96. 緊急会議
《聖道暦1112年9月1日午後》
エステルはこの日、メルナの仕事場の一つだという堅牢な建物を訪れていた。
石造りの壁とそれを取り囲むように設置された金属製の高い柵、そして入り口含め数カ所に配置された物々しい警備…
「はあ、ちょっと緊張するわ。」
「はは。わかる気がする。まあ、入ってみよう。」
隣には、今日も当たり前のようにラトがいる。あれほど距離を取っていたのが嘘のように、今はほぼ毎日一緒に行動するか、近くにいて見守ってくれている。
「ええ。入りましょう。」
入り口に立つ兵士にはすでに話が通っているようで、二人は特に何かを求められることもなくあっさりと中に通された。
中に入ると、飾り気のない白い壁と灰色の床に包まれたほぼ何もない空間が広がっていた。真正面には両開きの焦茶色のドア、左手には細い廊下と窓が続き、右側には上に続く階段が見えた。
「正面の部屋って言っていたから、きっとあれね。」
「ああ。…なあ、エステル。」
大きなドアに向けてエステルが歩き始めると、ふいにラトに呼び止められて振り返る。
「はい?」
首を傾げて近付いてきた彼を見上げると、ラトは優しい笑みを浮かべながらエステルの頭にぽん、と手を置いた。
「これから先、もし辛いことがあったら、いつでも俺に言えよ?」
「ラトさん…もう、またそうやって私を甘やかそうとして!」
エステルが冗談ぽく拗ねた顔を見せると、ラトはもう一度ぽんぽんと頭に軽く手を当てて言った。
「これからは俺も、辛い時はエステルを頼るようにする。友達だからとか恋人だからとかじゃなく、大事な人だから、そうする。だからエステルも必要な時は俺を頼って。うまく言葉にできない時は、手や服を引っ張ってくれてもいい。」
その愛のある言葉はエステルの胸にすうっと入りこみ、心の中で気がつかないうちに頑なになっていた何かを、ゆっくり解かしていった。
「うん。ありがとう、ラトさん。」
「おう。…さあ、中に入るか!」
そう言ってラトが開けてくれたドアを抜けて、エステルは重苦しい雰囲気を漂わせる室内に入っていった。
会議室として使われているらしいその部屋の中には、メルナとマテウス、そして見知らぬ年配の男性が三人ほど、長いテーブルを挟み向かい合って座っていた。そこにアランタリアの姿はなく、エステル達がドアを閉める直前に、後ろから一人の中年女性が入室してきた。
「あら、ごめんなさい。ありがとう。」
落ち着いた声と優雅な物腰から、この女性が位の高い貴族であることが推測できた。
全員が着席すると、メルナが穏やかに話を切り出した。
「皆様、急遽お集まりいただきありがとうございます。事情があり、ここにいらっしゃる皆様のご紹介はいたしません。その代わり私のことは全員がご存知でしょうから、今後何かあれば全て私の方にご連絡ください。」
(身分を明かせない事情があるのね。まあ、私達のこともあまり知られたくはないから、これでいいのかもしれない)
エステルは前に座る三人の年配の男性と一人の中年女性に軽く会釈だけ済ませると、再び話し始めたメルナの方に顔を向けた。
「今日お集まりいただいたのは他でもない、二日前に起こった慈善交流会での事件についてです。」
全員が黙ったままメルナを見つめる。
「事前に報告書をお送りしておりますが、庭に侵入してきた魔獣の数は合計三十体。そのうち一体は討伐したものの消滅せず、内部からは少女と思われる人骨が発見されました。」
「なんと!?」
「それが報告書にあった『異常』というわけか…」
男性のうち二人が声を上げる。もう一人は青い顔で俯き、女性は顔色一つ変えずに無言でメルナを見ていた。
重苦しい雰囲気の中、今度はマテウスが口を開いた。
「研究所で調査した結果、黒い部分からは異界の生物に類似した成分が発見されました。しかし完全に異界のものとも言い難い。」
そしてメルナがその言葉を引き継ぐように、低い声でこう告げた。
「つまり、あれは人間と異界の生物とが融合したものかもしれない、ということです。」
会議室の中は一瞬で静まり返り、外を歩く人達の足音までもが聞こえるほどだった。
「メルリアン様、私をお呼びになったのは、それが理由ということですね?」
しばらくして、その静寂を破るように中年の女性が穏やかな口調でそう問いかけた。メルナは頷く。
「はい。調べていただけますか?」
「わかりました。では二日ほどお時間を頂戴いたしますわ。」
「ありがとうございます。」
すると今度は、先ほど黙っていた男性が口を開いた。
「では私の方はいつでも対応できるように準備しておきましょう。弟子は優秀な者を三人ほど呼んでおきます。必要な人数は今の時点でどれくらいですかな?」
メルナはテーブルに置いてあった資料に目を落としてペラペラとめくると、「今の時点ではおおよそ五十人ほど」と答える。
エステルには何の話をしているのか全くわからなかったが、チラッと横目で見たラトはこの状況と話している内容を理解しているように思えた。
「わかりました。増えることもありそうですな。非常事態でしょうから、こちらも他の仕事は断っておきます。」
「助かります。」
そうして再び訪れた沈黙。次にそれを破ったのはラトだった。
「それで、俺達にはどうしろと?」
その瞬間メルナだけでなく、この部屋の全員の視線がラトに向いた。エステルは戸惑いつつも事態を見守る。
「あなたの兵士達に了承を取ってきて欲しいの。何のことかは、わかっているわよね?」
ラトが渋い顔でため息をつく。
「全員が了承するとは限らないぞ。それでもいいのか?」
「構わないわ。でも、それだけ事態は深刻なの。魔獣には使えないはずの能力が発動した。それが何を意味するか、あなただって重々承知でしょう?」
「……まあ、話はしてみる。」
「お願いするわ。」
こうして、エステルにはこの会議室での会話はほぼ意味がわからないまま、少人数での緊急会議は終了してしまった。
エステル達が先に会議室を出ると、閉まったドアが再び開き、メルナが二人を呼び止めた。
「エステリーナ、今日は変な場所に呼んでしまってごめんなさい。でも、これからのためにどうしても必要な時間だったの。彼らがどんな人物なのか、私が口にすることはできない。『契約』でそう決まっているから。でもきっとラトさんは把握したと思うの。」
そう言ってラトを見ると、彼は黙ってエステルに視線を向け微笑んだ。
「だから後は二人で話をしてちょうだい。……今の状況と、これから先に起こりうることを。」
彼女の話し方はいつもと変わらず落ち着いていたが、何か途轍もなく重い決意を感じさせる言葉だとエステルは感じていた。
「わかったわ。後でじっくりとラトさんから話を聞く。ねえメルナ…」
エステルはメルナの手を取り、まっすぐに彼女の目を見て言った。
「無理してない?メルナはいつも抱えすぎているから心配なの。誰よりも考えることもやることも多いでしょう?体も心も疲れているんじゃない?」
だがメルナは笑顔で首を振り、それを否定した。
「そんなことはないわ。これでも私、いい加減なのよ?手を抜くところは抜いているし、それにね…」
そこで彼女は珍しく照れたような顔を見せる。
「ほら、私にはあなた達も、それにマテウスもいるから。」
「メルナ…そう、そっか。うん。よかった!」
「今日は来てくれてありがとう。」
「うん。」
二人は強く握手を交わし、別れを告げる。
会議室に戻っていくメルナの後ろ姿は、使命感と決意に満ちて輝いていた。
外に出ると、ここに来た時よりも日差しは和らぎ、微かに秋を感じさせる風が吹いていた。
「エステル、どこかでゆっくり話そうか。」
「あ、うん。」
ラトはそう言うと、どこに行くのかもう決めていたのか、迷いなく前に進み始めた。
十五分ほどたわいない話をしたりちょっとした買い物をしながらのんびり歩いていくと、帝都の中では比較的珍しい、木造の小さな建物が並ぶ通りに辿り着いた。
「へえ、帝都の中にもこういう場所があるのね。ここには石造りの建物が多いから新鮮だわ。」
ラトは小さく頷くと、家々に目を向けながら言った。
「ここは昔貧しい人達が多く暮らしていたんだが、今の皇帝になってから少しずつ暮らしが改善して、今はむしろここを芸術家や音楽家達に貸して副収入を得ているって聞いてる。多少騒いでも音がうるさくても誰にも文句を言われないから人気なんだと。」
「へえ!そうなのね!」
そう聞くとなぜかその古ぼけた建物も少し洒落たもののように見えてくるから不思議だ。
「あ、あそこだ。行こう、エステル。」
「え?あ、はい。」
ラトが指をさした方に目を向けると、そこにも同じような古い木造住宅が一軒建っていた。
白く塗られた壁は所々塗料が剥がれ、窓には蜘蛛の巣が掛かっている。
「ここは?」
「俺が帝都で借りている家。宿は引き払ったから、荷物はここに置いてるんだ。まあ、元々大したものは持ってないが。」
そう言って鍵を開けて中に入ると、そこは思っていたよりも清潔に保たれ、座り心地の良さそうなソファーと小さなテーブル、そしてベッドが一台置いてあった。
窓は二つあり、部屋の中は意外と明るい。ラトはエステルをソファーに座らせると、ここに来るまでに購入していたお茶をエステルに手渡した。
「喉、渇いただろ?はい。」
「うん、ありがとう。」
瓶に入った冷たいお茶で喉を潤していると、ラトが隣に座った。何気ないその距離に、思わずドキッとしてしまう。
エステルの動揺をよそに彼は深くソファーに腰掛けると、徐に話し始めた。
「さっきの話だけどさ。」
「あ、うん。」
「一昨日見たあの魔獣、いや、あれは…人だったな。」
メルナの庭で対峙した馬のような形をしたあの魔獣は、明らかにその内部に少女が入っていた。そして本来であれば発動しないはずの『能力』を放ったことで、それが魔獣ではないことが確信に変わったのだ。
「そうね。でも、だとしたらあれは何だったのかしら?あんな恐ろしい存在、見たことがないわ。魔人、とは違うのよね?」
「ああ。魔人の本来の姿は、黒い筋が全身に行き渡って体中に黒い靄のようなものを漂わせているって感じだな。あれとは全く違う。」
「じゃあ…」
そこで二人に重い沈黙が訪れる。あの異形の存在は一体何だったのか。エステルが深く考え込んでいると、ラトが暗い表情で口を開いた。
「もしかしたらあれは……魔人化しかけていた人間に、魔獣から滲み出る体液を飲ませたもの、かもしれない。」
「……え?」
すぐにはラトの言っていることが頭に入ってこなかったエステルは、ぼんやりと彼の横顔を見つめた。だが徐々にそれがありありと想像できるようになると、そのあまりにも常軌を逸した行動に吐き気を催す。
「うっ…そんな…」
真っ青になったエステルの顔を心配そうに覗き込んだラトは、優しく背中を摩りながら「大丈夫か?」と声をかける。
「ええ。ごめんなさい。でも、ラトさんはどうしてそう思ったの?」
エステルがそう尋ねると、彼はエステルの背中に手を置いたまま言いにくそうに唇を噛んだ。
「ラトさん?」
「なあ、もう一度、昔の話をしてもいいか?楽しい話じゃないし、エステルにはあまり聞かせたくないんだが…」
目を伏せて苦悶の色を見せる彼の手をそっと握りしめると、エステルは言った。
「聞かせて。辛い時はお互いを頼るって約束したじゃない!私だって、ラトさんに頼られたい、よ?」
「エステル……今だけ、抱きしめてもいい?」
「そ、それは駄目!」
「じゃあキスは?」
「もっと駄目!もう!真面目に話を聞いているのに!」
「あはは!ごめん。…じゃあ、このまま手を握ってて?」
「…うん。」
夕暮れに差し掛かった空から、この日最後の穏やかな光が、窓を通りぬけて小さな部屋を照らしだす。暖かな橙色の光に満ちた空間で、二人はラトの遠い過去の記憶の中へと静かに旅立っていった。