002
街道を軽やかな足取りでミオが進んでいた。鼻歌を歌いながら、日の光を気持ちよさそうに浴びている。
俺も足も軽やかだった。何せ宙にぶらぶら浮いている。俺の歩くのが遅いのを見て、ミオがひょいと持ち上げてきたのだ。最初はお姫様抱っこ。大丈夫だ、下ろしてくれ、と三度願って三度断られた。妥協案として、背中に負ぶさることになった。いくら今の俺の体重が軽いとはいえ、子供が子供を背負って歩き続けるなど無理だろうと踏んでいた。いよいよとなったら歩かなければならない。それが杞憂だと気づいたのはすぐだ。まるで羽衣でも羽織っているような気楽さでミオが足を進めるのだ。無理をしている感じはない。ペースはまったく一定で、汗すら滲んでいる様子がなかった。
「ミオって人間?」嫌味でなく、率直に聞いた。
「違うよ? 人間はユキオだよ?」
そうだ。俺は人間だ。別段日頃から俺は人間だと言い聞かしている訳ではないが、ミオを見ると自分が人間であることをどうしようもなく自覚しちまう。
「人間じゃないなら何なわけ?」
「獣人だよ」
へえ、そうなんだ、と俺は思った。獣人なんだってよ、獣人。
ちょうど目の前で猫耳がひょこひょこ動いている。
「なあ、ちょっと触ってもいいか?」
「何に?」
「耳に」
ミオが急停止した。おかげで俺の頭が投げ出され、止まることもできずにミオの後頭部に頭突きをかましてしまった。ピンボールみたいに俺の頭が跳ね上がると、苦痛を訴える間もなく今度はケツに衝撃が来た。どさっと落とされたのだ。
何なんだ急に。文句を言ってやろうと涙目になって正面を見ると、そこに顔を赤らめ正座したミオが居た。手をぎゅっと握っている。背筋がぴんと伸びている。そのくせ防衛本能の表れか、耳が後ろに引いて半分倒れていた。
「ユキオ、そうゆうこと言っちゃ駄目だよ。恥知らずだ。お天道様が陰っちゃうよ。精霊様がくしゃみをするよ。爪が伸びなくなっちゃうよ」
どうにも文化が違う。触れてはいけないことに触れてしまったらしい。耳に触るというのは恥ずかしい行為みたいだ。
「いやすまん。知らなかったとはいえ馬鹿なことを言ってしまったようだ。許してくれ」
この通りだ、と俺は頭を下げた。頭を下げながら、この身振りが謝罪になるのかと不安になった。ちらっと様子を伺うと、ミオは眉に皺を寄せて困惑しているようだった。
「ユキオは天使様なの?」
「天使だって?」
「だから常識がないの?」
なかなか辛辣なことを言ってくれる。
「天使なんかじゃないよ」
「でもお空から降ってきた」じっと俺を見ている。それから得意な顔になった。「雪みたいに」
「空から降ってきたら天使なのかい?」
「人間も獣人も、耳長もチビも空から降ってはこないよ」
そりゃそうだ、と思いながら「耳長? チビ?」
えーっと、とミオが視線を上にやってから言った。「えるふ? どわーふ?」
「エルフやドワーフも居るのか……」
まあ居ても不思議ではない。定番だろう。シーザーサラダを頼んだらシーザードレッシングが付いている程度には。
「あいつら仲悪い」苦しそうにミオが言った。
「そうなのか? なんでまた」
「わからない。あと獣人と人間も仲悪い」
「俺はミオのこと好きだぜ。感謝している」
意に沿わぬことを聞いたかのように、ミオは困った顔をした。しかし諦念か欲念か困った顔をしたまま笑った。「不思議だね。……私は人間のこと好きだよ。なんでだろう」と言う。
「なあミオよ、おまえさん、なんだって俺に良くしてくれるんだい?」
それこそ不思議なことを聞いたかのように、ミオは口をあんぐりさせた。「なんでって?」
「なんでって、そりゃそうだろう? 仲の悪い人間なんだろう。その人間が空から降ってきたんだぜ。講談じゃねえんだ。驚き桃の木じゃすまねえよ。手間暇かけて俺を助けることに何の意味がある?」
「でもユキオ、困ってた」それこそが真理みたいにしてミオは胸を張った。
不可思議。まさに思議の及ばぬところにある獣人なる者が、自己と他者との対立に因果を求めようとする様は奇怪だった。善なる者が善なる徳を積むならば、業力はその不滅さをもって彼女に幸を授けねばならない。そうと思えるぐらいには、俺はミオの心に慈悲なる光を見ていた。お人好しなのだ。人が人を信じるに根拠を必要とする世の中において、ミオは紛れもなく善良なる獣だった。
乞食に身を落とした彼女にはきっと、言うに言われぬ苦労があったのだろう。それは獣人と人間の仲違いが原因のひとつなのかもしれない。あるいは別の何かなのかもしれない。俺は彼女の口からたった一言の愚痴も発せさせぬ己の未熟を恥じねばならなかった。しかしその未熟は、ミオは偉いという思いに囚われていた。誰が何と言おうとミオは偉い。困っていたからと、見ず知らずの人間に手を差しのばす強さを持っている。こればかりはお釈迦様にもケチはつけさせねえ。
「そうだな、俺ァ困ってた」カッカッカ、と俺が笑うのを見てミオが不気味そうに後ずさった。
「ユキオ?」
「宗雪だ」
「ソウセツ?」
「うむ。雪夫とは世を忍ぶ仮の名前よ。これからは宗雪と呼んでくれ」
おおぉ、と何を誤解したのか、ミオがかっこいいと言わんばかりに目が輝かせた。むろん、俺の主観では、だ。
「それでミオよ、俺は天使じゃない。天使じゃないがこの国の人間でもない」
「そうなのか? どこの国から来たのだ?」
「日本という。聞いたことはあるか」
首をかしげながらミオが言った。「わからないけど、わたしは学がない」
「なあに、日本という国を知らないことが能なしの条件ならば、この世の者どもすべて能なしよ」
「ソウセツ以外がか?」
「ああ、俺以外がだ。だが、このソウセツ様、日本を知っていてもそれ以外のモノを知らん男だ。何せ日本には獣人など居なかったからな」
「耳長やチビもか?」
「そうだ」
「魔物もか?」
「……ちょい待て。なんだいそりゃ」
「魔物だ。災う者たちだ。ソウセツの居たところには魔物は居なかったのか? 平和なところなのか?」
「そうだな。目に見える存在としての魔物はいなかった。だが目に見えぬ魔物なら今もほれ」胸をとんとんと叩いた。「ここに居座っておるわ」
目に疑問符を浮かべたミオが、俺の胸を指さした。「そこに魔物が居るのか?」
「うむ。このソウセツ、まだまだ修行中の身というわけだ」
カッカッカと笑う俺に、納得した顔をしてミオが頷いた。「ソウセツは僧侶だな。巫女様とおんなじような匂いをしている」
「ん? もしやこの国にも神や仏に仕える者が居るのか?」
「ホトケが何かはわからないが、人間達はセフィロを崇めているぞ」
神の恩名に違いない。
「獣人は信仰の対象をもたんのか?」
「獣人に神は居ないぞ」平然と言った。悲観しているふうではない。
「……まあ、なくって困るもんでもねえ。それはそれで有りだな」
「居ないほうが良いんじゃないのか? 人間達が獣人を殺すのは、セフィロが居るからだぞ」
聞き捨てならなかった。俺は法衣の袖をまくり、ずっしりと胡座をかいた。
「どういう意味だい?」
「セフィロが言ったのだ。獣人の血は汚れていると」
「だから殺す? ……待て待て、今から行くっていうキルリアってとこは、人間が居るんじゃないのか?」
「そうだ。人間達の街だ」
「じゃあまずいじゃねえか。殺されちまうかもしれないだろう」
「ソウセツは人間だろう?」
「おまえさんのことだよ」
「わたしなら平気だ。殴られるだけで済む。逆らわなければ良いんだ」
ミオが秘伝を伝えるみたいに声を潜めて言った。それも笑顔なのだ。
魔女が囁いた言葉は、綺麗は汚いだったか。そんなもの、俺ァ求めていない。
「獣人達の街はないのか?」期待しないで俺が聞いた。
「聞いたことない」
だろうよ。あるならばこんな所に子供が一人で居るわけがない。
「キルリアには何度か行っているのかい?」
「たまに呼ばれるよ」
「呼ばれる? 街の人間にか?」
「うん。騎士様に呼ばれるんだ。山賊とか魔物が出たとき、討伐隊に入れて貰ってるの。それでお給金を頂戴しているんだよ」
「森の案内役という意味か?」
「それもあるけど、わたしも戦うの」
「おまえさんがかい」
「強いよ?」
とてもじゃないがそうは見えない。見えないが、俺を楽々と担いで行くくらいだから、フィジカルに優れているのは確かだろうよ。少なくとも今の俺より筋力があるのは間違いない。
「ちょうど呼ばれてたとこだったんだ」とミオが立ち上がった。「何の仕事かわからないけど、先にお給金の半分を貰えるから、それでご飯を食べよう?」