妖花の娘
光の差さない暗い地下室に、扉の開かれる音が響きました。
揺らめくわずかな光と共に、歩み寄る背の高い人影。
わたしは、光源であるカンテラと水差しを持ったその人物。ご主人さまの来訪を、今か今かと待ちわびていました。
おはようレイチェル、とご主人さまが優しく語りかけてくれます。
どうやら外は朝のようです。しかし、ひがな一日この地下室で時を過ごすわたしには、あまり意味を持たない挨拶です。
なにしろ、わたしは小さな鉢植えに根差す身。自由に動き回る事はかないません。
外界の事など、知りようがないのです。
わたしの名は、レイチェル。これはご主人さまが付けてくれた名前です。
わたしの見た目は、手の平に乗る程度の鉢植えに根差した植物です。緑の葉に青紫の蕾を備えた、可愛らしいアラウネです。
ただ、普通のアラウネとは少々違います。蕾から、小さな人間の上半身が生えているのです。
とは言っても、おヘソから下は、しっかりと閉じられた花弁に埋もれていて、いまだその中身は未発育です。
日に当たらぬため、肌は抜けるように白く、人と同じ柔らかさを備えています。細い腕と肩、浮き出た鎖骨は養分が足りないため、とても弱々しく見えます。それでもご主人さまは、綺麗だよ、と言ってくれます。
顔は自分で確認出来ませんが、やはりご主人さまは事あるごとに、美しいと褒め讃えてくれます。ただ、胸についての感想を避けられているのは、ご主人さまの優しさでしょうか?
人間達からは、アラウネと呼ばれるナス目ナス科、マンドラゴラ属の植物です。別名マンドレイク、恋なすびなどと呼ばれることもあります。
そう、わたしはおナスです。いわずと知れた、秋野菜の王様ですね。
一般的にはあまり知られていませんが、古くは古代エジプト時代から栽培され、かの旧約聖書にもその名が記された、由緒正しいおナスです。
とはいえ、実際にナスを実らせる訳ではありません。実は成りますが食用には不向きなのです。
栄養価のみで世を席巻する、トマトやジャガ芋といった田舎野菜達とは、格が違うのです。彼らは宗教裁判により、不浄の生命として有罪とされ、火炙りの刑などに処せられました。ですがわたしは違います。なにしろ、聖書では薬草としての効能を絶賛され、遥か古来より人々に重用されているのですから。
しかし、人間達のなんと愚かなことでしょう。物言わぬ植物を、真顔で裁判にかけるだなんて。
火で炙ったジャガ芋……ちょっと美味しそうではありますね。
わたしの敬愛するご主人さまも、やはり人間なので、どこかおマヌケなところがあります。
以前の話ではありますが、わたしが人の精を糧として成長する、と本気で信じていたらしいのです。
なんでも、グリム童話という物語の中に、そういった記述があったのだとか。
あの時のことを、わたしは生涯忘れることは無いでしょう。
ご主人さまは、殿方が下腹部に所持されているごにょごにょを取り出し、わたしの目の前で、おもむろに擦りだしたのですからっ!
もちろんわたしは慌ててご主人さまを止めました。――ええ、それはもう必死でしたとも。あやうくとんでもないモノを引っかけられるところだったのですから。
今ではご主人さまも、わたしに必要なのは、普通の植物と変わらぬ水と陽光だという事を、理解してくれています。
ゆくゆくは人間に近い大きさにまで成長し、花開く頃には下半身も成熟し、自由に歩き回ることも可能となります。
いつか開花の時を迎え、自らの二本の足で、ご主人さまとお散歩に出掛けるのが、わたしの夢です。が――――光の当たらぬこの地下室では、光合成が出来ません。
このままでは、わたしは咲き誇る前に立ち枯れてしまうでしょう。
ごめんねレイチェル。そう言いながら、ご主人さまは水をかけてくれます。
いつか必ずお日様の元に出してあげるからね。というのがご主人さまの口癖です。
ですがわたしは知っています。
もし、わたしの鉢植えを人目のつくところに出してしまえば、ご主人さまはとても困ったことになってしまうのです。
きっと教会の恐い人達から異端として狩り出されてしまうでしょう。魔女狩り、というのだそうです。
わたしは由緒正しいおナスだというのに、なんて理不尽なことなのでしょうか。
ですが、わたしもそんな事は望んでいません。ご主人さまの身に何かあれば、わたしは生きていけないのですから。
それは、物理的な理由のみではありません。わたしがご主人さまをお慕いしているからです。
わたしは恋なすび。ご主人さまを恋う、おナスなのです。
そう、ご主人さまのためならば、このまま日の目を見ることなく枯れて行くのも、仕方のないことなのです。
わたしの悲しげな想いが伝わってしまったのか、ご主人さまが大きなため息をつかれました。
水が跳ね、濡れて顔に垂れかかる髪を、繊細な手つきでかき上げてくれます。
蕾と同じ青紫の髪。ご主人さまが何度も褒めてくれた、わたしのお気に入りです。
気落ちした様子のご主人さまを、なんとか慰めたいと思うのですが、わたしは言葉を発することが出来ません。
蕾に埋もれた下半身同様、声帯も発育しきってはいないからです。
レイチェル、泣かないで、美しいレイチェル。柔らかい声音で、わたしの方が慰められてしまいました。
時の過ぎる感覚も曖昧なまま、わたしはご主人さまを待ちつづけます。そんな生活に、終止符を打つ出来事が起こったのは、ほんとうに突然でした。
乱暴に開かれた扉。最初に見えたのは松明の炎でした。
決してご主人さまはなさらないような騒音を立て、地下室へ踏み入って来たのは、修道服に身を包んだ初老の男性。
教会の関係者だということは一目瞭然です。おそらく神父さまでしょうか。
すぐにその後から、ご主人さまが地下室へと入って来ました。
焦りを帯びた声音で、修道服の男を制止しようとしているようです。
燃え盛る松明を振り回し、男が周囲を見渡します。その目がわたしに止まり、驚愕の声が上がりました。
なんと恐ろしい……そんなつぶやきを漏らし、男が近づいて来ます。
恐ろしい思いをしているのは、むしろわたしの方です。
松明を近づけないで下さい!
火は嫌いなんですっ!
不躾な目で、わたしの肌を見ないで下さいっ!!
上半身だけとはいえ、わたしは一糸まとわぬ姿なのです。
胸元まで垂れかかる髪で、大事なところは隠せていますが、それ以外の部分は全裸なのですから。
ご主人さまと男との間で、激しい口論がなされます。
異端だ、悪魔の植物だ、という男の言葉に、わたしは怯える事も忘れ、悲しくなってしまいました。
今すぐ焼き払わねばならない、と叫ぶ男に、わたしは死を覚悟しました。
ご主人さまが、男に飛び掛かったのはその時でした。
凄まじい怒声を上げ、男を殴り組み敷きます。
普段穏やかなご主人さまの変貌ぶりに、わたしはただただ呆然としていました。
男も聖職者とは思えないような暴言を吐き、松明でご主人さまを打ちすえようとします。
もつれ合い、争う二人に、わたしはどうする事も出来ません。
長いような僅かな時間が過ぎました。
ご主人さまが、すっくと身を起こします。
松明を拾い上げ、地に転がり動かなくなった男を、検分しているようでした。
不意に――殺してしまった――そんな呻きが聞こえました。
ああ、なんという事でしょう。
わたしは無意識の内に、限界まで手を揉み絞っていました。
いったいご主人さまは――――わたし達はどうなってしまうのでしょう。
わたしはご主人さまに抱えられ、荒野の道無き道を、北へ北へと旅しました。
神職に携わる者をあやめてしまったのです。
ご主人さまは取るものもとりあえず、追われるように街から逃げ出しました。
すべてはわたしを守るために成された行動です。
まだ若く、洋々たる前途を持っていたはずのご主人さま。――その未来を、わたしが奪ってしまったのです。
涙するわたしを、それでもご主人さまは力づけてくれます。
大丈夫だよレイチェル。――それがご主人の新しい口癖になりました。
お前は必ず守ってあげるからね。――優しく語る声に、涙が止まりません。
ご主人さまの話では、荒野を越えた北方には、いまだ未開の緑豊かな土地が広がっているそうです。
わたし達の旅は、幾日もつづきました。
草木もまばらな荒れ地を、ひたすら北へ。
充分な備えがなかったため、食料は途中で尽きました。
わたしは水と陽光さえあれば、飢えるということはありません。しかし、ご主人さまは違います。
人間は、食べなければ死んでしまうのです。
日々痩せ衰えてゆくご主人さま。
時に草の根をかじり、時には木の皮を剥ぎ、茹でたりした物まで口になされました。
髭は伸び放題となり、頬はこけ、落ち窪んだまなじりからのぞく眼光は、鋭いものとなっていました。
それでも優しく語りかける声だけは、変わりませんでした。
見てごらんレイチェル。――ご主人さまの声に顔を上げると、これまでの荒涼とした景色は一変し、目にも鮮やかな緑が飛び込んで来ました。
正面に鎮座する丘の上には、これまで見た事もないような花が咲き乱れています。
歩くにつれ緑が濃さを増す自然。その丘を登り切った時、眼前に広がった光景に、わたしは驚嘆の息が洩れました。
途方もなく大きな水溜まり。これはきっと、湖というものです。
初めて見る蒼い湖面には、ご主人さまとわたしの姿が映っていました。
ご主人さまがおっしゃいました。――ここが僕達の理想郷〈ユーフォリア〉だよ、と。
そこは、正に理想的な土地でした。
日当たりが良く、綺麗な水も潤沢です。
湖に住む魚は逃げるという事を知らず、ご主人さまは手づかみで捕まえることが出来ました。
辺りには木の実も豊富なので、食料にも困りません。
わたしは湖から遠からず近かからずな場所に植え変えていただきました。
ここならきっと、大輪の花を咲かせることが出来ます。
わたしは、ご主人さまのためだけに、咲き誇りましょう。
さんさんと降り注ぐ光に両手を広げ、お日様の恵みを享受します。
ご主人さまは湖に顔を映し、おヒゲを短刀で剃り落としています。わたしを植え変える時、穴を掘るのに使った物なので、所々が刃こぼれしていて剃りにくそうです。
その後ご主人さまは、服を脱ぎ水浴びを始めてしまわれました。
わたしは目を逸らし、そちらに視線が行ってしまうのをごまかす事に必死です。
身繕いを終え、さっぱりとしたご主人さまは、見違えるほどにこざっぱりとしていました。
長旅の間にやや容貌も変わり、精悍な顔付きがとても凛々しいです。
わたし達は、幸せな日々を過ごしました。
共に昇る朝日を迎え、月の満ち欠けを眺め、愛の言葉を囁かれました。
赤面する顔をからかわれたりした事も、今では良い思い出です。
わたしの体は順調に成育してゆき、遂にその時が近づいて来ました。
そう、間もなく開花の時なのです。
すでにわたしの背丈は、ご主人さまの胸元にまで届いていました。
まだ、ちゃんとした言葉を発することは出来ませんが、それも時間の問題です。
蕾に隠れた下半身からは、くすぐったいようなむず痒いような、妙な感じがしています。そこには、わたしが焦がれ続けた、地を踏み締める足の感覚が、確かに存在しています。
ご主人さまの嬉しそうな笑顔に、わたしも自然と顔が綻んでしまいます。
そして、蕾の花弁が開きだしました。外側から一枚一枚、ゆっくりと。
わたしが生まれる瞬間。最後の一枚が花開いた時、羞恥のあまり思わずしゃがみ込んでしまいました。
ご主人さまが少し照れながらも、こうおっしゃいました。
美しいレイチェル。君の全てが見たいんだ、と。
わたしは顔が熱く火照るのを感じながらも、自らの二本の足で立ち上がります。
ご主人さまの目が、わたしの顔から髪に隠された胸元へ下ります。さらに視線は下り、腹部から遠慮がちに下腹部へ。大腿部を通り越…………そうとしたところで、凄まじい勢いで視線が下腹部へ跳ね上がっ――――
「――って、男の娘〈こ〉かよっ!?」
え? 何をおっしゃられているのですか、ご主人さま。
「こんなに可愛らしいわたしが、女の娘のはず、ないではありませんか」