003
小高い丘を越えたところで一気に街の全貌が見えてきた。石垣にぐるりと囲まれ、木製の城門が口となって人を飲み込んでいる。門の前に橋がかかっていた。見る限り出入り口は一カ所だけのよう。壕に貯まった水は街の背後にでんと構えた湖からの流れだろう。橋の手前から大きく面積をとって田端が広がっている。すでに働いている農夫が居て、いずれも桑を手にしていた。機械という機械を持っていない。手作業で主事しているようだった。人の往来がそこそこ。ただ獣人やらの他種は見当たらない。
「中に入るにあたって許可書だとかは必要ないのか?」
「お金が必要だよ。でも先に騎士様が話をつけてくれているの」
「それなら夜のうちに入っても良かったんじゃないの?」
「夜は門が閉まっているし、そんなときに行ったら門兵に殴られちゃうよ」
「なるほどな。ところで俺も一緒に行っていいのか?」
「駄目」ばっさりと切り捨ててきた。
「……」
「だから、しばらくここで待ってて。わたしが先に行って、騎士様からお金を貰ってくる。そうしたらまた街の外に出てくるから、今度はちゃんとお金を払って街に入ろう」
「二度手間だな。俺は構わないが、いいのかい、それで」
「うん。仕方ないよ、手持ちがないしね」
養われている身だ。文句は言えない。俺は消極的な賛成を示すと、場所を少し下り腰掛けられそうな窪みまで行った。「ここで待っている」
「じゃあ行ってくるよ」
俺が頷いた。何か声をかけようと思ったが、それが出来なかった。ミオの耳が完全に伏せてしまっている。歩みの早さが、気後れのさまをさらけ出していた。
内部に設置された物見櫓に居る男が口笛を吹いたのを聞いた。人の行き来の際に、そういった反応が今までなかったことから考えると、ミオの来訪に対する配慮に違いなかった。もっともこれをポジティブに捉えるには、口笛に気づいた門兵の、険の立った顔付きが邪魔になる。橋の中程までミオが進んだとき、その門兵がかけてきた。腰に帯刀している。抜いちゃいないが、左手が鞘を掴んでいるのが見えた。何かしらの問答ののち、ミオが門に消えていった。後に残ったのが軽い後悔と戸惑い。
人間観察が趣味でない俺が、人間観察をして暇を潰した。人の行き来が活発だったのは朝だけで、しばらくすると落ち着いてきた。その間に入り込んだのが三十数名。いずれも背中に荷物を背負った男たちで、おそらく商人だと思われる。幌馬車が二台通り抜けていき、馬を引いた行商人が後に続いていた。家族らしき団体は見当たらない。出て行くのが農作人らしき者たちが数名と、あとは帯刀した者たちだ。後者は街に駐在する兵士らしきが主だが、中には旅人とでもいうのか、兵士と比べ身なりがやや軽装で動きやすさを優先した者たちが街から出て行くのが見えた。彼等は街を振り返りもしなかった。
そのうち日が陰ってきた。雲が出てきたのだ。腹の空き具合から昼を少し回ったぐらいだと思う。自信はないが、まあ大きく外れてはいないだろう。寒くはない。継ぎ接ぎだらけの夏用の法衣だが、体感温度が二十度ぐらいでむしろちょうど良いと言える。目に見える範囲の農夫も半袖が多い。季節的には春から初夏といった感じ。地理的になかなか過ごしやすい場所なのかもしれない。土地もなかなか肥えているようだ。
田端の面積や街の規模から考えると、それほど人口は多くなさそうだ。五百から六百。多く見積もっても七百には届かないだろう。それがこの世界ではどの程度にランクするのは知るよしもない。
この世界……。もはや国が違うどころの話でないのは理解している。なにせ生態系が違うのだ。獣人という存在。まだ見たことはないが、エルフやドワーフも居るという。楽しみじゃないか。そう、俺は今この状況に得体の知れない興奮を抱いている。ミオはまだ幼いが、彼女を見る限り獣人は可愛い。物語の中ではエルフは美形というのが相場だ。ドワーフは、まあ捨て置こう。とにかく美女の多い世界というのなら大歓迎だ。
もちろん心残りはある。檀家のことだ。長谷川の爺も死にかけているし、出来るなら俺が看取ってやりたい。久保さん、中川さん、三井んとこの婆様。俺の記憶が正しければ、明後日にオープンするという園田の理事長が立ち上げたキャバクラ。口惜しや。未練よな。しかしよくよく考えてみれば、俺には優秀な兄弟子も頼れる弟弟子も居る。ついでに向こうにはツケもある。なあに、あるがままよ。なすがままよ。たらいから、たらいへうつる、ちんぷんかん。
俺がまだ見ぬ美女に思いをはせていると、視界の端に帯刀した男が映った。二十半ばぐらいで、髪の色が見事に赤いのだった。違うと思った。しかし彼はこちらを認めると、真っ直ぐと向かってきた。
「ハヒアfハlk:ア」
一瞬、何も考えられなかった。ミオとの会話で日本語が問題なく通じることを深く考えていなかった。というよりも、受け入れていたのだ。なんか知らんが通じるなら、それでいいじゃねえか、と。
「gファjl;アfhj」
あごをやって何事か喋りだした。顔の表情から疑問文のような気もするが、定かではなかった。
「悪いんだが、何を言っているのか……」
「ああ、亜語しかできないんだったな」一転して耳に当たりの良い言葉になった。「変なヤツだな。まさか獣に育てられたのか?」
「あんたは?」
「そこの街を拠点にしている冒険者だ。ランザという。ミオと言ったか、依頼を受けてあんたに金を渡しに来た」
「……なぜ本人が来ない」
「さぁ知らねえよ。俺はあんたに金と、伝言を伝えるっていう依頼を受けただけだ」
すぐには信用できなかった。ただミオの名を出したのは事実だ。
「伝言というのは?」
「えーっと、一緒にご飯を食べれなくなった。ウマシカ亭には先に金を払っているから、そこで食べてくれ。後は、教会に行けば保護して貰えるから、そこに行けってよ」
「それだけか?」
「それだけだ」言うと、袋を差し出してきた。「受け取れよ。これで俺の仕事は終わりだ」
「俺が受け取らなかったら仕事が終わらないのか?」
眉に皺を寄せて睨んできた。「何が言いたい?」
「いくつか質問がある。答えてくれるのならば素直に受け取ろう」
ランザが手に持った袋を軽く放り投げては自分の手で受け取った。そこそこの量みたいだ。袋がぱんぱんに膨れているのが見て取れる。
「これを持って逃げても良いんだぜ」面倒なことを言うなと、ランザが口角を持ち上げた。
「手間はかけんよ。それに、どこに逃げるという。そこの街を拠点にしているんだろう。名前をランザというだろう。赤い髪だ。人相も、もう覚えた」
睨みつけられるのを正面から受け止めた。風がそよとも吹かない。体温が上がっていくのを認めた。
ランザが舌打ちする音を耳に聞いた。耐えた。耐えることしかできなかった。
「言ってみな」
俺はやっと息を吐いた。「依頼はミオに直接頼まれたのか?」
「いいや、ギルドを通してだ」
「ギルド?」
「冒険者ギルドだ。……まさか本当に獣に育てられたのか」
「そのようなものだ。依頼の条件は何かなかったか」
「条件? 金と伝言を……いや、だからか……亜語を使えることが条件だった」
やはりそうだった。ミオは俺が人間の言葉を使えないだろうと疑っていたのだ。
「ミオとは直接会っていない?」
「いや、あいつがギルドに依頼しているところに俺が居た。依頼内容を盗み聞きさせてもらってな。俺の技術も使えるし、楽な割に金が良かったからその場で受けたんだ」
技術というのは亜語、つまり日本語を使えることを指しているのだろう。胸を張っているふうではなかった。むしろ使える自分を恥じているふしがある。
「たかがお使いにいくら貰ったんだ」
「銀貨六枚」
「その袋にいくら入っているか知っているのか」
「見ちゃいねーよ。だが百枚ぐらいあるんじゃないのか」
「ウマシカ亭への金はあなたが払った?」
「そうだ。銀貨一枚。値は張るが味は俺が保証してやるぜ」
おそらく相場よりも高い一食の飯が銀貨一枚。依頼に銀貨六枚。俺に寄こそうとする銀貨が百枚ぐらい。そして姿を現さないミオ。なるほど、わかってきた。
「亜語を扱えるのはギルドにどれくらい居るんだ?」
「さあな、まあ五人と居ないんじゃないか?」
「ミオとはその後」
「依頼を受けてからは知らないな」
「依頼金はすべて前払いで受けているのか」
「……いや」言うと、人間の言葉で何かを呟いた。
「何だ?」
「ああ、そんなことも知らないのかと驚いてな。基本的にギルドの仕事は先に報酬の半額貰い、その後に依頼主か関係者にサインを貰うようになっている。そのサインをギルドに提出することで、残りの金を受け取れるって寸法だ。……この場合はおまえにサインを貰うわけだ」
「一般常識かな?」
「子供でも知っている」俺の姿を見て言ってきた。
「サインの真贋はどうやって判断するんだ?」
「魔力を使うんだよ」
「なんだって?」
「魔力だよ。おいおい、まさか魔力も知らないっていうんじゃないだろうな」ランザが気味悪そうに顔を歪めた。
知らないと言っていいのか迷った。否定することが崩壊を意味する気がしてならない。
しかし俺が口を開く前に、ランザは一度頷くと、人間の言葉を再び口走った。
「……本当に獣人に育てられたんだな」顔に同情が生まれた。「それなら知らないのも無理はない。あいつらは魔力を持っていないからな」
「あいつらとは獣人を指しているのか?」
「そうだ。魔力を持っているのは人だけだ。エルフもそれっぽいのを持っちゃ居るが、魔力ではないしな」
「俺にも、その魔力ってのはあるのかな」
質問というよりも自問のつもりだったが、ランザが曖昧な笑みを浮かべたのを認めた。
「そりゃあるだろうよ。セフィロ神はすべての人間に魔力を授けてくれた。量の大小、質の良し悪しはあるだろうがな」
「その魔力があると、何が出来るんだい?」
「人それぞれさ。俺は攻撃に特化しているから、癒やしの魔法は扱えないが、中級の攻撃魔法をいくつか使える」自慢するように言った。自慢できるようなことなのだろう、おそらくは。「さて、もう良いだろう?」
「すまない、もう少し……。ギルドから依頼を受けたと聞いたが、ギルドを通さずに依頼を受けることもあるのか?」
「もちろんあるさ。というよりも仲介料を通さない分、直接のやりとりのほうが実入りは良い。大物の冒険者連中はそういった直接のやりとりが多いんじゃないかな」
「なるほど」俺は手を差し出した。「受け取ろう」
受け取った袋の口を開き、俺は中身を検めた。銀色なのだから銀貨なのだろう、八三枚入っていた。俺はそこから四十枚を取ってランザに見せびらかした。
「なんだよ?」不機嫌になってランザが言った。
「依頼を頼みたい」
「……まあ、聞くだけ聞こう」
「これでランザさんを」一週間、と言いかけて詰まった。「太陽が七度昇るまで拘束したい」
「一週間か。その間、何をやらせるっていうだ」ランザが言ったのを聞いて、週という概念があるらしいのを認めた。
「ミオを探すつもりだ。俺の口と耳になってもらいたい」
「通訳というわけだな。確認するが、戦闘行為の一切をやらないぜ」
「刃傷沙汰にはならないよ。そんなつもりはない」
「……一週間か。一週間で銀貨四十枚」
「もちろん、今日中にミオが見つかったとしても銀貨はちゃんと四十枚払う。そうだな、一日辺り三枚づつ払おう。七日目の日暮れに残った金全部。あるいは見つかった時点で全部だ。どうだろう?」
「仮に見つからなかったとしても、一週間後には全部くれるっていうのか?」
俺が頷いたのを見て、ランザがあごに手をやって考え始めた。
「わかった。交渉成立だ。あんたの目と耳になろう」
「……ソウセツと呼んでくれ。ランザさん」
「ソウセツ。変わった名前だな」
「一般的ではないかもな」苦笑して言った。「さて、さっそくだか街に入りたい。門兵にはランザさんの連れということにしてくれ。俺が何か言うよりも、あなたが交渉したほうが円満だろ」
「そうだな。だがその前に、街に入るにあたって銀貨を一枚貰いたい。門兵に渡す。それと届け物を終えた証として、サインを」
「銀貨はわかった。サインはどうやれば良い? 獣に育てられたゆえ魔法には馴染みがない」
ランザがポケットから木の板を取り出した。手のひらに収まるぐらいの小ささで、文字らしきが彫ってある。梵語に似ているが読めなかった。微妙に違うのだ。
「ここに手を置いてくれ」手のひらに乗せたままランザが言った。
「こうか?」と俺は言われた通りにやった。
「何もしなくて良い。目をつむってくつろいでくれ。俺が無理矢理ソウセツの魔力を引きずりこんで板に当てる。外法だが安心してくれ。問題ない」
安心できるわけがない。「俺の魔力を引きずり込むのがサインになるのか?」
「いや、本来であれば自発的に魔力を流して貰い、その魔力がサイン代わりになるんだが、出来ないだろう?」
「出来ない」
「だからだよ」
「危険はないのか?」
「未熟者がやれば危険だな」
「おいおい」
「未熟者がやれば、だ。こう見えても俺はアカデミー出身者だぜ」
「それがどれくらい凄いことなのかわからないな」
「任せておけ、ってことさ。さあ、行くぜ」
俺はまぶたを落とし体から力を抜いた。途端に腹に心地の良い熱が生まれたのを認めた。のど元までせり上がってくるものがある。しかし嫌悪感はなかった。しばらく時間の流れを忘れていた。ふう、というため息の音を聞いて、やっと我に返った。見ると気むずかしげにランザが顔を歪めていた。
「出来たのか?」特別な変化はない。木の板も依然そのままだ。
「いや、出来なかった」ぼそりと言った。
まるで珍妙な生態を見るかのようにランザが俺を見て黙りこくってしまった。少々まずいことになるかもしれない。人間ならばあって当然の魔力なのだろう。
「俺よりも多いな」
「何が?」
「魔力量だよ。だから出来なかった」
と言うことらしい。「量の多寡によって出来る出来ないと変わってくるのか」
「俺のやり方じゃ、俺よりも魔力量が低いやつ相手にしか通用しないんだよ」
「ランザさんの魔力量ってのは、世間一般どの程度になるんだ」
「下の上から中の下ってとこだな。触れた感じ、ソウセツの魔力量は中の中。決して多くはないが、子供が持つには過ぎた代物さ」
「魔力量は年と共に上昇する?」
「生まれつきが半分、訓練が半分ってとこだな」
「確認するが、獣人は生まれつき魔力量が少ない? それとも皆無?」
「無いんだよ。魔力を持っているのは人間だけって言ったろ。あいつらはセフィロ神の庇護から外された生き物なのさ」
「ふーん」納得できないが理解した。「ところでこういった場合どうなるんだ? ミオが見つかったとしても魔力が無いからサインは無理。かといって俺も魔力が使えないからサインできない」
「さて……こういったケースは過去になかったからな。魔力ってのは使えて当然だし。獣人からの依頼がまったく無かったわけじゃないが、そういうときは先に金を貰って当然だった。金を渡す相手が人間だと聞いていたからこいつを貰ってきたわけだし」木の板を手でもてあそんでいる。「そうだな、おまえ後十枚出すつもりないか? それで俺が魔法を教えてやるよ。手順を踏んでちゃんとやれば、板に魔力を流すぐらいのことまでなら教えてやれる。……言っとくけど十枚ってのは破格だぜ。普通は親が子に時間をかけてゆっくり修練させるんだから」
「時間をかけてやることを、この一週間でできるのか?」
「板に流すぐらいならそんな掛かんねえよ」
「そうなのか。しかし十枚かぁ……」
「魔法を教えるついでに冒険者ギルド入会の推薦人になってもいいぜ。どうせ登録していないんだろう? 入っておけば場所に寄っちゃ宿代もまけてくれる」
「もう一声。なんかサービスない?」図々しく俺が言った。慣れている。
「図々しいな、おまえ」言われた。慣れている。
「実を言うと宿代じゃなくて、泊まれるかどうかを心配しているんだ」
「ん? ああそうか。ガキの冒険者も居るには居るが、ソウセツぐらい幼いのはちょっと珍しいしな。じゃあ銀貨を十枚じゃなく十二枚出せ。俺も宿を取っているんだが、そこを二人部屋のとこに変更してやるよ」
条件を呑むことにした。物価や金子の価値がわからないため、ぼったくられている可能性もあるが、そもそも金の使い道がわからない以上、勉強代と思って諦めるしかない。
俺が頭を下げるとランザは手を差しのばしてきた。どうやら握手のつもりらしい。ひとつひとつ習っていくしかないのを認めた。