98. 恐れていた事態
《聖道暦1112年9月10日》
ラトの新しい家での話し合いの後、エステルは再びカイザーの元を訪れ、さらに厳しい指導をお願いした。もちろん彼にはこの国に来た役目があるため、兵士達の指導が終わってからの短い時間をもらっての訓練だ。
「エステリーナ、動きが良くなっているな。とにかく集中力を切らさないように続けなさい。」
「はい!」
この日も汗だくになりながら夕方の訓練を終えると、飲み物を手にカイザーが話しかけてきた。
「私の滞在もあと数日だ。教えられることは全て教えたつもりだが、気になることがあればここにいる間にまた聞きに来なさい。」
「はい、ありがとうございます。」
エステルが飲み物を受け取りお礼を言うと、カイザーは訓練の時に見せていた厳しい表情など嘘のように、目尻を下げて微笑みながらエステルを見ていた。
「本当は何もさせずに、温かな家の中でぬくぬくと過ごさせてやりたかったのだがなあ。わしにとってお前さんは孫娘みたいなものだ。目に入れても痛くないほど可愛くて仕方がないと言うのに、爺いにこんな厳しい指導をさせて…」
ローゼン王国一の剣の使い手とは思えないお茶目な発言に、エステルは思わずクスリと笑ってしまう。彼は訓練以外では驚くほどエステルにだけ優しいのだ。
「わしには子供も孫も男の子しかいなかったから、エステリーナはたった一人のわしの孫娘だ。大事な大事な孫娘なんだから、無茶は駄目だぞ?どうにもならなくなったら、逃げる勇気も持っていなさい。いいね?」
「わかりました。カイザー様、色々とありがとうございました。」
カイザーのにこやかな笑みを見上げながら、エステルは自分のことを心から案じてくれている人達のために、今の言葉を忘れずにいようと誓った。
だがそんな気持ちを挫くかのように、この日から帝国内の状況は悪化していった。
珍しくエステルが一人でメルナの屋敷へと戻ると、もう夕刻だと言うのに何人もの人が玄関ホールに集まり、深刻そうな表情で何かを話し合っていた。
「エステリーナ?」
「メルナ!一体何が…」
そこにちょうど上の階から降りてきたメルナが現れ、エステルは詳しい事情を聞いた。
「実は、例の魔獣もどきが今帝国各地に出没しているようなのよ。ここにいる彼らは私の部下達。今日は担当している地域の情報を持ち寄ってもらったのだけれど、帝都以外でも何件かそうした事件が起きていることがわかったのよ。」
「そんな…大丈夫なの!?」
エステルが青くなってそう尋ねると、メルナは小さく二回頷いて言った。
「ええ、なんとか。カイザー卿に剣の指導をしてもらって本当によかったわ。兵士達の実力は格段に上がったし、能力の発動もしやすくなったようよ。お陰でどの地域の魔獣もどきも、苦戦はしたけれど全て討伐は完了しているわ。」
「そう、よかった…」
彼女はさらに続けた。
「それにね、ラトさんからの指導も素晴らしかったの。一人では敵わない相手にどう集団で攻撃を仕掛けるか、剣とどう組み合わせると効率よく動けるか、彼の動きと忠告から学ぶことは相当多かったようよ。軍全体の動きが変わったと、上層部からは喜びの声が届いているの。」
「そうなんだ。私が知らないところでラトさん、頑張っていたのね。」
エステルがしみじみとそう話すと、メルナは微笑んだ。
「そうよ。それもこれも、あなたとの未来のため、らしいわ。ふふ!愛されているわねえ。」
「も、もう!メルナったら揶揄わないで!」
「はいはい!さあ、私は仕事に戻るわ。部下達に指示を出さないと。エステルも疲れたでしょう?着替えたら夕食を食べて、早く休んで。」
「ええ、ありがとう。」
彼女は慌ただしくエステルの元を離れると、彼女の部下達と共に別室へと移動していった。
その後誰もいない食堂で一人静かに夕食をとっていると、レイクが来客を告げた。
食事を済ませて廊下に出ると、数日ぶりのアランタリアの笑顔が出迎えてくれた。
「エステル、遅い時間に悪いね。今ちょっと話せるかな?」
いつもよりも疲れた顔をした彼に気付き、エステルは黙って頷く。そして廊下から玄関ホールに移動した二人は、壁際に置かれているベンチに腰掛けた。
「アラン、疲れているみたい。大丈夫?」
エステルからそう話しかけると、彼は久しぶりにあの無表情な顔をエステルに向けて言った。
「実は今日大神殿に向かう途中、見たことのない顔のある魔獣がいると騒ぎになっている場面に出くわしたんだ。でもすぐに兵士達が駆けつけてくれてどうにか対処できた。と言っても、かなり怪我人は出ていたけれどね。」
「帝都の中でも、例の魔獣もどきが出現しているのね…」
その話を聞きエステルは改めて、今この国のあちらこちらで恐ろしい事態が起きていることを実感する。
「だけど本当にまずい出来事はその後に起きたんだ。俺が現場で怪我をした兵士達の『治癒』をしていた時、また別の黒い何かが現れた。」
「え?」
アランタリアはベンチの背もたれに腕を掛け、沈痛な面持ちで続けた。
「そしてそれは近くにいた兵士に襲いかかり、あっさりと剣で斬られたんだ。だがどうも魔獣とは違う姿のようだし、魔獣もどきでもない。それで、動かなくなったのを全員で確認してから俺がその黒いものを調査した。そうしたら……それは、人、だったんだ。」
「人…?」
「ああ。体中真っ黒に膨れてはいたが、手足や頭だと思われる部分も確認できた。だからその手に握られていたハンカチを見つけて…そこには、アンナ・ハーヴェイという名前が刺繍されていた。」
「……」
また人なのか、とエステルは暗い気持ちに包まれる。
「もしかしたら今後もこうしたことは続くかもしれない。今日はメルナにその報告に来たんだが、今は忙しそうだったから、まずはあなたに話しておきたかった。」
「アラン…そうだったの。そのアンナさんという方は、もう…?」
亡くなったのとは言いにくくて、つい言葉を濁してしまう。するとアランタリアは少しだけ悩んでからこう言った。
「いや、なんとか生きてはいる。だが当然状態はかなり悪いし、試しに大神殿でペリドール様と共に『治癒』や祈りを捧げてみたが、僅かな効果しかなかった。」
そして彼は背もたれに載せていた腕を下ろすと、エステルの手を握りしめて言った。
「エステル、もしあなたさえ良ければ、明日、大神殿に来てくれないか?あの状態の女性を今から助けることは難しいかもしれない。それでも僅かでも望みがあるなら、それに縋りたい。」
「アラン、もちろん行くわ。私でできることがあるかはわからないけれど、友達が困っているなら当然よ。」
アランタリアの表情は一瞬明るくなったが、すぐにまたあの無表情へと戻っていく。そこでエステルはふと彼の気分を変えようと思いつき、「話が長くなったしお茶でも」と言って立ち上がった。
だがその動きは、突然の後ろからの抱擁により妨げられた。
「えっと、アラン?」
「……」
彼は黙ったままぎゅうぎゅうとエステルを抱きしめる。苦しくなったエステルはもがきながら説得を始めた。
「ちょっと、ねえ、どうしたの?ほら、お茶でも飲んで少し落ち着いて…」
「東の大陸に行ってしまってからも、ずっとあなたを想っていた。帰ってくることも心待ちにしていたし、帰ってきてからも紳士的に振る舞い、やるべきことを日々こなしてあなたに相応しい男でいようとした。でも、どうしてもあなたが足りない。どうしたら…どうしたら俺はあなたの傍にいられる?」
その切ない声と言葉にエステルは戸惑う。
「とにかく一度離して、アラン。それに私達友達になったんじゃ…」
「言っただろう?俺は諦めないと。」
「アラン、お願い!」
少し大きな声を出してそう言ってみたが、アランタリアの腕はしっかりとエステルを包みこみ、離そうとはしなかった。
「それなら、今だけでいい。あなたを補充させてくれ。」
「そんなの駄目に」
「おい、何をしてるんだ!!」
突然の大声とドアの閉まる音、そしてそこに現れたのは、ラトだった。
彼はすかさずアランタリアをエステルから引き剥がすと、アランタリアと睨み合う。
「またあなたですか。何の権利があってこんなことを?」
「別に何の権利もない。だがエステルが困っていたんだから助けるのは当然だ。」
「でも、意外と喜んでいたかもしれませんよ?」
「アラン!?」
「はあ?」
「とにかく、あなたはもう彼女の友人でしかないのですから、余計なことはしないでください。」
再び無言で睨み合う二人。エステルが額を手で押さえてため息をついていると、アランタリアが笑みを浮かべてエステルに言った。
「エステル、温かい飲み物でもいただきましょうか。」
「え、この流れで!?」
「俺も飲む。」
「え、どうしてラトさんまで?」
「……」
「……」
黙りこくった男二人を前に久々に頭を抱えたエステルは、今度は先ほどよりもずっと大きなため息をついてから、レイクの元に向かった。
エステルがいなくなると、ラトが徐に口を開いた。
「帝国内で、例の魔獣もどきが暴れているらしいな。」
アランタリアは目も合わさずに答える。
「ええ。しかもその恐ろしい存在にすらなりきれなかった女性が、今大神殿にいます。」
ふう、と息を吐き出すと、ラトは先ほどエステル達が座っていたベンチに腰を下ろした。
「そうか。あれは……もう人には戻れないかもしれないな。」
「ええ。ですからせめて最後くらいは、少しでも楽にしてあげたい。明日、エステルが彼女の様子を見にきてくれるそうです。」
ラトは足を組んでアランタリアを見上げると頷いた。
「わかった。俺の部隊に関してはある程度準備を終わらせてきたから、明日は付き添える。俺も一緒に行くよ。」
「わかりました。お願いします。」
玄関ホールに一瞬だけ静けさが戻る。そして再びアランタリアが話し始めた。
「それにしても、魔獣もどきと言われるあの存在は何なのでしょうね。元が人だから能力も使えるということなのか…」
「完全に魔人化する前だったからこそ突然変異的にあの形になったのかもしれないな。まあ、推測の域は出ないが。」
遠くからカチャカチャと食器が揺れる音が聞こえてくる。
「しかもまずいのは、人でいた時よりも能力が強く発動されていることだな。魔人ならむしろ能力は弱くなるんだが。……先生、俺達はこれから彼らの力を少しでも抑えたいと思っている。だからすまないが、神官達にも協力を頼む。それと今回『印』を刻んだ兵士達も多い。彼らの支援もよろしく頼む。」
ベンチから立ち上がり頭を下げたラトに、アランタリアは驚いた表情を浮かべながらも大きく頷いた。
「もちろん協力しますよ。知り合いの減呪師にも何人か声を掛けています。非常事態ですからね。」
「助かる。思うところはあるだろうが色々と協力し合おう。だが、エステルのことは別だからな。」
「ふっ。俺が引き下がるとでも?」
「引き下がらないだろうな。だが、俺ももう二度と彼女を手放すことはしない。」
「……」
「……」
その微妙な空気となった玄関ホールに、エステルが早足で戻ってくる。
「ああ、もう!まだそんな感じなんですか?ほら、二人とも!あちらでお茶でも飲みましょう?」
「わかった。」
「ええ。いただきましょう。」
そうして三人は応接室に入ると、長さのあるソファーに何故か三人並んで座り、お茶を飲み始めた。
「……何なの、この状態!?」
「仕方ないだろ?エステルの隣を譲りたくないって先生が言うんだから。」
「狭いと言うならあなたがあっちの椅子に座ればいいんですよ。」
「嫌だね。」
「私もです。」
「はあ……」
事態は深刻なものになりつつあるのに、一体何をやっているのかしらと思うエステルだったが、これ以上言っても無駄だと諦めて、静かにお茶を飲み干すのだった。