第10話
逃げ場のないリングの角で不意打ちを受けた亜里砂は、そのままコーナー側に尻餅をついてしまった。
小栗は左手で亜里砂の肩をわしづかみに押さえ、右手のフォークを容赦なく少女の額に突き立てる。
客席からもざわめきが上がった。
いくらダイモン小栗が悪役レスラーといっても、まさか中学生相手に凶器攻撃までやるとは思っていなかったのだろう。
いったん突き刺したフォークで、小栗はさらに傷口を広げるかのようにグリグリと抉る。
その間、亜里砂はあえて反撃せずじっと耐えていた。
そもそも正面を向いていた亜里砂の視点からは小栗の動きも丸見えだったため、かわそうと思えば造作もなかったが、それもしなかった。
なぜならここまでの展開は岡本との「打ち合わせ」通りだったのだから。
◇
「流血戦……ですか?」
控え室で岡本から話を切り出されたときは、さすがに亜里砂も驚いた。
「いや流血っていっても額のあたりをちょっと切るだけだ。見た目は派手に出血する割にそれほど痛くねぇし、ダメージも殆どないからその後の試合に影響はない。プロレス業界じゃ『ジュース』って呼んでるがな、要するに試合を盛り上げるための、一種のパフォーマンスさ」
そういわれても、やはり気分の良い話ではない。
「あのぉ……それって、絵の具とか赤インクで代わりにできませんか?」
「ドラマの撮影じゃあるまいし、あんな間近から客が見てる所で妙な小細工したらすぐバレちまうだろうが。本人の血を流すのが一番リアルで迫力も出るんだよ」
「でもどうやって切るんです? やっぱり小栗さんが凶器を使うんですか」
「そいつはこちらに任せておけ。とりあえずリングに上がってからゴングの鳴るまでの間だけ、小栗に調子を合わせてやってくれ。あとは何も心配しなくていいから」
◇
(あれ? 痛くない)
完全にコーナーに追い詰められ、座り込んだ状態で凶器攻撃を受け続ける亜里砂は不思議に思った。
男子レスラー並みに腕の太い小栗の拳で額を叩かれたりグラグラ揺さぶられるのは、今にも目眩がしそうなほどの衝撃である。しかし鋭い金属製フォークの先端で額を刺される「はず」の痛みをさっぱり感じないのだ。
どうやら小栗は殴りかかる寸前にフォークの先を掌に握り込み、手品師のごとく器用に「凶器攻撃」の芝居を演じているらしい。
「小栗選手、離れなさい! 凶器を捨てて!」
いったんはマットに突き倒されたレフェリーが起き上がり、大声で警告を発した。
小栗が構わず亜里砂への攻撃を続けていると、次に大きく指を振ってカウントを取り始める。
一般的なプロレスルールに従い、5カウント以内に凶器を手放さないと小栗の反則負けとなる。
逆にいえば「5カウント以内なら大抵の反則は許される」ということで、試合の形式を取りながらこうもルールがアバウトなのがプロレスならではの慣習といえるが。
「どーだ、まいったか!」
カウント「4」が数えられた時点でようやく小栗は亜里砂から離れ、凶器のフォークをリングサイドで待機していたセコンドの若手選手に投げ渡した。
入れ替わるように歩み寄ったレフェリーが、コーナーに倒れ込んだ亜里砂の前髪を上げてケガの具合をチェックする。
その間、小栗はジャケットを脱ぎ捨てリング中央に立ち、両手を大きく広げながら客席に向けてベロを出す、お得意のポーズでアピールを始めた。
(……?)
レフェリーのチェックを受けている最中、亜里砂はおでこの辺りを何か冷たい物で擦られるような感触を覚えた。
直後、生暖かい液体が額から頬にかけて流れ落ちる。
本当の「凶器」を使ったのはレフェリーだった。
事務用カッターの刃を短く折ったものを指の間に挟み、亜里砂のケガをチェックするフリをして額の皮を浅く切ったのだ。
まさにマジックである。
小栗がリング中央で派手にパフォーマンスを行っているのも、観客の注意をレフェリーから自分へ逸らす目的なのだろう。
間もなくレフェリーが離れ、コーナーの亜里砂がよろよろ立ち上がったとき、少女の顔面が鮮血に塗れている光景を目の当たりにした観客は再びざわめいた。
◇
「よーし。初めてにしちゃ上出来じゃねえか」
観客席のテーブルに着き、ウィスキーのグラスを傾けながら岡本は上機嫌に笑った。
「しかし大丈夫ですか? いくら演出でも、中学生の女の子に流血戦なんかやらせて」
同席する部下の長谷川が、さりげなく周囲を警戒しながら小声で尋ねる。
「……確かこの店の会員の中には、教育委員会の偉いさんもいると聞きましたが」
「なあに、心配ねぇよ。この店の客はな、プロレスファンでも格闘技マニアでもねえ。月並みなディナーショーには飽き飽きして、刺激と興奮を求めてこの店に通う金持ち連中だ」
サングラスで目元を隠した顔に微かな嘲笑を浮かべ、岡本はつまみのキャビアを口へと運んだ。
「そういえばうちの試合のない日も、法律ギリギリの結構際どいショーをやってるようですね」
「そういうこった。古代ローマの円形闘技場じゃ剣闘士を死ぬまで戦わせてたっていうが、連中はそれを観戦する貴族と同じ目線で楽しんでやがる。流血どころか死人が出たって誰もとやかくいわねぇさ」
◇
(へえ、こういう風になってたんだ)
全てのプロレス団体がそうであるかは知らないが、少なくとも「ヴァルハラ」における流血戦のからくりを知り、亜里砂は思わず感心してしまった。
だがそれも一瞬のこと。
己の顔を撫で、掌一面に付いた血を見て、驚愕と共に貧血を起こしそうになる。
(え? えええ~!? こ、こんなに出ちゃうものなの!?)
打ち身や捻挫など打撲系のケガなら、自宅で行っている恒河流の稽古でも日常茶飯事だ。
だがこれほど大量に自分の出血を見るのは、それこそ生理の日ぐらいのこと。
(と、とにかく、ここから先は普通に試合していいんだよね)
ゴングの音に気を取り直し、リング中央へ飛び出そうとしたその瞬間、予想もしないアクシデントが起こった。
流れ落ちる血が左眼に入ってしまったのだ。
「! しまっ――」
視界の左半分を失いリング上でよろめいた亜里砂に向かい、猪のごとく再び小栗が突進してきた。
その動きは、最初の凶器攻撃の際に比べて別人かと見紛うほど速い。
右手を取られたと気付いたとき、既に亜里砂の身体は宙を舞い、視界の中で激しく天地が反転する。
背中からマットに叩き付けられ、全身の骨が砕けるかと思えるほどの衝撃。
それはプロレス技のボディスラムでも、小栗の「得意技」とされるパワーボムでもなかった。
「……一本背負い? 柔道?」
「ダイモンのやつ、あんなに素早く動けたのか?」
そんな声が客席の方から聞こえてくる。
「うっ……」
亜里砂はショックの余り数秒間呼吸さえできなかった。
「柔道技は悪役のキャラにそぐわないんで、普段は控えてんだけどなぁ。今日は社長お墨付きの真剣勝負だ。わりいが全力でいかせてもらうぜっ」
10カウントを数え始めるレフェリーの声と重なる小栗の言葉に、亜里砂も柔道の恐ろしさを改めて思い知らされていた。
並みの女子レスラーならその時点で失神しKO負けを喫していただろう。
夜ごと自宅の鴨居を使った「指懸垂」千回をこなし、腕だけでなく全身の筋肉を鍛え抜いてきた亜里砂だからこそ、受け身を取る隙さえ与えぬ小栗の高速投げに耐えられたのだ。
手足に骨折がないことを確かめ、カウント「8」で辛うじて立ち上がる。
「ほぉ~、まだ立てるのかい。なかなか根性あるじゃねーか」
足をL字に開き、右手を前に突き出す柔道式の構えを取った小栗がニヤリと笑う。
「まだまだこれからぁッ!!」
ファイトが再開するや再び間合いを詰め、まだダメージにふらつく亜里砂の身体を抱え上げると、今度は豪快な肩車でマットに投げ落とす。
マットの弾力で宙にバウンドした少女はそのまま仰向けに倒れ、苦痛に顔を歪めた。
そこに小栗の巨体が覆い被さってくる。
今度はKOカウントを待たず、フォールを取りに来たのだ。
「――!」
亜里砂の右手だけが素早く突き上げられた。
中国拳法でいう「寸勁」に似た、至近距離からの直突き。
「徹甲」ほどの威力はなかったが、胸の辺りに打撃を受けた小栗は慌てて後ずさった。
「おっと危ねぇ。もう少し弱らせねーとなぁ」
立ち上がりかけた亜里砂に接近すると、足を使った大外刈りで再びマットに投げ倒す。
そのまま自らも腰を沈めて背後に周り込むや、亜里砂の細い胴を両足で挟みこみ、太い腕で首を締め付けスリーパーホールド――柔道でいえば裸締め――をがっちりと決めた。
「ちょいと早いがこの辺で終わりにしようや。まあ流血に付き合ってくれたお礼だ、優しくお寝んねさせてやるぜ」
小栗の言葉どおり、誰が見てもこれは逃れ様のないフィニッシュホールド。
彼女の巨体に囚われた亜里砂は身動き1つできず、このまま絞め落とされるのは時間の問題と思われた。
マット上に力なく垂れ下がった亜里砂の左手を、レフェリーが僅かに持ち上げ手を離す。
左手はパタっとマットに落ちた。
同じ動作を3回繰り返し、反応がなければその時点で「意識不明」と判断されレフェリーストップにより小栗のTKO勝ちとなる。
さしもの天才格闘少女もダイモン小栗には及ばなかったか――観客はため息を漏らしつつも、試合の成り行きを見守っている。
そしてレフェリーが3度亜里砂の左手を持ち上げたとき。
少女の手はそこでピタリと止まり、あろうことかVサインを形作った。
「な……!?」
誰より驚いたのは小栗だ。
自分の両腕は完全に亜里砂の首を絞めている。
さすがに首の骨まで折るつもりはないが、少なくとも頸動脈は完全に絞めているはずなのに。
「な、何でテメー落ちねえんだ!?」
「……さすがは柔道の達人……小栗さんは強い、ですね……」
掠れた声で亜里砂が囁く。
ふいに小栗は己の右手に激痛を感じた。
そのときになってようやく気付く。
亜里砂の右手、額の血でぬめらせた人差し指が、首を締め付ける右腕の下に食い込んでいることを。
「嘘だろ……まさか指1本であたしの裸絞めを!?」
「でも……私だって……負けるわけにいかないんです!」
人差し指の先端が曲げられ、右腕の内側、ちょうど痛覚のツボの辺りに深々と食い込む。
小栗は悲鳴を上げて亜里砂の首から両手を放した。
同時に少女は大きく身体を仰け反らせ、己を捕らえる相手の両足からも脱出した。
マット上で転がりながら離れる両選手。
「ちぃっ!」
忌々しげに舌打ちしつつも、小栗は低い体勢からのタックルを仕掛けた。
若手選手たちが恐れていた通り、鷹見亜里砂の身体能力は中学生どころか常人を遙かに超えている。
だが恒河流とて所詮は打撃系の立ち技格闘術。
グラウンドの攻防に持ち込んでしまえば、柔道技と体格で勝る自分が有利に試合を進められるはずだ。
そう考える小栗の目前で、亜里砂が奇妙な挙動を取った。
片膝立ちの姿勢でこちらを向き、右拳を腰に引きつけ大きく息を吸い込んでいる。
鈍い打撃音が響き、体当たりをかけようとした小栗の顎の辺りに、下から突き上げるように繰り出された亜里砂の右拳がヒットした。
そこで小栗の意識は飛び、白目を剥いて90kgの巨体がゴロリとマットに横倒しとなる。
次に小栗が我に返ったとき、既にレフェリーからTKOの判定が下され、場内には試合終了のゴングが鳴り響いていた。
「……え? あれ?」
どうやら「徹甲」の一撃を顎に受けたらしいが、その割に不思議とダメージがない。
勝利者としてレフェリーに手を上げられた亜里砂が、呆気に取られた顔つきでリングに座り込む小栗の方へと歩み寄った。
「急所の『三日月』を打ちました。でもケガはないはずです。手加減しましたから」
そういってペコリと一礼すると、少女は踵を返して美鶴の待つ自軍コーナーの方へと戻っていった。
◇
控え室に戻った頃には、既に額の出血は止まっていた。
防具を外してレオタードを脱ぎ、シャワーで顔の血と汗を洗い落としたあと、念のため美鶴に傷口を消毒してもらう。
「レフェリーの佐藤さんは流血の名人やからな~。皮一枚切っただけやから、多分傷痕も残らんで」
そういって笑いながら、美鶴はペタンと絆創膏を貼り付けた。
制服に着替えた亜里砂は、前髪を上げてドレッサーの鏡を覗き込んだ。
鏡に映るあどけない少女の顔は、おでこに貼られた絆創膏を別にすれば、とてもついさっきまで凄絶な「流血戦」を戦ったプロレスラーとは思えない。
「プロレスって……色々大変なんだ」
◇
「ふぅ~、今日のファイトはしんどかった……」
試合終了後、やはりシャワーを浴びようと自分の控え室に向かっていた小栗は、廊下の先に見覚えのある人影を見かけて立ち止まった。
そこに立っていたのは、洋式の喪服をまとった二十代後半の女。
身長180cm超と女性としてはかなりの長身であるが、アンコ型の小栗とは対照的に、均整のとれた魅惑的なモデル体型である。
ソバージュの長い髪を背中まで伸ばし、整った顔立ちだが、同時にどこか近寄り難い危険な雰囲気を纏わせた美女であった。
「……伊藤さん!? おはざっす!!」
相手が何者か気付いた途端、小栗は雷に打たれたごとく直立不動となり、深々と腰を折って挨拶した。
しかし訝しげに顔を上げると、
「あれ? でも今はアメリカへ出張中じゃ」
「実家で不幸があってね。予定を繰り上げて帰国したんだよ」
喪服の女子レスラー、メデューサ伊藤。すなわち伊藤真紀は気怠げな顔で答えた。
「昨夜は郷里でお通夜、今朝は告別式……で、着替える暇もなく新幹線で戻って来たのさ」
「そ、それはとんだことで……お疲れさまです」
「それはともかく。さっきの試合、客席から見せてもらったけどねぇ」
伊藤は片手で小栗の肩をわしづかみにするや、そのまま廊下の壁にドンと押しつけた。
「小栗ぃ~。テメェ、いつプロレスラーから柔道屋に逆戻りした? おまけに試合時間3分足らずって何だ? あたしが留守中だからって手ぇ抜きやがって!」
「あわわ……ち、違いますっ!」
フェイスペイントの上からはっきり分かるほど、小栗の顔から血の気が引き、その表情が恐怖に強ばった。
「実は今夜の試合、社長の指示でやった真剣勝負で……自分が手を抜いたんじゃなく、相手の鷹見亜里砂が強すぎたんですよ!」
「鷹見……そういや見かけない顔だったねぇ、あのちっこいの。他団体のレスラーかい?」
「いえ、社長が何処かから直々にスカウトしてきた選手で……あいつまだ15歳、中学生っスよ?」
「はぁ?」
「いや、自分も最初はロリコン客向けの悪趣味な演出かと思ってたんですが……これがどうして本当に強いんです。正直、ありゃバケモノっスよ!」
「ふうん……あのケチな社長がいきなり海外出張だなんて言い出すから、どういう風の吹き回しかと思ってたけど」
伊藤は小栗から放した手を顎に当て、不愉快そうに呟いた。
「いずれにせよ、あたしの頭越しにコソコソやられるのはいい気分じゃないねぇ……控え室で詳しい話を聞かせてもらおうか?」




