第1話
「鷹見はもう志望校決めたのか?」
背後からかけられた声に、鷹見亜里砂は立ち止まって振り返った。
そこにいるのは中学校のクラスメイト、東貴文。
といっても2人が一緒に下校するのは今日が初めて。
教室以外の場所でまともに会話するのも初めてだったが。
3年生ともなると部活を引退して受験勉強に専念する生徒が多い。
もっともこの2人は元々「帰宅部」であり、それも亜里砂の方はいつも授業が終わり次第荷物をまとめてさっさと帰ってしまうため、今日はたまたま貴文が後を追うようにして背後から話しかけたのだ。
「……まだ決めてない」
特に嫌そうな顔も嬉しそうな顔もせず、亜里砂はぽそっと答えた。
あどけなさを残す卵形の顔に、クセの強いショートカットの前髪がかかっている。
将来は美人になりそうな容貌だが、くっきり濃いめの眉毛のためか、全体的にボーイッシュで気の強そうな少女である。
「呑気だなあ。もう来年受験だぜ?」
「私、進学とかあまり興味ないから……とりあえず公立受けて、ダメだったら父さんの会社で働くよ。うち、私立に通うお金なんてないし」
「そ、そうか」
亜里砂の家は小さな町工場を経営しているが、経営の方はお世辞にも順調とは言い難い。
彼女が部活にも入らず早々と帰宅するのも、家の仕事を手伝うため――という噂は貴文もそれとなく聞いていた。
そのまま並んで歩き出すが、何の会話もないため貴文は今ひとつ落ち着かない。
「高校はともかく、将来の夢とかないのかよ?」
再び話題を振ると、亜里砂は小首を傾げ僅かに考え込んでいたが、やがて口を開いた。
「……かくとうか」
「は?」
その言葉が「格闘家」と脳内変換された瞬間、貴文は呆気に取られクラスメイトの少女を見つめた。
貴文自身もクラスの男子の中でさほど背の高い方ではないが、目の前の亜里砂はさらに小さい。身長150cmもないだろう。
体格も制服の上から見る限りごく普通の女子で、特に筋骨隆々という風には見えない。
「あ、ああ。おまえ運動神経いいからなー。第二のヤワラちゃん目指すの?」
「柔道は、ないかな……リングで殴り合うのがいい」
「ボクシングとか総合格闘技? あ、最近は女子選手も活躍してるってニュースで見たな、アハハ……じゃあジムとか通ってるの?」
「行ってない。うち、そんなお金ないし」
「……」
亜里砂の運動神経がいいというのは本当だ。
他の科目はさておき体育の成績だけは学年でもダントツ。
普段は教室でも目立たない彼女が体育祭の時ばかりはクラスのヒロインと化す。
3年生になるまであちこちの運動部から声がかかるのを、全て家の事情を理由に断っていたらしい。
(だからって……いきなりプロ格闘家はないだろ? 柔道やアマレスでオリンピック目指すっていうんならまだしも)
実は貴文自身も大の格闘技好きである。
といって自分が何かやっているわけでなく、その手の雑誌や書籍やDVDを大量にコレクションしている、いわば格闘オタクだが。
だからこそ、アマチュアならいざ知らず「プロ」の格闘家として食べていくのがどれほど難しいことであるかは良く知っている。
大抵の格闘技には階級制が存在しているので、体が小さいからといって一概に不利ということはない。しかしいくらスポーツ万能といえ、今のところ専門のジムや道場に通っているわけでもなく、全国大会出場など公的な「実績」もない彼女に「プロ格闘家になりたい」などといわれても――。
それは「進路」とか「将来の目的」というよりも、小学生以下の幼女がアニメや特撮のヒロインに憧れる、よくいえば「夢」、有り体に言えば「妄想」の領域としか思えない。
(電波? 電波系? それとも電波のフリして俺をからかってるとか……)
一瞬どん引きしかける貴文だが、心の中でそんな己を叱咤激励した。
(いやここで引き下がってどうする。とにもかくにも、鷹見と親しくなれる絶好のチャンスじゃないか!?)
これまでろくに喋ったこともない。また「恋愛感情」というほどでもないが、貴文にとってクラスの他の女子から少し浮いた感のある亜里砂は以前から気になる存在だった。
彼女が自分と同じ格闘技ファンだとしたら、これは「同好の士」という願ってもない展開ではなかろうか?
「じゃ、じゃあさ、よければこれからうちに来ない? 実は俺、前から格闘技に興味あって……DVDも一杯持ってるよ?『K-1』とか『PRIDE』とか……まあ男子選手ばっかだけど」
「ごめん。今日もうちの手伝いがあるから」
素っ気なく答え、スタスタ歩き始めた亜里砂の足が止まった。
いつの間に近づいていたのか。
2つの黒く大きな人影が、目の前に壁のごとくぬっと立ちはだかっていたのだ。
「お兄さんたち中学生? 真っ昼間から見せつけてくれるね~」
ボトムズのウエストを股下までずり下ろし、いかにもなヒップホップ系ファッションに身を包んだ2人の若い男。
年齢は20歳前後と思われるが、双方とも身長は180cm超、そして何よりこちらを見下ろす鋭い眼光が、お世辞にも「善良な市民」とは言い難い。
「ところでさ、オレら今ちょっとお金に困ってんのよ。わりぃけどカンパしてくんない?」
亜里砂は不思議そうに男たちを見上げ、貴文の方へ振り返った。
「知り合い?」
「いや、全然知らないけど……」
そう答えながら、貴文は大慌てで自分の財布を取り出そうとしていた。
こんな奴らともめ事を起こしても120%勝てる見込みはない。
もし自分に空手や柔道の心得があったとしても、体格に加えてストリートファイトでも場数を踏んでいそうなこの2人組を相手に勝てるかどうか怪しいものだ。
一番良いのは悲鳴を上げて逃げることだろうが、短距離走なら全校でもトップクラスの亜里砂はともかく、自分はとうてい逃げ切れないだろう。
となれば選択肢は自ずとひとつ。
「あ、あの……僕ら中学生だし、3千円くらいしかありませんけど……」
「ちっ、シケてんなぁ。ま、ねえよりマシか」
「ちょっと待って」
財布からあるだけの紙幣を取り出そうとした貴文の手を、突然亜里砂が押さえた。
「必要ないよ。何で見ず知らずのこの人たちに、東君がお金をあげなきゃならないの?」
「ちょ、バカ! 下手に反抗したら――」
亜里砂は貴文の返事など聞いていなかった。
再び不良たちを見上げ、
「すみませんが、そこどいてください。お金が必要なら自分で働いて稼げばいいんじゃないですか?」
――ギラリ。
ナイフのごとき眼光が睨めつけて来るのを感じ取り、貴文は背筋が凍った。
不良たちが大股で歩み寄り、2人を挟むように迫ってくる。
「カノジョ、いい度胸じゃないの~。ちょいとばかり付き合ってもらおうかな?」
貴文は素早く周囲に視線を走らせた。
近くに警官でも巡回していないかと藁にも縋り付く思いだったが――。
あいにく辺りに通行人は少なく、彼らも関わり合いを恐れてかこちらには近寄ろうともしない。
「あの! お金は僕が払いますっ! だからこの子のことは」
「てめぇにゃ聞いてねーよ!」
大きく振り上げられたスニーカーの靴底が貴文の顔面に飛んでくる。
頭の中が一瞬真っ白になり、その場に立ちすくんだ視界の中で――。
亜里砂が肩から提げていた通学用のスポーツバッグをスルリと地面に落とした。
バッグが地面に着地するその寸前、合掌するようなポーズで腕を組み、ちょうど自分の顔の辺りまで振り上げられた不良の片足、その膝辺りに横から肘を打ち込む。
「ぎゃっ!?」
上擦った悲鳴を上げて不良の体が傾く。
ほぼ同時に体を半回転させた亜里砂は大きく腰を落とし、残りの不良に向かって跳躍するように動き。
ドスン。
バッグが地面に落ちる、妙に重たい音と共に貴文は我に返った。
2人の不良が地面に倒れている。
1人は片膝を、もう1人は両手で股間を押さえて苦しげに呻いていた。
痛さで身動きもできないのだろう。
固く目を閉じて歪んだ男たちの顔は、脂汗に塗れていた。
「さ、行こ。東君」
顔色1つ替えずに、亜里砂が声をかけてきた。
「あの、この人たち……」
「ほっとこ。ちゃんと手加減したから、10分もすれば痛みは治まるんじゃない?」
「……110番とか、した方がいいかな?」
「いーよ別に。こっちが何か被害を受けたわけじゃないし。それとも東君が残ってお巡りさんに説明する?」
「あ、いや、やめとく。……そうそう、鷹見のカバン」
地面に落ちたバッグを拾い上げ亜里砂に返そうとした貴文は、予想外の重さに危うくバランスを崩しかけた。
「あ、気をつけてね? そのバッグの底、トレーニング用に20kgの鉄板敷いてあるから」
「……」
放心状態の貴文にはお構いなく、鷹見亜里砂は地面のバッグをひょいと拾い上げ、何事もなかったかのように肩に引っかけた。
◇
「なかなか面白れぇもの見せてもらったなぁ」
少し離れた路肩に停車した黒塗りのベンツ。
バックシートに座り、スモークガラス越しに不良たちが叩きのめされる光景を眺めていた40代の男が、煙草をくゆらせながら感心したように呟いた。
「彼ら」は不良が中学生らしきカップルに絡み始めた当初から目撃していた。
といって助けるつもりも、警察に通報する気もない。
仕事の合間の小休止として停めた車の中から「街角のちょっとした事件」を見物していただけのことだ。
あの子どもたちがどうなろうと知ったことではない。
だが、予想に反しカップルの片割れ、しかも小学生のように小柄な少女が一瞬にして大の男2人を昏倒させた。
バックシートの男はサングラスを外し、ウィンドウを僅かに開けて立ち去っていく亜里砂たちを目で追った。
「で、あのお嬢ちゃんは今何をしたんだ? 分かるか、長谷川」
「男が蹴り上げた足の膝関節に肘を打ち込み、もう1人が反応する前に間合いに飛び込み金的を膝で蹴った……そう見えましたが」
長谷川と呼ばれた30代の男が運転席から答えた。
慇懃な口調からして後部席の男の部下だろうが、その体は5000CCの外車の車内が狭く見えるほどの巨体。
おまけに鼻が半ば潰れ、両耳がカリフラワーのごとく変形した異様な風貌である。
たった今亜里砂に倒された不良たちでさえ、この男の隣に並べば「ひ弱な坊や」としか見えないだろう。
「見的必殺ってワケかい? いやぁカッコいいねぇ。で、ありゃ何だ、空手か何かか?」
「いやそこまでは……」
「おいおい、おまえだって元プロボクサーだろうが」
「確かにそうですが……ボクシングで肘打ちや膝蹴りは反則ですからね。それに他の格闘技のことはそんなに詳しくないんですよ」
長谷川は顎に手を当てて考え込み、
「しかしキックボクシング、空手、ムエタイ……どれも違いますね。分かるのは組み技系じゃなく打撃系だろうってくらいで」
「ふうん? ま、いい。……ところで今のお嬢ちゃん、何処かで見覚えなかったか?」
「いわれてみれば……」
仕事柄、彼らは毎日何十人という「顧客」と顔を合わせる。
その家族も含めれば相当な数に上るだろうが、直接仕事と関係ない未成年者となると、顔は覚えていても何処の誰かまで細かく記憶している余裕などない。
「――と、そろそろ仕事に戻る時間か」
オメガの腕時計に目をやった中年男は煙草を灰皿にもみ消し、サングラスをかけ直した。
「この後のスケジュールはどうなってる?」
「――はっ。今夜の集金先は村田商店、小林理髪店、それに鷹見製作所です」
スマホのスケジュール管理画面を呼び出し、長谷川が答える。
「鷹見か……あのオヤジも未払いの利息がだいぶ膨れあがってるな。今日という今日は厳しく取り立てなくちゃならん」
「でもあの町工場、今年になってから少しずつですが業績回復してますよ? もう少し待ってやってもいいんじゃ――」
「甘ぇぞ、長谷川」
サングラスの男が、それまでの気さくな口調から一転してドスの利いた低い声に変わった。
「俺たちゃ投資家じゃねえ、金貸しなんだ。貸した金は取れる時にきっちり回収する――債務者に舐められたら終わりなんだよ」
「オス! し、失礼しました」
ドライバーの長谷川は巨体を竦めるようにして侘びると、セカンドブレーキを解除して発進の右ウィンカーを点滅させる。
影のごとく動き出したベンツは、夕暮れ時の街に向かい走り去った。