さよならぐっばいまた今度
昔、連載として書こうと思っていた小説を少しだけリメイクして短編にしてみました。
耳障りなサイレンが訊こえる。報道陣が騒ぐ声とフラッシュが消えては光るそれが頭の隅を刺激して、見ている風景が歪んだ。それと同時に頭痛と耳鳴りを覚える。足元が揺れる感覚にその場にしゃがみこんでしまいたくなったがなんとか堪えて、もつれる足でその場を離れた。野次馬の波に逆らって夜なのに煌々と明るい忌々し場所から距離を取る。
「っ………」
息が詰まって頭の芯がぼうっ、とする。犯人は事件現場に戻ってくるとはよく言ったものだと、酸欠に喘ぐ思考で考えた。今までちゃんちゃら信じていなかった与太話だけれど、これからは信じようと思う。自分の身に起ったことを否定するほど俺も馬鹿ではない。
ぐるぐると頭と腹の中を回る感情と定まらない思考に途方もなく気持ちが悪くなって、元から覚束ない足取りが余計にふらふらになる。このまま歩き続けて何処か遠くに行くのは無理だと直感した。情けなさ過ぎる足取りで逃げるように偶然目に付いたビルの隙間に入りこむ。こんな路地でどうするのか。自分でもよくわからなかったが、じめじめとした路地裏は火照った頭に丁度良かった。ひんやりとした冷気と薄汚い闇が俺を出迎える。もう立っていることもままならくなって、廃ビルに背を預けてみっともなくずるずるとその場に座り込んだ。
「、っ……、はっ…」
とにかく気持ちが悪い。胸焼けしたかのように胸辺りが熱くて横隔膜が痙攣する。何も入っていないはずの胃から今にも色んなものがせり上がってきそうだ。冷や汗なんかが玉のように額に浮かんでは頬を滑って地に落ちる。ぶっちゃけこのまま死ぬんじゃないかと思うほど気持ち悪い。だったら別にそれでもいいか、なんて。ぐらんぐらんと揺れる視界と中枢神経が誰かがこちらに歩いて近付いてくる足音と、その影を見た気がしたけれど最早俺の脳内は考えることも感じることすらも拒否した。かつんかつんと踵を鳴らして軽快な足音で俺に近寄ってきた某サンは、何が楽しいのか愉快そうに笑いながら青年と呟いた。青年って俺のこと?ビルに凭れて膝に顔を埋めている俺には某サンの表情も背格好も見えない。ただ影だけが、自分の両膝の間から見えた。
「パンドラの箱に潜ってみるつもりはないかい?青年」
なにが?誰が?つまりどういうこと?訊こえたのは甘い甘い誘惑だった。意味はわからなかったけれど、今の俺には必要なのだと本能が鐘を鳴らす。揺れる世界は白くて黒い。訳も分からずに俺はただ、影しか見えていなかったはずの某サンがいつの間にか差し伸べていた手を掴んだ。
*****
ギリシャ神話で全知全能の神・ゼウスがすべての悪と災いを封じ込め、人間界に行く人類最初の女性であるパンドラに持たせたとする箱。決して開けてはならないとゼウスが厳命したにも関わらず、パンドラは好奇心に負けてその箱を開けてしまった。するとそこから煙が立ち昇り、封じ込められていたありとあらゆる害悪や災禍が世界中にばらまかれたという。……ギリシャ神話だ。所謂オトギバナシ。それでも考える。開けてしまったら戻れない、摩訶不思議なパンドラの箱。開けてしまったら、二度と戻れない。なんせ中身は吃驚箱以上にタチが悪いモンだ。この世の3/2がぎゅうぎゅうに詰め込まれているのだから当然っちゃ当然なのだけど。しかしその論理で考えるとすると、俺はもう二度と戻れないということになるのだろうか。
「…あー…いや。開けるんじゃなくて潜るんだったか」
「なんの話?」
「いえ、こっちの話です」
某サンこと鎭目さんは後ろにいる俺を振り返って、それからさして興味なさげにふーん、と呟いた。…興味なさげっていうか、興味ないんだろう、実際。
俺に手を差し伸べた今目の前で煙草を吹かしている茶髪の彼は、鎭目穣と名乗った。モロ日本人ですって名前のわりに鎭目さんの顔立ちは明らかに東洋人らしくなくって、好奇心のままに何人ッスかと尋ねたら俺も知らねーと返された。じゃあ鎭目穣って偽名なんですね、とも訊いたら、ユタカって懐肥えそうじゃん?と愉快そうに笑ってこともなさげに自分は偽名です宣言をしたところを見ると、結構すごい人なんじゃないかと思った。何がって俺にもよくわからんけど。
その後にお前の名前はと訊かれ、偽名とやらを俺も使ったほうがいいのかと一瞬悩んだがすぐに面倒になって正直に本名を名乗ることにした。楠瀬万里です。簡潔にそれだけ言うと鎭目さんはまた笑って、それじゃあ一名様災禍の底へご案内ー、とこれまた愉快そうに笑った。鎭目さんが差し伸べてくれた手を握りっぱなしだった俺はその手に引っ張られてようやっと地べたから尻を上げる。死ぬんじゃないかと思うほどの気持ち悪さは、いつの間にか消えていた。
ごうんごうん、と大袈裟な機械音に鼓膜を揺すられて思考が現実に戻ってくる。その途端、全身を襲う浮遊感と視界に漂う紫煙が急にリアルに感じられて倒錯感を覚えた。どっちが地面でどっちが天井だったか。四方を囲まれた場所にいるから余計にそう感じる。変な気分だ。視界の端で揺れる鎭目さんの茶色の髪が厭に気なって、何を血迷ったか俺は思わず彼のことを呼んでしまった。…あ、やべ。
「あに?」
後悔したがすでに遅い。煙草をくわえたままなので聞き取り難い返答だったが、その代わりなのかなんなのか、鎭目さんはわざわざ顔をこちらに向けてくれた。コバルトブルーの瞳に俺の顔が映る。
「あー…えー…」
別に呼ぶつもりなんかなかったから、何か話したいことがあるわけじゃない。まさか馬鹿正直にあなたの髪が視界にちらつくのが気になって、とは言えないし。なんだそれ頭丸めろっつってんのかと俺だったら思う。しかし素直に呼んでみただけです、とも言えない。ガキじゃあるまいし、何よりそんな理由阿呆過ぎる。
「楠瀬?」
眉間にしわを寄せて黙る俺に鎭目さんまでもが眉間にしわを寄せた。怪訝そうな顔付きで、なに酔った?と煙草を揉み消した彼は少なからずいい人なのだろう。ああ悪いことしたなあ煙草もったいね。鎭目さんが高そうな革靴の踵で煙草を踏みにじるのを見ながらそんなことを考えた。
「楠瀬」
何も言わない俺に鎭目さんは更に怪訝な表情をする。笑ってない鎭目さんってもしかして貴重?とかまた関係ないことを考え出した下らない思考を追い払った。ここまで連れてきてくれた彼に余計な迷惑はかけたくないし、不快な思いもしてほしくない。仕方ないから適当に理由をでっち上げることにした。てゆーか自業自得?…いやあ、ごめんね鎭目さん。
「大丈夫です。さすがにこんなのじゃ酔いませんって。これ、何処まで下がるんですかって訊きたくって」
「それ地下何メートルまでって意味?」
「たぶん」
「多分?」
「あ、いや、違います。そうですこれ地下何メートルまで潜るんスか」
「…それ」
「はい?」
「なんとかッス」
「なんとかっす?」
「体育会系だなって会った時も思った。高校ん時何部だった?」
「空手、部に少し…」
「ふーん。600メートルくらいじゃない?」
「は?」
「地下600メートル」
「ああ…」
……どうも要領を得ないと思った。鎭目さんの癖か何かなのだろうか。あっちこっちに飛び火する主旨たちに些か困惑した。本人の中ではきっとすべてが繋がっているのかもしれないが、そういえばや話変わるけど等の会話の区切りや節目がないから訊いてる側からするとちょっと困る。別に生命に関わる大事なわけじゃないからどうでもいいっちゃどうでもいいことではあるが。ありがとうございますと鎭目さんに礼を述べると鎭目さんはいーってことよと笑って新しい煙草をくわえた。
それにしても地下600メートル。そんな何メートルとか言われても今一ピンとこないが、凄く深いということはわかった。だから時間がかかるんだなあ、このエレべーターが目的地にまで降りるのに。狭い箱の中で浮遊感を味わい続けて結構経つ気がするのに中々エレべーターは下まで降りきらない。
紫煙がまた充満してきた視界の中で、ついさっきのことを思い出した。
俺がふらりと入り込んだ路地から鎭目さんに連れられて、着いた先は小洒落たバーだった。家からわりと近所にあるのに今まで気付かなかったとほげーとする俺を引っ張って鎭目さんがバーに入る。そのままカウンターや客などには目もくれずどんどんと奥まで進んで行くもんだから、とにかく俺も着いて行くしかない。あまり大きくない店の中を横切って、鎭目さんはついに関係者以外立ち入り禁止、と書かれた扉にこれまたどんどんと侵入して行く。おいおーい、ここスタッフルームなんじゃないんですかーと喋りかける暇もなく鎭目さんに引っ張られて俺も扉の向こう側に入る。やべー店の人間に何言われるかわかんねーぞ、と懸念したが、しかしその部屋は店の人間が暫しの休息をするような、そういった部屋ではなかった。
「…………………」
その部屋に入った時の俺の反応はただひたすら無言だった。
や、だって他に何言えばいいかわからないし…。
スタッフルームかと思っていた関係者以外立ち入り禁止の扉の向こうには、普通のバーにはおおよそないだろうものが設置(?)してある部屋だった。
「……エレベーター」
なんでエレベーター…?
アンティーク調の小洒落たバーによく似合う小洒落たエレベーター。関係者以外立ち入り禁止の扉の向こうにはエレベーターがあるのが当然なのだろうか。俺が今まで知らなかった世の中の常識なのか。もしそうだったら知りたくなんかなかったのに…。
困惑する俺を見て笑う鎮目さんに視線を移して、これエレベーターですよね?と確認すると、彼はげらげらと大口を開けて笑いだす。……この人は箸が転がっても面白いと思うそんな年頃なんじゃないかなあ…。失礼なことを考える俺のことを散々笑った後、鎮目さんは目尻に溜まった涙を拭って俺に問いかけた。
「楠瀬ちゃんは頭がイイなァ。じゃあエレべーターのドアが開いていたらすることはなんだと思う?」
「乗る…んスね」
「That's right!」
よく出来ました、とにたにたする鎭目さんに押されて俺はエレベーターに乗り込んだ。それが少し前のこと。それにしたってやっぱり普通じゃありえないほど長々とこの箱の中にいる。
いつ到着すんのかなあ、なんて思考を過去から現実に戻してなんとなしに右斜め前にいる鎮目さんを見る。染めたようには見えない綺麗な茶髪をガン見してると、鎮目さんが唐突にふふ、と笑った。
「怖い?」
何が、とは訊かれなかったが言いたいことはわかった。ちょっとだけそれの答えに悩んでから、「少しだけ」と答える。するとその返答が意外だったのか彼は俺の方を顔だけで振り返って、微かに目を見張った。けれどそれも物の数秒で、次の瞬間にはいつものあのにやにやとした笑みを浮かべた鎮目さんに戻っている。
「……色んな意味で素直だねェ、楠瀬は。それがパンドラで吉と出るか凶と出るか」
「どっちにしろ俺次第ってことですよね」
伸ばされた手を掴んだあの時から俺は今まで通り笑って平和で在り来たりな日常の中にいることを捨てた。…いや、あいつらを手に掛けたその時からかもしれない。どちらにせよ俺は今までの俺でいられないわけだし、もしかしたら俺が日常に捨てられたのかもしれない。
でもほら、起きてしまったものは仕方ないじゃないか。とりあえず覚悟だけは煙草がぐしゃぐしゃに入れられたポケットに適当に突っ込んできた。
「そろそろ着くぞ」
俺の答えに満足したらしい鎮目さんは煙草を消して前を向いた。
…これからどうなるかは自分次第。今更ながら己の言葉に少しの不安と興奮を覚える。
鎮目さんの言葉通りエレベーターが速度を落として、目的地に着こうとしている。
チン、という軽快な音と共に開いた扉のあちら側に強烈に光る何かを見た。
人類を不幸に陥れた奇跡の箱に、俺は今足を踏み入れる。