93. 汚染
《聖道暦1112年7月26日》
伯爵家の次女として生まれたシェイラは、幼い頃からずっと人見知りだった。しかし一人しかいない親友のアンナは社交的な性格で、時々シェイラを彼女が開く『小さなお茶会』なるものに招待してくれる。
もちろんアンナに会えるのは楽しみなのだが、知らない人と話すことになる茶会自体は、あまり好きではなかった。
だが参加しなければアンナが悲しむ。そう思うとなかなか断ることはできず、仕方なくこの日も無難なドレスを着て彼女の家にやってきたのだった。
「シェイラ!待っていたわ!ほら早く、こちらに来て!」
いつものように彼女の屋敷の広い庭に出ると、そこには既に四人ほどの同年代の女の子達が座って待っていた。
「遅くなって、ごめんなさい。」
「いいのいいの!それより早く来て!すごいお菓子があるのよ!」
すごいお菓子って何だろう?と思いながら彼女らが待つテーブルに向かうと、そこには色とりどりの甘そうな菓子が並び、女の子達の手には花柄の可愛らしいカップが握られていた。
「ずいぶんたくさんお菓子を準備したのね。いつもより多くてびっくり!」
シェイラが小さな声でそう言うと、アンナが嬉しそうに頷いた。
「そうなの!お父様にお願いしたら、たくさん取り寄せてくれたのよ?でもね、今日の一番のお勧めは、あれよ!」
そう言って彼女が指さした場所に目を向けると、焦茶色の小さなカップケーキだった。上には白いクリームがたっぷりと載せられていてとても美味しそうだ。
「今日初めて来たアメリアさんが持ってきてくださったのよ!いい香りなの、早くこっちに来て、一緒に食べましょ!」
「う、うん。」
初めての人かあ、とシェイラが気後れしていると、アンナはぐいぐい手を引っ張ってテーブルに連れていく。
そして彼女はもじもじとしているシェイラを元気に紹介すると、早速メイドの一人がカップを渡してくれた。
「お茶は飲み始めていたけれど、お菓子を食べるのは待っていたのよ?さあ、いただきましょうか!」
アンナの一声で数人のメイド達が一斉に動き始めた。アンナの家は侯爵家、メイド達の数も多い。次々に少女達に手渡される菓子の山を見て、シェイラは目を丸くしていた。
(どうしよう、こんなに食べられるかしら?)
よく見ると皿の上にはあの焦茶色の菓子も載っている。この菓子を持ってきたアメリアという少女の方をチラリと見ると、勝気な顔に楽しそうな表情を浮かべて隣の少女と笑い合っていた。
(うーん、付き合いもあるから、こちらから食べた方がいいのかしら?でも、食べたいものは最後に残しておきたいし…)
悩んだ挙句、結局違う菓子から食べ始めたシェイラだったが、その何気ない決断が、後に彼女をとある危険から救うこととなった。
― ― ―
《聖道暦1112年7月30日》
メルナの元に珍しく友人から連絡があったのは、七月も終わりに近い雨の日だった。
「ユリア、久しぶりね。突然会いたいだなんて連絡が来たから驚いたわ!」
その日待ち合わせをしていたのは小さなカフェだった。ユリアと呼ばれた女性は周囲を気にするそぶりを見せながら、声を低くして言った。
「うん、久しぶり。あの、ここじゃ、ちょっと……」
メルナはああ、と言って手を挙げると、奥からやってきた女性に指示を出し、「大丈夫」と言って席に着かせた。
「え、でも」
「ここは私が経営しているカフェの一つだから大丈夫よ。今日は雨でお客様も少ないし、臨時休業にしたから。店長には午後から給料そのままで休暇よと伝えたら、むしろ喜ばれたわ。」
そう話している間にも、数人いた客達は徐々に席を立ち、会計を済ませて店を出ていく。
「メルリアン、ごめんなさい。迷惑をかけて。」
「いいのよ。それより、人に聞かれたくない話なんでしょう?」
メルナがそう言うと、彼女は言いにくそうに話し始めた。
「ええ。…実は妹のシェイラのことなんだけれど。」
「妹さん?そういえば以前に一度会ったことがあるわね。その時は十二歳だったかしら?」
「そうね、今は十四歳になったわ。歳が離れているから、兄と私はつい妹に過保護になりがちで……そのせいかあの子はとても人見知りなのよ。」
そこでお茶が運ばれてきて、二人の会話は中断する。
「ありがとう。後はこちらでやっておくから、ゆっくり休んでちょうだいね。」
「ありがとうございます!」
店長はそう言うと、嬉しそうにその場を離れた。
「それで、妹さんに何か?」
ユリアはそこで一瞬躊躇ったが、持っていた少し大きめの鞄の中から、小さな箱を取り出してテーブルに置いた。
「最近シェイラがね、あの子の親友のアンナという子のところによくお茶会に行っていたの。それが少し前までは人疲れで帰ってくる程度だったのに、ここ最近はもう行きたくないって言い出して…」
その後も話を聞いていくと、どうやらそのお茶会に参加している同年代の少女達の様子が、会う度におかしくなっていくのだそうだ。そしてそれは、あるお菓子がきっかけだったと言う。
「そのお菓子が、これなの。」
そう言ってユリアは先ほどテーブルに置いたあの箱を開けた。
「チョコレートのカップケーキね。」
「ええ。チョコレートは帝国でもなかなか手に入らないから、お茶会ではみんな大喜びで食べたらしいの。でも、シェイラはこれがただのお菓子じゃない気がすると言うのよ。」
そういえばシェイラと以前会った時、彼女は不思議な勘を持っていると感じたことがあった。
「あの子は少食だから、このお菓子は食べきれずに持ち帰ってきていたのだけれど、これがお茶会に出されるようになってからみんなすごく攻撃的になってきているし、アンナに至っては別人のようになってしまったって言うの。」
メルナは箱の中の干からびかけたケーキを見つめて言った。
「そう。実は私も最近気になる噂を聞いたのよ。貴族の家の若い子達が、突然店や夜会で暴れだすことがあるって。ねえユリア、このお菓子、預かって調べさせてもらってもいいかしら?」
その言葉に、ユリアの目が潤んだ。
「ありがとう、ぜひお願いしたいわ!シェイラがアンナのことをとても心配していて、憔悴しきっているの。これが何かの役に立てば、私も嬉しいわ。」
「それと、シェイラさんにはしばらくお茶会に行かないようにと伝えてもらえる?」
「ええ。本人も行く気はないようだけれど、改めて伝えておくわ。それじゃあ、お願いします。」
メルナは微笑みながら頷くと、妹を思って不安げな表情を見せるユリアを静かに見送った。
― ― ―
《聖道暦1112年8月2日》
エステルはこの日、久しぶりに研究所を訪れていた。マテウスから渡したいものがあると連絡が来ていたからだ。
(はあ、少し気が重いわね。シルフィさんとはあれ以来会っていないし、今日は隣にラトさんもいる)
チラリと横を見上げるとその視線に気付いたのか、ラトが笑顔を見せた。
「どうした?手でも繋ぎたくなったか?」
「もう!違います!」
ラトはふむ、と顎に手を乗せて大袈裟に立ち止まると、エステルに顔をグッと近付けて言った。
「じゃあ、何か心配事がある、とか?」
エステルは一瞬言葉に詰まったが、近付いてきたラトの顔を軽く押し返すと小さく頷いた。
「心配ってほどではないけれど…ほら、私あれから一度もシルフィさんと会っていないでしょう?前回ここに来た時、色々あったから……」
一ヶ月ほど前に最後に研究所を訪ねたあの日、ラトとの意味ありげなやり取りをシルフィに目撃されている。そしてエステルもまた、彼女がラトに好意を抱いていることを確信している。
だがラトは、その日のことなど気にも留めていなかったらしい。
「あー、そういえばそんなこともあったな。」
「もう、ラトさんたら!シルフィさん、きっとあなたのことが好きなのよ?」
「どうでもいい。好きと言われたわけでもないし、万が一告白されたとしても断るだけだ。…でも、エステルが妬けるっていうなら、俺は中には入らないようにするけど?」
そう言ってニヤリと笑みを浮かべるラトが、今日はいつになく小憎らしい。
「べ、別に平気です!それに今日は長居するつもりもないし。」
エステルはぷいと横を向くと、ラトを置いて歩きだす。だが気付けば当たり前のように彼は隣を歩いていた。
「じゃあ、隣にいるよ。」
その穏やかな一言に、自分への深い想いが詰まっている、そんな気がして、エステルは歩きながら彼の横顔を見上げた。
(ああ私、どうしようもないほどこの人が好きなんだ)
孤独も辛い過去も彼が抱えこんできた長い年月や苦しみも、全部ひっくるめて愛おしいと思う。
エステルは再び前を向くと、朝の眩しい日差しに目を細めながら、研究所の門をくぐった。
「やあやあ、来たね!」
「マテウスさん、おはようございます。」
研究所の中に入ると、いつものようにガヤガヤと研究員達が動き回り、話し合っている姿が見られた。
マテウスは彼らの横を通り過ぎ、小さな部屋に二人を通すと、箱に丁寧に入れられた経典と母の日記二冊を、エステルに手渡した。
「はい、これ。お返しするね。長い間貸してくれてありがとう。」
「いえ!こちらこそ隅々まで確認して翻訳までしていただいて、ありがとうございました。」
エステルは箱を胸の前でしっかりと抱きかかえながら笑顔を見せた。するとマテウスは箱の中を指さして言った。
「それとこの中に、その…お母様の日記の翻訳も入れてある。」
「え!?」
突然の話に驚いていると、マテウスは気まずそうに頭を掻きながら説明をし始めた。
「いや、私も迷ったんだけどね。でも、もしかしたら何か経典に関わることが日記の方にも書いてあるんじゃないかと思ったら居ても立っても居られなくなって、翻訳してしまったんだよ。」
「な、なるほど。」
確かに日記というのは個人的なものだ。だが母を知るための唯一の手がかりでもある。翻訳してくれたことは素直に嬉しかった。
「それに、お父上のことも書いてあるようだよ。よかったら、今夜にでもゆっくり読んでみるといい。」
「父のことが!?…ありがとうございます!」
エステルは箱の中身をじっと見つめると、何度も小さく頭を下げて礼を言い、その部屋を離れた。
「よかったな、日記、読みたかったんだろう?」
研究所内の廊下をゆっくり進んでいると、ラトが優しくそう話しかけてくれた。エステルは少しだけ彼の前を歩きながら、「うん」と大きく頷く。
「帰ったら」
早速読んでみる、と言おうとしたその言葉は、目の前に現れた見慣れた人影を前にすっと消えていった。
「メルナ?」
「あら、エステリーナ!」
なぜここに?と疑問に思ってから、婚約者のマテウスがいることを思い出す。
「マテウスさんに会いに来たの?」
「ええ。目的は仕事だけれどね。」
「そうなの?」
そこでメルナは表情を曇らせる。
「ねえエステリーナ、この件に関して、またあなたの力を借りることになりそうなの。今夜話せるかしら?もちろん、ラトさんも。」
深刻そうな雰囲気を感じた二人は、チラッと顔を見合わせてから黙って頷いた。メルナは口角を僅かに上げると、それではまた後でとだけ言って奥へ入っていった。
「何があったのかしら?」
「さあな。でも何が起こっても、一緒に立ち向かえるなら大丈夫だろ。」
「ラトさん…うん。」
彼の言葉が、不安に覆われそうになっていた心を明るく照らす。
(うん、一緒に立ち向かえるなら、きっと大丈夫)
以前と違う二人の在り方が、力強く二人の背中を押している。エステルは再びまっすぐに前を見つめると、明るい研究所の外へと歩みを進めていった。