94. 若さの暴走
《聖道暦1112年8月2日夜》
その日の晩、エステルとラトはマテウス、アランタリアと共にメルナの書斎に集まっていた。
「遅い時間にごめんなさい。でもこの話は早い方がいいと思って。それにここは安全だから。」
(ここは安全…つまり城内ですら危険ということなのかしら?)
エステルの胸に小さな不安が芽生える。
「まず、ことの発端は私の友人からの相談だったの。」
そう言ってメルナが話してくれた内容は、驚くべきものだった。
メルナの友人の妹が招待されたお茶会。そこに持ち込まれたチョコレートの入ったカップケーキにより、十代前半の少女達の様子がおかしくなっていった。
その後もすぐに別の家でのお茶会に呼ばれて向かうと、そこでも同じようなことが起こった。そして日を空けずに再び最初の友人の家に招かれた際には、明らかに妹の友人も、前回のお茶会に参加していた少女達も様子がおかしい。ちょっとしたことで言い争いになったり、手が出たりするような喧嘩にまで発展したそうだ。
「それでね、その子の妹さんが持ち帰ってきてくれたケーキを調べてみたら、チョコレートの味で隠していたけれど、異界の生物の痕跡が確認されたの。」
「そんな!」
エステルの驚く声に、マテウスが反応した。
「本当なんだよ。ナイト君の方でも調べてもらったし、うちの研究所でも調べてみたけれど、やはり間違いはなさそうだ。」
「ええ、そうですね。こちらでは詳細まではわかりませんでしたが、明らかに能力を与えた時の異常な反応はありました。」
アランタリアも頷いてそう話す。メルナは二人の説明を聞き終えると、エステルの方に顔を向けて言った。
「実はこの件以外にも、若い貴族の子供達が問題を起こしたという報告をいくつか受けているのよ。魔人化したわけではない。でも、その手前まで進んでいるのではないかと、私達は考えているの。」
エステルは息を飲んだ。そうだとしたら、かなりの人数が魔人化一歩手前の状態になっているということだ。しかもそうした現象が、薬よりも手を出しやすい『お菓子』という形で広まっていると考えるとより恐ろしい。
「エステリーナ、あなたは何度か魔人化を止めたことがあったわね。経典にもそれに近い効果を持つ祈りがあったとマテウスに聞いているわ。」
メルナの期待の眼差しが、自分に向けられている。エステルはぎこちなく頷くと口を開いた。
「ええ。一度魔人化しかけた女性に試したら、その時はうまくいったの。でも相手に祈りの言葉が届かない遠隔での『祈り』だと、効果が出るまでにかなり時間がかかると思うわ。」
ルークにかけた『守りの祈り』ですら十日もかかったのだ。増え続ける魔人化一歩手前の若者達を離れた場所から正気に戻すには、時間が圧倒的に足りない。
エステル以外の四人はそこですっかり考えこんでしまった。
(触れることができれば一瞬なんだけれど…でも、そんな若い子達に出会う機会も、ましてや触れ合う機会なんてなかなかないし…)
エステルがそんなことを考えていると、アランタリアが何かを思いついたのか、パッと顔を上げて言った。
「そうだ、あれがある!」
「あれって?」
みんなの視線が彼に集まる。アランタリアは久々にあの妖艶な笑みを浮かべて言った。
「ほら、あれですよ。毎年恒例の寄付金集めの…」
「まあ、アランたら失礼ね!あれは我が家が毎年開催している慈善活動の一つなのよ!ベルハウス家主催の交流会をそんな風に言うなんて!」
珍しくメルナが憤慨している様子を面白がって見ていると、困った顔のアランタリアが謝りながら話を続けた。
「ああ、すみません。とにかく、あの交流会なら帝国中の貴族や能力の高い商人達が数多く集まるはずです。人脈作りをしたい人なら誰もが参加したがる会なんですから。」
メルナは機嫌を損ねつつも、その意図を理解してこう言った。
「つまりそこに、疑惑の若者達も招待しろ、と?」
「ええ。若者達にも何か楽しめるような企画を準備して、ご家族の皆様でお越しくださいと書き添えて招待するとか…」
その後あれこれと相談しあった結果、メルナが夏の交流会をこの屋敷の庭で開くこと、怪しい菓子の影響を受けている疑いがある家には必ず招待状を送ることなどが決まった。
「エステリーナ、そこにあなたも参加して欲しいの!対象の人物の近くにいれば、祈りの効果は出やすいのよね?」
「ええ。」
「そうと決まったら、早速準備を始めなきゃ!交流会は八月の終わりに開催しましょう。そうだわ、エステリーナのドレスも準備しなきゃ!ふふふ、腕が鳴るわね。」
最後の発言は明らかに目的からずれているような気もしたが、エステルはあえてそれには触れず、曖昧に微笑んだ。
(どこまでできるかわからないけれど、頼りにされているなら頑張ってみよう!)
重い話から解放された反動なのか、ふと気付くとメルナ、アランタリア、マテウスの三人はその交流会の話ですっかり盛り上がっていた。
「エステル、あんまり気負うなよ?」
すると隣の椅子に座るラトが、静かな声でエステルにそう囁いた。
「え?」
「うまくいくかもしれないし、騒動が起こるかもしれない。もちろん準備は徹底するが、思うようにいかなくても、その場その場で最大限できることをすればいいんだから、な?」
「ラトさん…」
その言葉は、彼が乗り越えてきた多くの苦難と重ねてきた年月の重みを感じさせるものだった。
(そうね、肩に力が入ったままだとうまくいくものもいかなくなる。ラトさんの言う通りだわ!)
優しく見つめてくる彼に、エステルは微笑みを返してこう言った。
「ありがとう。…あなたが隣にいてくれて、本当によかった。」
「…!」
するとその頬はほんのりと赤く染まり、ラトは「おう」とだけ言って前を向いてしまった。
こうして互いを信じて支え合う言葉と心が、少しずつ二人の間に降り積もっていくのを感じる。そのことが何より嬉しくて、エステルはしばらく彼のその照れた横顔をじっと眺めていた。
― ― ―
《聖道暦1112年8月30日》
ベルハウス家主催の慈善交流会は、まだまだ夏の勢いを強く感じる、暑い午後に始まった。
エステルはほとんど入ったことはなかったが、ベルハウス家の敷地内には本邸以外に来客用の建物が存在する。
本邸とさほど変わらない大きさのそこには、一階部分のほとんどを使った広々としたホールがあった。また二階と三階には来客用の寝室が二十ほども並んでおり、こうした大きな催し物が行われる時には臨時の使用人を雇って対応しているらしい。
「宿泊のお客様もいらっしゃるから、準備と片付け合わせて三日ほど雇うのよ。お給金は通常よりも高いから、毎年人には困らないの。」
とメルナは言っていた。
午後のまだ日が高い時間帯は、庭に様々な遊びや飲食、買い物を楽しめるような十個ほどの屋台を準備して来客を待った。若い人達でも楽しめるようにと企画されたその催しはとても好評で、百人近い人々が集まる中、どの屋台でも明るい笑顔と楽しそうな笑い声が聞こえていた。
ちなみにここでの売上は全て、神殿を通して貧しい人達が暮らす地域の診療所や孤児院、養老院などに寄付されることになっているらしい。
だが日も傾き始め、大人だけの夜会が始まろうとしていた頃、ついに事件が起きた。
メルナはホールの準備のため庭にはおらず、アランタリアはエステルから離れた場所で知人らしき男性と話しこんでいた。ラトは庭の外の様子を見守るのが今日の役目だったため、やはりこの場にはいない。
つまりエステルだけが庭の様子を把握できるという状態だったその時、屋台で遊んでいた若者の一人が突然その骨組み部分を足で蹴り始めたのだ。
何をやっている!と親に叱られても制止されても、少年はその行動を止めようとしない。むしろそれはエスカレートし、他の若者達も混ざって辺りに物を投げたり、能力を発動するなどのさらに異常な行動へと変わっていった。
すると今度は別の少女が能力を使って庭の木々に火を放ち始め、周囲の人々が騒ぎだした。もちろん火をつけているのは生きている木なのでそう簡単に燃え広がりはしなかったが、プスプスと音を立てて燻されていく木々が、エステルの目にはあまりにも痛々しく見えた。
どうにかして止めなければとエステルが動き出したその時、鋭い声が庭に響き渡った。
「あなた達、一体何をしているの!?」
準備のため庭から離れていたメルナが戻ってきたのだ。彼女は手を大きく振ると、黒い煙を出している木々に勢いよく大量の水を放出する。事態を呆然と見守っていた人々も動き始め、『水』能力を使って同様に消火をし始めた。
暴れていた数人の若者達はその後あっさりと大人達に拘束されたが、状況はさらに悪化していく。
動揺が広がる庭の端から、今度は黒い何かがこちら側にやってくるのが目に入った。人々も徐々にその存在に気付き始め、そこは一気にパニック状態に陥った。
「きゃあ!?あれは何!?」
「魔獣か?まさかこんな場所に…」
「誰か、誰か助けて!!」
エステルは急いでドレスの下に隠し持っていた短剣を手に取ると、黒い何かに向かって走り出した。
だが近付くにつれてそれが一体ではないことに気付き、少し手前で立ち止まった。
(隠れている、今見えている魔獣だけではない。もっといる!)
短剣では心許ないが、今はさすがにこれしか持っていない。じりじりと距離を詰めてくる一体をまずは倒す、そして…
「エステル!!」
「あ、ラトさん!」
だが横から走ってきたラトに気を取られた瞬間、目の前の魔獣がいきなりエステルに突進してきた。
「きゃあっ!?」
可愛い叫び声を上げつつもエステルは無意識に剣を振っていた。どうやらその一振りが喉元を深く切り裂いたようで、魔獣は突進してきた勢いのままエステルを飛び越え、砂のように霧散して消えていった。
「うわあ、今のは、何というか…」
おそらくラトも同じことを考えていたのだろう。怖がっている態度や声と、容赦のない攻撃が全く一致していないと。
(い、いいのよ!それだけカイザー様からの特訓が身に付いたということだもの!)
この日のためにほぼ毎日のように鍛え続けてきた体は、以前とは比べ物にならないほど機敏に、そしてしなやかに動けるようになっていた。
「怪我はないか?」
「ええ、大丈夫。それより、あれを見て。」
「ああ。まとめて倒すしかないか。」
真剣な表情を見せるラトの腕に、エステルはそっと手で触れた。彼はゆっくりと振り返る。
「一緒に戦うわ。だから、無理はしないで。」
「もちろん。…エステルが隣にいてくれて、俺も嬉しい。」
「ふふっ!そうでしょ?」
「あれ、そういう反応?まあ、いいか。」
そうして前を向いた二人は、じわじわと増えていく魔獣達の影を前にしながらも、恐れではなく共に戦えることの喜びに、その心を震わせていた。