も兼ねて真剣勝負セメントを許してきたが、あのお嬢ちゃんにもいずれはプロレスラーとして演出アングル筋書き(シナリオ)に従ってファイトしてもらうことになる。ただし子供とはいえ鷹見も武道家だ。口で説明するより、一度身体で理解してもらった方が早いだろ?」


 ふぅ……と煙草の煙を吐き、


「たとえ『恒河流』が一撃必殺の最強拳法であっても……プロレスのリングで一番強えのはプロレスラーだってことをな」



 入場時のBGMも、高価なブランド物のファッションで着飾った男女の客たちが寄せる好奇の視線も、亜里砂の耳や目には入っていなかった。

 いつものようにスポットライトに照らし出された花道を通り、低い階段を昇って仮設リングに上がると、そこにメデューサ伊藤が待ち受けていた。


(こんな所で、あのマキさんと直に会うことになるなんて……)


 かつてのアイドルレスラー、「バーニング・ギャルズ」の伊藤マキ。

 ソバージュの髪を背中まで伸ばし、黒革ボンデージ風のリングコスに身を固めた今の姿はベビーフェイス時代の伊藤とはまるで別人だが、数mの間近で見るとやはり「彼女」だ。

 そして分かっていたことだが、やはり大きい。

 ウェイトこそダイモン小栗ほどではないが、女子レスラーとしてはかなり長身の180cm超。

 亜里砂からすれば30cm以上の身長差があるわけで、まるで電柱を見上げるような威圧感を覚えてしまう。

 身長180cm台、しかも贅肉はいうまでもなく余計な筋肉も付けすぎず、ほどよくシェイプアップされた体型は、格闘家として最も警戒すべき相手だ。いっそ190cmを超える長谷川のような大男なら、恒河流の技を仕掛けるスキや死角が増える分、却って与しやすいくらいだが。


(この前見た藤原さんとの試合から判断してパワーとスピードは超一流。おまけにラフファイトからストロングスタイルまでこなせる万能タイプ……特にあの背丈から投げられたらシャレにならないなぁ)


 リングアナウンサーによる両選手の紹介。

 レフェリーのボディチェック。


 次いでレフェリーから試合のルール説明(といってもあくまで形式的なものだが)を受けるべく、亜里砂と伊藤はリング中央1m足らずの距離まで歩み寄り、初めて互いの息がかかる程の間近で対峙した。


 ヒールであるのにもかかわらず、伊藤は小栗のように派手な挑発も、先制の反則攻撃も仕掛けてこなかった。

 腰に手を当てた格好で悠然と佇み、ややきつめのメイクを施した切れ長の目が文字通りの「上から目線」で、つまらなそうに亜里砂を見下ろしている。


「『バーニング・ギャルズの』試合、子供の頃いつも見てました。こんな風に同じリングで試合できるなんて、夢にも――」


 伊藤は亜里砂の言葉など聞いていなかった。

 途中で遮るように口を開くと、


「……アンタかい? 借金のカタに売られてきた子供ってのは」

「――!?」

「しっかしひどい親もいたもんだねぇ。300万ぽっちのはした金で可愛い我が子を売りとばすなんてさ……それともアンタ、よっぽど親から疎まれてたのかい?」

「岡本さんと契約したのは私自身の意志です! 父さんは関係ありません!」

「あ~、いいからいいから。今夜でもうプロレスなんかできない身体にして家へ返してやるよ。バカ親父には『借金なら自分で返せ』って言ってやんな」


 吐き捨てるようにいうなり、クルリと踵を返して伊藤は自軍コーナーへ戻ってしまった。

 亜里砂もまた己のコーナーへ引き返す。


「亜里砂ちゃん、ど、どないしたん?」


 セコンドの美鶴が驚く様子から察して、自分はよほど怒りに歪んだ怖ろしげな形相を浮かべていたのだろう。

 実際、亜里砂は怒っていたが、それでもコーナーのトップロープに両手をかけ、大きく深呼吸することで何とか平常心を保とうと努めた。


 レフェリーが合図し、ゴングの音が鳴り響く。


 コーナーから再びリング中央付近へ出ると半身の体勢で腰を落とし、両拳を構える亜里砂に対し、伊藤の方は特に構えを取ることもなく、まるで散歩でもするような気軽さでこちらの方へ歩み寄って来た。


(ごめんなさい伊藤さん。一撃で終わらせて頂きます!)


 伊藤の体格や動きから判断して「死角」となる左後方へフットワークで回り込む。

 このとき亜里砂の動きがあまりに素早く、かつ視界の盲点へ飛び込むため、対戦相手の目には自分の姿が「消えた」と映るらしい。

 両手をマットにつき、右足を高く蹴り上げる「滝登り」を伊藤の脇腹めがけ打ち込んだ。


 だが。


(――えっ?)


 蹴り上げた先に伊藤の姿はなかった。


「ふうん。面白い曲芸ねぇ」


 すぐ背後から伊藤の声を聞いた瞬間、亜里砂は全身が総毛立つのを感じた。


(背中を取られた!?)


 だが相手がいつ、どうやって自分の蹴りをかわしたのか、亜里砂にはそれすら分からない。

 振り向きざまに肘を打ち込むが、そこにも伊藤はいなかった。


「これが恒河流? まいったわね~。うちの連中、こんなのに真剣勝負セメントで負けてたのぉ?」


 今度は横から。


(そんな……)


 これが本物の真剣勝負なら、亜里砂は既に2回殺されている。

 しかし格好のポイントへ回り込みながら、伊藤はなぜか仕掛けてこなかった。


「あまり早く終わらせてもお客に失礼だしね。もうちょっと見せてよ、アンタの曲芸」


 のんびり伊藤の言葉を聞いている余裕などない。

 亜里砂は彼女に向き直るや、可能な限り間合いを詰め、ノーモーションからの膝蹴りを叩き込んだ。

 いわば寸勁の足技版、恒河流奥義「塚崩し」。

 膝、腿、下腹部――下半身に打てばいかなる大男でも崩れ落ちる必殺の一撃も、やはり虚しく空を切った。


「……見えてるんですか、私の動き」

「はぁ? 見る必要なんかないわよ。アンタ殺気がダダ洩れじゃない。目をつむってたって分かるって」


 街中で絡まれた不良や巨漢の長谷川と対峙した時でさえ覚えたことのない感情。

 この夜、亜里砂は初めて「恐怖」という言葉の意味を体感した。



(さば)きやがった……!」


 大半の客がリング上で何が起きているか理解できずきょとんとしている中、長谷川はテーブルから身を乗り出し小さく叫んでいた。


「そう。大半のレスラーは鷹見の動きが速すぎて見切れないし、もし見切れても避けられない。避けるのも受けるのも無理なら、そりゃおまえ、あとは捌くしかねぇだろうが?」


 煙草をくゆらせながら苦笑する岡本の言葉どおり、伊藤は亜里砂の技を「捌き」続けている。

 すなわち突きや蹴りを紙一重でかわし、半円を描くような形で対戦相手の亜里砂と身体の位置を入れ替えているのだ。


「しかしあの動き、プロレスじゃないですね。彼女は何か武道の心得があるんですか?」


 公式に「捌き」の体術を取り入れているのは、合気道や一部の空手流派など武道系の格闘技に多い。


「ついこの間亡くなったあいつの祖父さんな、合気道の師範だったそうだ。といっても田舎町のちっぽけな道場の主だが……地元じゃ地方巡業で町に来た力士を片手で投げ飛ばしたとか、山から下りてきた猪を素手で生け捕りにしたとか結構な武勇伝を残してるんだとよ。孫娘のあいつも相当仕込まれてんじゃねぇか?」

「初耳ですね。伊藤が試合で合気の技を使っている所なんて、今まで一度も見てませんよ」

「そりゃ本人が自制してたんだろ? 相手の技を受けてナンボのプロレスと合気道じゃ水と油だからな」

「しかし、この後どうするつもりでしょう? ガタイの大きな伊藤が捌き技で勝ったってお客が喜ぶとは思えませんし、このまま逃げ続けたってラチが明きませんよ?」

「いや、もうじき終わる」


 オメガの腕時計をちらっと見やり、岡本は煙草を灰皿に押しつけた。



 試合開始からはや5分ほど。

 リング上では亜里砂が放った突きや蹴りを伊藤が捌き続ける単調な展開が続いていた。


「あいつら何をやってるんだ?」

「メデューサらしくもない。鷹見の技から逃げ回ってるだけじゃないか」


 最初は緊張して試合の成り行きを見守っていた客席からも、ポツポツそんな会話が聞こえ始める。

 そもそも「パラスト」の客は一部の常連を除き、格闘技や武道に造詣が深いわけではない。

 彼らが「ヴァルハラ」の試合に期待しているのは難解な技の攻防などではなく、鍛え上げられた美女同士が肉弾相打つ派手なファイトなのだ。


「あーらら、お客が退屈してきちゃった……ほら分かったろ? プロレスのリングで真剣勝負セメントなんざやったって、お客は喜びゃしねーんだよ」

「昔、師匠に少しだけ教わりました……」


 何度目からの攻撃を伊藤に捌かながら、亜里砂は彼女をきっと睨んだ。


「その動き、合気道ですね?」

「だったら何だい」

「伊藤さんだって、ご自分の武道を身につけてるじゃないですか……なら何でプロレス以外の格闘技を否定するんですか!?」


 伊藤の眉がぴくっと引きつるが、すぐ薄笑いを浮かべ。


「えらく威勢のいいコトいってるけど、何だか声が上擦ってるわよぉ。大丈夫?」


 亜里砂ははっとした。

 いつの間にか全身が汗だくとなり、呼吸も荒くなっている。

 そして何より動きが鈍っているのが自分でも分かった。


(まずい。実戦でこんなに長く戦ったの、初めてだから……)


 一刻も早く決着をつけるべく、「徹甲」の簡易版である至近距離からの直突き「発破」を放つ。

 だが次の瞬間、亜里砂の拳を捌いた伊藤は少女の細い腰に組み付き、フロントスープレックスで背後に投げ捨てた。

 受け身を取ってすかさず立ち上がろうとした亜里砂の動きを予測していたかのように間合いを詰めると、彼女の肩を押さえつけ、胃の辺りをめがけ膝蹴りをぶち込む。


「あぐ……っ!?」


 堪らずマットに膝を突き、亜里砂はマットの上に胃液を吐いた。

 背後から首に腕が回され、強引にひき起こされる。


「じゃ、本番始めましょうか」


 楽しげにいうと、メデューサ伊藤は真紅のルージュを引いた唇を舌なめずりするように舐めた。

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