第12話
「よう小栗。調子はどうさ?」
「あ、伊藤さん……おはざっす!」
選手控え室で鏡台に向かい、入念にフェイスペイントを施していたダイモン小栗は、同じヒール陣営のトップでマッチメイカーの1人でもあるメデューサ伊藤、すなわち伊藤真紀に声をかけられ、メイクもそこそこに頭を下げた。
「絶好調っスよ! 何しろ今夜は大一番ですからね」
「そう、トリのメインイベント、しかもまだ公式には発表されてないけど例のベルト争奪トーナメントの第1戦だ。気合い入れていきなよ」
「オス! エース相手に大暴れして、こないだの試合の汚名を返上してやりますっ」
「筋書きの方は出来てんのか?」
「はい。しょっぱなからの凶器攻撃で場外乱闘。その後も20分くらいは自分のラフファイトで追い込んで……もちろん最後はきっちり加納さんに花を持たせますよ。お任せ下さい」
ベルト争奪トーナメント第1戦、加納エミvsダイモン小栗。
といっても結果がエミの勝利に終わることは、既にマッチメイカーの方針で決まっている。
今夜の試合における小栗の役割は、悪役として団体エースのエミを徹底的に苦しめ、最後は逆転負けを喫することでエミの強さ、そしてトーナメント戦という「イベント」を観客に印象づけることにあった。
「まあそれでも構わないんだけど……どうも展開がありきたりだねぇ」
「そうでしょうか? ならいっそド派手に火炎放射とか」
ここでいう「火炎放射」とは、100円ライターを改造した即席のミニ火炎放射器で相手選手に炎を吹き付ける反則攻撃を指す。当然これも試合を盛り上げるパフォーマンスのひとつであり、本当に相手を焼くわけではない。
「……ちょっと耳貸しな」
「?」
何か思いついたことでもあるのか、伊藤が小栗に顔を寄せ、何事かヒソヒソ囁く。
それを聞いて、途中までペイントされた小栗の顔が驚きに目を丸くした。
「ええっ!? いくら何でも、それは不味いんじゃ……第一、社長や加納さんには?」
「社長へは後であたしから話を通しとく。加納の方は心配いらないよ。これくらいのアドリブ、上手くさばけなくて何のエースだい?」
「はあ……」
不承不承頷く小栗から顔を離し、伊藤はニヤリと笑った。
◇
その夜、亜里砂は中学の制服姿のまま迎えのタクシーに乗り、「ヴァルハラ」が週に2回プロレス興行を行う会員制ナイトクラブ「パラスト」のあるビルへと向かった。
デビュー当初送迎にあたっていた長谷川も本来の仕事で忙しいのか、この頃は社長の岡本が手配したタクシーを使い自宅と試合会場を往復するのが慣例となっている。
もっとも今夜、亜里砂自身の試合予定はない。
それでも岡本から「団体にとって重要な発表があるから、控え室で待機しているように」との連絡があったためこうして出向いてきたのだ。
(何だろう? 重大発表って)
そんなことを考えつつ地下駐車場からビルに入り、今のところ「亜里砂専用」としてあてがわれている控え室の前まで来た。
カードキーを通してロックを解除、そのままドアを開けると――。
室内に先客がいた。
青いキャミワンピースをまとった二十歳前後の若い女性がパイプ椅子に座り、缶コーヒーを飲みながら壁際に置かれた備品の薄型TVを視ていたのだ。
「ご、ごめんなさい! 部屋を間違えましたっ」
亜里砂は大声で謝るなり、慌ててドアを閉めた。
(はぁ、ドジ踏んじゃった……ってあれ? このカードで開いたんだから、間違えじゃないよね)
改めて部屋の番号を確かめるが、やはり自分の控え室だ。
(それじゃ今の人、誰? おかしいなあ、この部屋のカードキー持ってるのは私と大橋さんだけのはずなのに)
さりとて再びドアを開けるのも憚られ、唖然として立ち尽くしていると、
「亜里砂ちゃん、おはざーっす!」
廊下の向こうから現れた付き人の大橋美鶴に元気よく挨拶された。
「ヴァルハラ」のロゴ入りジャージを着込んだ美鶴は、片手に大きく膨らんだコンビニのレジ袋を提げている。
「どないしてん? 部屋の前で突っ立って」
「美鶴さん、ちょうどよかった! 控え室に知らない女の人がいるんですけど……」
「え? アハハ、何いうてんねん。亜里砂ちゃんも知ってる人やん」
(私も知ってる人……?)
「まあええわ。今夜は試合もないし、ゆっくりしてってや」
戸惑う亜里砂を尻目に、美鶴は自分のカードキーで躊躇なくドアを開けた。
「岬さん、お待たせーっ。ビルの売店がもう閉まってたさかい、近所のコンビニで飲み物とお菓子買うてきました」
「あら、ご苦労様」
その名字を聞いて、亜里砂もようやく思い出した。
岡本たちに連れられ初めてこのビルに来た日。
自分のデビュー戦直前、美鶴の案内でこっそり見学させてもらった「ヴァルハラ」のリング上で、あのダイモン小栗と対戦していた女子レスラーだ。
身長160cmくらい、プロレスラーとは思えぬくらい細身でしなやかそうな肢体。
瞳がぱっちり大きく整った顔立ち。
リングの上ではツインテールに結っていた長い髪を、今日は普通に下ろしている。
髪型が変わっていたため「彼女」だと気付かなかったのだろう。
「直にお会いするのは初めてね? 鷹見亜里砂さん」
「はい! フェ、フェ……フェラーリ岬さん!」
「フェアリー岬よ。フェラーリは車でしょ?」
「あ、すみません……」
岬は芝居がかった仕草で、長い髪をさらりと掻き上げた。
「私はマット上を華麗に舞うリングの幼精、フェアリー岬……忘れないでね?」
「は、はい」
(いったい何なんだろう、この人?)
「それで、あの……何の御用でしょうか?」
「別に用ってほどでもないけど……」
「実はなー、うち、亜里砂ちゃんの前は岬さんの付き人やってたんや」
助け船を出すように美鶴がいった。
「そうそう。大橋さんからあなたの控え室がこの部屋だって聞いて、まあご挨拶代わりに遊びに寄ったってところ」
そういいながら岬は室内を見回し、
「それにしても個室の控え室なんて羨ましいわ~。あの大部屋って人が多いしうるさいしで、今日みたいに試合のない日は長居し辛いのよねぇ」
要するに岬も今夜はオフのところを社長に呼び出された口らしい。
どうせ暇なら快適な個室で時間を潰そうと、美鶴から聞いた亜里砂の控え室を訪れたのだろう。
「あの……この前、私が大部屋の控え室に行った時……岬さんもいましたよね?」
恐る恐る、亜里砂は尋ねた。
「私のこと、怒ってるんじゃないですか?」
「ああ、あれ? 気にしなくていいわよ」
岬は缶コーヒーを飲み干し、きゃらきゃらと笑った。
「あの時はただ周りに調子を合わせてただけだから。どうせ最後は加納さんが止めると分かってたしね」
「よかった……私、てっきり『ヴァルハラ』の選手の人たちみんなに嫌われてるかと心配してました」
「うーん……あなたのああいうピュアなとこ、嫌いじゃないけど……もう少し空気を読む努力をするべきね。プロレスも芸能界も、最後にモノをいうのは人間関係よ?」
「芸能界?」
「あ。岬さんはなー、元アイドル歌手なんやでー」
「『元』じゃないでしょっ。今でも事務所には所属してるし、試合のない日は仕事も受けてるわよ」
むっとしたように岬が美鶴を睨む。
そこは触れてはいけない部分だったらしく、美鶴は首を竦めてしきりに「すんまへん、すんまへん」と謝った。
「アイドルって――それじゃTVとかにも出てるんですか?」
「……TVはしばらくご無沙汰だけど、グラビアの仕事ならやってるわよ」
テーブルに置いた自分のバッグから、岬は一冊の男性向け雑誌を取り出し、得意げに巻頭グラビアページを広げた。
見れば、確かにビキニ姿の岬が浜辺に横たわって笑顔を見せるグラビア写真が掲載されている。
「わぁホントだ、すごーい!」
「こちらの方は本名の『岬百合香』でやってるわ」
「でもアイドルの人が、なんで女子プロレスに?」
亜里砂の質問に、岬ははぁ……と物憂げにため息を洩らした。
「オーディションに受かってデビューしたまではいいけど、新人のうちは仕事も少ないし、ギャラも安い。で、ちょっと生活がピンチになって……」
「借りちゃったんですね? 岡本さんの会社から……」
「そこから先はもう説明しなくたって分かるでしょ? あの社長から『金がないなら身体で返してもらうぜ』って凄まれたときはどうなるかと思ったけど……まさかプロレスラーになるなんて夢にも思わなかったわぁ」
「で、でもそれじゃ大変だったんじゃないですか? それとも空手か柔道でもなさってたんですか?」
「格闘技の類いは全然やってなかったけど……学生時代は新体操部で鍛えてたし、それにアイドルとして習ってたダンスレッスンだって、世間の人が思ってるよりずっとハードなのよ?」
「そういえば……初めてリングで見たとき、岬さんの空中殺法が随分独特だと思いましたけど、あれってダンスの応用だったんですね」
「そんなとこ。『芸は身を助ける』とはよくいったものね」
ふいに、岬が亜里砂の顔をまじまじ見つめてきた。
「……な、何でしょう?」
「ふむ……あなた、なかなか見所あるわね。ヘアスタイルはいまいちやぼったいし、化粧もろくにしてないけどすっぴんの顔は悪くない。磨けばいくらでも光るタイプよ」
両手で亜里砂の肩をガシっとつかみ、
「どう、私と同じ事務所に登録しない? 2人のアイドルデュオとして売り込んで……今度こそブレイクして、借金なんか耳を揃えて返済しちゃおうよ!」
(えええええ!?)
「あの……お気持ちは嬉しいですけど、私まだ中学生ですし。折角ですがご遠慮しときます」
アイドルレスラー「バーニング・ギャルズ」に夢中になっていたのは遙か昔のこと。
ここ6年ほど、学校や家事、家の工場の手伝いなどを除いたプライベートな時間は殆ど恒河流の稽古に明け暮れていた亜里砂にとって、芸能界などプロレス以上に縁遠い世界だ。
よしんばデビュー出来たとしても、ただでさえ中学生とプロレスラーの掛け持ちで一杯一杯のところへアイドルの仕事まで入ったら、それこそ過労死してしまうと思った。
「そう……残念だわぁ」
「亜里砂ちゃん、気にせんといてや~。新人さんにちょっと可愛い子がいると、こうやってスカウトかけるのが岬さんの趣味みたいなモノやから」
美鶴が笑いながら3つの紙コップにアイスティーを注ぎ、レジ袋から出したスナック菓子やチョコレートを適当に並べる。
「それじゃ、遅ればせながら亜里砂ちゃんの歓迎会も兼ねて。本当ならみんなでパーッと繰り出したかったけど、あなたの場合デビューの仕方が特殊だったしね」
パイプ椅子に座りテーブルを囲んだ3人は、紙コップを手に取り改めて乾杯の仕草をとった。
「岬さんもメインイベンターなんですか?」
「まだそこまでいかないわよ。試合ごとにファイトマネーを支給される、まあ中堅クラスってところかな? 普段の試合もジャブが多いしね」
「ジャブ?」
「負け役のこと。つまりはメインイベンターの引き立て役よ」
いわれてみれば、亜里砂が観戦したダイモン小栗との対戦でも、岬は最後にパワーボムを食らいフォール負けしていた。
「でも……それって悔しくないですか?」
「別に気にしてないわ~。そもそもプロレスの試合ってルール上の勝ち負けはそれほど重要じゃないの。大切なのは試合の中身。相手の技を受けつつも、どれだけ自分のファイトスタイルをアピールできるかよ。そのあたりはアイドルのステージに通じるものがあるわね」
「そんなものでしょうか?」
「聞けば、『パラスト』の常連客の中には大手芸能プロダクション関係者もいるって話じゃない? リング上で私の美貌と華麗な空中殺法をアピールしておけば、いずれは目に止まって……レスラーからの逆デビューだって夢じゃないでしょ? ウフフ……」
(そういう発想も……アリなのかな?)
同じプロレスラーといえども、格闘家として真剣勝負にこだわりたい亜里砂と岬では、リングに上がる目的もプロレス観もまるで異なる。
しかし岬は岬なりに、負け役に甘んじてでもプロレスのリングに自分の夢を追い求めている気持ちは、亜里砂にも痛いほど理解できた。
いや、むしろ羨ましいくらいだ。
既にデビュー戦から2ヶ月以上が経ち、亜里砂にもプロレス界の表と裏が何となく分かり始めている。今の所は「特別扱い」で真剣勝負を許されているものの、いずれは他の選手同様「筋書き付き」のファイトを行うことになるだろう。
(そうなった時……私、プロレスに何を求めればいいんだろう?)
「ところで亜里砂ちゃん。今夜は何やら重大発表があるって聞いたけど……社長から何か聞いてる?」
岬の質問で我に返った。
「いえ。私も『今夜は控え室で待機してろ』とだけ……」
「ふうん……ならしょうがないわね。店内の試合でも見ながら重大発表とやらを待ちましょうか」
「何やろな~? ちょっと緊張するわ~」
亜里砂と岬、美鶴は壁際のTV画面に目を向ける。
現在、リングサイドに設置されたデジタルビデオカメラの映像が屋内LANを通して配信されているため、控え室にいながらにしてリングの様子が手に取るように観戦できるのだ。
モニター画面に映るリング上では一通り前座の試合が終わり、セミファイナルを前にして若手選手や練習生たちがせわしなくリングサイドを往来していた。
「セミファイナルはメデューサ伊藤と藤原満里奈……どちらもメインイベンター、しかも『ヴァルハラ』旗揚げ以来のベテラン同士ね」
(メデューサ伊藤……もしかして伊藤マキさん!?)
岬の何気ない言葉に、亜里砂はハッとして画面を凝視した。