95. 許されざる存在
「エステル、剣を!」
見える範囲だけでも十数体はいると思われる魔獣の群れに集中していたエステルの元に、アランタリアがあの大剣を持って現れた。
だが礼を言う間もなく彼はそこを離れ、招待客らを避難させるために再び屋敷の方へと戻っていく。
「エステル!来るぞ!」
「はい!」
ラトの声に反応して剣を構えると、エステルは動き始めた魔獣達の前の立ち塞がった。
「俺が能力を使ってある程度数を減らす。エステルはそれ以外の奴らを止めてくれ!」
「わかったわ!」
一瞬の笑顔、そしてすぐに前を向いたラトの背中が、いつもよりも大きく見える。
そして、彼は大きく手を振り上げた。
その瞬間、空中に大量の氷の刃が出現し、一気に魔獣達に降り注いだ。木の陰に隠れていた個体にも容赦なくその刃が襲いかかる。
だがそれを巧みに避け魔獣達ははラトの攻撃でさらに興奮し、エステルがいる方へと突進してくる。
「精霊さん、どうか力を貸してください!」
厳しかった訓練を思い出しながら、短時間で極限まで集中力を高めると、エステルは剣に大量の光を纏わせて、襲いくる中型の魔獣達を次々に倒していった。
一体、二体、三体……
そして十体目を倒した時、その後ろからゆらりと大きな影が姿を現した。
「何、あれ?」
それは大きさだけで言えば、あの高地で見た魔獣よりも少し小さかった。だがその見た目は、吐き気を催すほど衝撃的で目を背けたくなるものだった。
凛々しい馬のような体格のその魔獣は、色は若干紫色が混じった黒、体中からはやはり黒っぽい液体がボトボトとこぼれ落ち、顔には八つの濁った紫色の目が円を描くように配置されている。さらに蹄のように見えていた部分には、太く鋭い爪が三本ずつ生えていた。
だがエステルが最も受け入れ難かったのは、大型の魔獣によく見られるその不快な姿ではなく、四本の牙が剥き出しになった巨大な口の中に、明らかに少女と思われる黒い顔がギッチリと埋め込まれていたことだった。しかもその少女の黒い目は大きく開かれ、こちらを憎々しげに睨みつけている。
「顔がある…」
「ラトさん、あれ、何ですか!?」
横に並んだラトを見ると、彼の顔にも困惑の表情が浮かんでいた。乱れた髪からは汗が流れ、手は動きを止めている。
「わからない。ただ言えるのは、あれは絶対にこの世界に存在してはいけないやつだ。」
「……うん」
二人はゆっくりと動き始めた異形の存在を前に、どう動くべきか迷っていた。だがその直後、その魔獣もどきは恐ろしい速さで移動し始めた。
「来る!!」
ラトの鋭い声にエステルも再び剣を構える。だがそれよりも一瞬早く、魔獣の爪が剣を叩き落とした。
「きゃあっ!!」
「エステル!?」
手の痛みは多少あるものの怪我はしていない。急いで体勢を立て直すと、落ちた剣を素早く拾い上げて構え直した。そしてエステルが剣に光を引き寄せている間に、ラトが見たこともないような能力を次々に繰り出していく。
地面が割れ、土が壁になって魔獣を遮る。その間に割れた地面の周りから何十本もの金属光沢を持つ棒が上に伸び、一気に赤く燃え上がったかと思うと、今度はその鋭い先端が勢いよく魔獣に突き刺さった。
だがあまり深くは刺さらなかったのか、ギギギギという耳を塞ぎたくなるような怪音を響かせながら、魔獣はそこから逃れて再びエステル達に襲いかかる。
そして、慌てて防御の姿勢を取ったエステルの前で両脚を高く振り上げたそれは、両端が裂けるほど大きく口を開き、中に入っている少女の顔が、言葉にならない叫び声を上げた。
「あああががががごごごごごおおっ……!?」
すると突然空が真っ暗になり、エステルのすぐ近くにある木の天辺に、バリバリバリッ、という轟音と共に黒い稲妻が落ちた。
エステルは叫ぶことすらできずに地面に倒れこみ、経験したことのない揺れと衝撃から必死に身を守る。
そして再び顔を上げたその時、目の前に、あの少女の顔があった。
本来ならばそれは、失神してもおかしくないほど恐ろしい光景のはずだった。だが、にいっ、と歯を剥き出して笑う少女の顔を見た瞬間、エステルは不自然なほど冷静さを取り戻していた。
(ああ、憎しみや不満に囚われることは、こんなにも哀しいことなのね……)
「名もなき神よ、どうか哀れなるこの存在に、あなたの慈悲の光をお与えください…」
そしてこれまで一度も口ずさんだことのない『祈り』の言葉を口にしたエステルは、無意識のうちにその黒く濁った少女の頬に手を伸ばした。指が凍りつきそうなほど冷え切ったその頬には、よく見ると細い涙の跡が残っていた。
二人の間に、数秒の無音の時間が流れる。
だがその直後、悲しみに満ちた少女の顔が、ドロドロと溶けて崩れ始めた。
「ぎゃあああああっ……!!」
先ほどとは違い、確実に少女のものと思われる叫び声が辺りに響き渡る。そしてエステルを避けるように体をくねらせながら後ろにさがると、少女の顔を飲み込んだその魔獣は、背面から地面に倒れこんだ。
ドーーーーン……
鈍い地響きの音が収まると、周囲に静けさが広がっていく。
「エステル、立てるか?」
ふと見上げると、呆然と地面に座り込んでいたエステルに、ラトが上から手を伸ばしていた。頷く気力も体力もなく、ただ彼に引っ張られるままに立ち上がると、消滅せずに地面に倒れている黒い塊に目をやった。
「ラトさん、この魔獣、どうして消えないの?」
「わからない。だが、おそらく……人間だったから、だろうな。」
「やっぱり、そうなのかな。」
エステルは気付いていた。いや、あの最後の瞬間に気付かされた。体中が拒絶したくなるようなこの生き物は、間違いなく元は人間だったのだろうと。
魔人ではない。だが魔獣とも言い難い。
あの少女の顔を思い出す度に、エステルの背中にすっと冷たいものが通り抜ける。だが逃げるわけにはいかない。その正体をどうしても確かめたい。
勇気を振り絞って黒い塊に近付くと、近くにしゃがんでじっくりとその姿を確認する。
するとそこでエステルが目にしたのは、黒い何かに覆われた数本の細く白い棒のようなものだった。
(あ、そうか、これはきっと人の指の…)
何が起こってこうなったのかはわからない。だがこの黒い物体の中には間違いなく、あの少女の骨だけが残されている。
「ラトさん、私、マテウスさんとメルナを呼んできます。」
「ああ。…大丈夫か?」
エステルを心配する彼の顔もまた、少し青ざめているように見える。
「ええ。とにかく、急いで二人を呼んでこないと。」
「わかった。」
後ろを振り返ることなく屋敷の方に歩きだしたエステルの手は、冷えて小刻みに震えていた。
― ― ―
《聖道暦1112年8月30日深夜》
リリアーヌは焦っていた。
永遠に近い命を持つ魔人という存在。人間の時よりも能力は弱まったが、その代わりに壊れにくい体と善悪や常識に縛られない自由な精神、そして魔獣を思うままに操り増殖させることのできる力を得た。
だがそんな自分ですら、ままならない存在がいる。
『契約』により『彼』に縛られ、与えられた課題には困難が伴う。
だがそれでも、『異界』が開き、永遠に続く甘美なる憎悪の世界が生まれるのならば、多少の面倒ごとや支配は甘んじて受け入れる。
そして自分にはあって『彼』には足りないもの、それは時間だ。
『彼』が完全な魔人になるためには、どうしても『異界』を開かなければならない。
しかしあの魔獣戦争の時に魔人の多くをニコラに殺されてしまったこと、さらにリナンの巫女による『祈り』のせいで、残された魔人達の力が三十年近く封印に近い状態にされていたことが、リリアーヌ達の足枷になっていた。
その後『祈り』の効果が薄まり、徐々に力を取り戻してからは、貴族など能力の高い人間達に異界の生物が含まれた薬をばら撒き、密かに魔人を増やすことができた。ところがその企みはそこから思うように進展せず、ここ一、二年は僅かに数は増やせたものの、満足する人数には届かなかった。
確かに、異界の生物を混ぜた薬には効果があった。だが配合された成分が強すぎるせいで、魔人に変化する前に心身が破壊されてしまう者の方が多かったからだ。
暴れるだけ暴れて魔人化しない、という人間が多く出現したことで、帝国やその周辺国に混乱を生むことはできたが、その隙を突くように進めていた皇帝暗殺は失敗に終わってしまった。
結果が思うように出ないそんな日々が続く中、リリアーヌはふとした出来事から活路を見出すことになる。
それは二ヶ月ほど前、帝国以外の国で実験的に行っていた『虫混入』による魔人化実験の報告が届いた時のことだった。
「では、食べ物に『虫』の成分を混ぜただけでも、多少の変化があったと?」
「はい、リリアーヌ様。時間はだいぶかかりましたが、アンセラという小さな町では、憎しみを強く持った子供達が魔人化一歩手前の状態まで変化しておりました。」
「なるほど。若い子にはかなり効果があったようね。…で、その子達は今どうしているの?」
「は、はい!何か不測の事態が起こったようで、彼らは全員魔人化せず…」
「は?おかしいわね。彼らはまだ生きているの?」
リリアーヌは語気を強め、その白く美しい体からは黒い靄のようなものが噴き出した。すると報告に来た男は一気に怯えたような表情を見せ、震える声で答えた。
「は、はい!はい!ですが、その後の消息は知れず……も、申し訳ございません!」
「ふうん、そう。もういいわ。さがって。」
「し、失礼致します!!」
青い顔の男が部屋を出ていくと、リリアーヌは椅子に座り考え始めた。
「薬の成分では強すぎた、か。それならば時間がある程度かかっても、子供達の好む食べ物に混ぜて異界の力を広めていく方が良さそうね…」
こうして作らせた菓子が徐々に貴族の子供達に人気となり、思惑通り帝国中に広めることができた。この甘く希少なチョコレート入りの菓子は、不満を抱えた貴族の子供達の甘えた精神を順調に蝕んでいき、彼らは魔人化は間違いないという状態にまで変化を遂げた。
リリアーヌはさらに彼ら、彼女らのうち能力の高い者数人に対し、特別な実験を行った。そして今回そのうちの一人が見せた力は、リリアーヌの予想を遥かに超えた素晴らしいものだった。
「ふふふ。これでようやく『彼』に良い報告ができそうね。」
ベルハウス家の慈善交流会、そこで彼女が残した爪痕は非常に大きかった。残念ながら今回は殺されてしまったが、元々お試しで送り込んだ不完全体だったので、特に問題はない。
「さあ、これで準備は万端ね。ニコラ、あなたにはこれからたくさんの絶望を見せてあげる。だからお願い、早く私のところまで堕ちてきて……」
寒気を覚えるほど美しい笑みを浮かべるリリアーヌの頬には、何本もの真っ黒な筋が、まるで地を這う蛇の群れのように蠢いていた。