91. メルナの危機
《聖道暦1112年7月16日》
朝、じめじめとした暑さで目を覚ましたエステルは、ベッドの違和感に気付いて寝返りを打った。
「…は、え!?な、何してるのラトさん!?」
すると目の前で笑顔のラトが、ベッドの上に肘をついてこちらを見ていた。
「おはよう、エステルちゃん!何してるって、早朝特訓のために起こしにきたんだよ。昨日、約束しただろ?」
「だ、だからって」
さらなる抗議の声を上げようとしたその時、彼の人差し指がエステルの鼻先に突きつけられた。
「何度も声、かけたけど。それでも全く起きなかったエステルちゃんが悪い。」
「むうう…」
昨日の特訓で疲れ果てていたせいかかなり深く眠っていたのだろう。どうやら彼は本当に、何度も声をかけてくれていたらしい。
「まあ五体も巨大魔獣を倒せば、さすがにお疲れだよな。…で、どうする?疲れてるなら、今日はこのまま一緒にベッドの上でのんびりしようか?」
ラトの色気を含んだ表情が、まるで心を試すかのようにエステルの顔に近付く。ついドキッとしてしまった顔を見られたくなくて慌ててベッドを降りると、エステルは勢いよくドアを指さした。
「し、しません!!すぐに支度しますから、外で待っていてください!!」
彼は怒ったエステルに全く動じる様子もなく、ゆったりと笑みを浮かべてベッドを降り、はいはいと言いながら楽しそうに部屋を出ていった。
「もう!これじゃ前と変わらないじゃない!!」
エステルは心臓に悪いわと愚痴をこぼしつつ、早朝特訓の準備に取り掛かった。
外に出ると、すでにラトが万全の態勢で待っていた。
メルナの屋敷は敷地が広く、外からは見えにくい場所も多い。今回はそんな場所の一部をお借りして、ラトが投げつけてくる様々な物体を剣で防ぐ練習をすることになっていた。
「じゃあ、お願いします!」
「ああ。あ、その前にこれ。」
「これ…お茶ですか?」
ラトが手渡してきたのは、瓶に入った綺麗な赤茶色の飲み物だった。その瓶は程よく冷えていて、エステルは自分の喉の渇きに気付く。
「うん。宿の近くにいい店があってさ、美味しかったからエステルにもお裾分け。体動かす前にしっかりと水分、取らないとな。」
「ありがとう、ございます…」
おう!と元気に返事をすると、ラトはあっさりとエステルから離れる。こうして触れないでいるのも、彼が自分からすぐに離れてしまうのも、何だか少し寂しく感じる。
(ダメダメ!そんな弱気でいたらすぐ前の状態に戻ってしまうわ!せっかくここまでやってきたんだもの、納得いくまで頑張らなくちゃ!)
新しい関係となってから、彼はしっかりと優しい友人として振る舞ってくれている。時々今朝のような小さな事件は起きるが、二人の友人関係は概ね順調だ。ラトはそれなりに適切な距離を取って行動してくれるし、昔のようにいい加減なふりもしない。
それでも時々、この何気ない距離がひどくもどかしい。
恋人同士の関係だった時よりも今の方が、彼を無意識に目で追ってしまう。あの大きな手や柔らかな髪につい触れたくなってしまう。
(こんな上辺だけの『友人』関係なんて、結局意味はなかったのかしら…)
そんな不安が度々エステルの心にふっと現れては消えていくが、やはりどうしても今は「甘えたくない」「甘えてはいけない」という気持ちの方が先に立つ。
エステルは気持ちを切り替えようと自分の頬を両手でパンと勢いよく叩くと、彼に背を向けてさらに距離を取った。
そこからは、怒涛の訓練が始まった。
ラトは次々に水、氷、岩、植物、時には巨大な魔獣の幻まで創り出し、容赦なくそれをエステルに投げつけた。体に当たりそうになっても彼は庇うことも助けることもしなかったが、それが素直に嬉しくて、きつい訓練も苦にはならなかった。
(ラトさんが私を信頼し始めてくれているのがわかる。もっともっと強くなって、早く彼の横に並べるようにならなきゃ!)
しばらく訓練を続けていた二人だったが、一時間ほど経ったところで遠くからエステル達を呼ぶ声が聞こえ、一旦訓練は中断することとなった。
「エステリーナ様、ラト様、大変でございます!メルリアン様が貴族会に呼び出されたと、今連絡が!」
息を切らせながらそう報告をしてきたのは、この屋敷の執事レイクだった。エステルは彼に駆け寄り詳しい状況を尋ねる。
レイクにしては珍しく動揺してはいたが、話の内容はどうにか理解できた。
どうやら昨夜、とある公爵家の長男がレストランを出たところで殺されるという事件が起きたらしい。犯人はまだわかっていないが、その事件にメルナが関与しているのではないかという噂が一気に広まってしまったらしく、その調査のために彼女は貴族会という特別な組織に呼び出されてしまった、ということだった。
「そんな!メルナに限ってそんなこと…!」
「エステル、落ち着け。レイクさんもそれは十分わかっているだろう。それよりも貴族会ってのが面倒だな。」
ラトの声から緊張感が伝わってくる。エステルはより不安が募り、彼に詰め寄るように問いかけた。
「面倒って…メルナ、大丈夫なの!?」
そんなエステルを宥めるように手を前に出しながらラトは続けた。
「いきなり断罪されたりするわけじゃないから心配するな。ただ貴族会ってのは建前上、帝国内の不正や脅威となるものを監視して必要に応じて調査をするっていう組織なんだが、その内情は皇帝の権限に縋って甘い汁を吸いたい奴らか、反皇帝派の貴族が実権を握っている状態だ。あの強かなメルナであっても、多少は苦戦するかもな…」
「と、とにかく、着替えてメルナからの連絡を待ちましょう!レイクさん、マテウスさんには連絡がつきますか?」
レイクは少し冷静さを取り戻したようで、ゆっくりと頷いた。
「はい、先ほどこちらに連絡がございまして、今マテウス様の方でも色々動いていらっしゃるのであまり心配はしなくていいと…」
二人は顔を見合わせる。
「メルナのことだ、この事態、予測していたのかもな。」
「ええ、そうかも。でも、いつでも動けるようにだけはしておきましょう。」
「ああ、そうだな。俺も一度宿に戻るよ。」
「え?どうして?」
無意識に寂しそうな声を出してしまったエステルに、ラトは優しい笑みを見せて言った。
「友達の大事な人が、今まさに大変な目に遭ってるんだ。そんな時はその友達の傍にいて、少しでも支えてやりたいだろ?だからここにしばらくいられるように、荷物を持ってくるよ。」
「ラトさん……ありがとう。」
「礼はいずれ違う形でもらうよ。じゃあ、行ってくる。」
「うん…え、違う形?」
エステルの中に疑問符を残したまま、彼は足早にそこを去って行った。
― ― ―
メルナはまだ若いが、どんな状況にも冷静に対処する術を幼い頃から学び、その体に染み渡って当たり前になるまで様々な経験を積極的に積んできた。
父も母も権謀術数に長けた人物ではあったが、誠実さという面では学べることは少なかった。だがルーク、現皇帝オーギュストとや彼の母との出会いにより、メルナは権力に溺れることなく、人としての尊厳を失うこともなく、ここまでまっすぐに生きてこられたのだ。
異界のものを異界に帰すという希少な能力『吸収』。父ですら持っていなかったこの能力を祖父から引き継いだことで、メルナのこの家での地位は確かなものになった。
そして数年前、問題を起こしそうになった父と母を早々に隠居させ帝国の端に追いやった後は、皇帝陛下の参謀として、帝国軍総合情報局局長という大仰な役名を与えられて動いている。
公爵を継ぐことも決まってはいるが、成人したばかりでは周囲からの反発も大きいだろうと、皇帝陛下からはあと一年待つように言われ、それに従っている。
だからこそ今この大事な時期に、そう簡単に誰かに嵌められて失脚するなんてことはあってはならない。メルナはそのために常に伝手を作り、根回しを完璧に行い、先回りして準備することを心がけてきた。
そんな中、ジュリアスが何者かに殺されたという事件は瞬く間に帝都中を駆け抜けた。だが当然、この事件すら、メルナにとっては想定内の出来事だった。
「只今より、臨時貴族会会議を始める。メルリアン・レナ・ベルハウス帝国軍総合情報局局長、前に出なさい。」
この貴族会の会長はウィリアム・ノイハーク公爵、つまりジュリアスの父だ。怒りの形相を見せながら中央に座っているが、彼が息子であるジュリアスをそう愛していたとは思えない。
「はい。」
素直に前に出たが、これから何が行われ何を追求されるか、メルナは十分承知している。
「我が息子、ジュリアスが昨夜不審な死を遂げた。レストランから出てすぐの場所で、何者かに首を…くっ!」
(白々しい演技ね。以前はあれほどジュリアスを疎んでいたというのに)
メルナは顔色ひとつ変えずその姿を見守った。少しして再びウィリアムは話し始める。
「とにかく、その件で貴殿にジュリアス暗殺の疑いが出てきた。何名かの貴族達から、貴殿らが共謀して『呪詛』の掛かった物品を収集していたという話も出ている。」
「…」
黙ったままのメルナにウィリアムはさらに憤る。
「もしや、皇帝にも匹敵する力を持つ我が息子ジュリアスを危険分子として恐れた貴殿が、『呪詛』という禁忌の力を使って…!」
再び芝居がかった態度を見せながら不確かな情報で罪を追求しようとするウィリアムに、とうとうメルナが反撃を開始した。
「証人を呼ばせていただきます。」
「な、何を勝手に!?」
メルナは途端にざわざわとし始めた会議室内を無視してー入り口に戻り、ドアを内側に開く。するとそこにはアランタリア、中央大神殿の大神官長ペリドール、そしてウィリアムの弟であるブライアン・モートン侯爵が立っていた。
「なぜ、お前が…」
青ざめているウィリアムを一瞥すると、メルナは堂々とその三人を中に引き入れ、ドアを閉めた。
「まずアランタリア副神官長、そしてペリドール大神官長には、ここ一ヶ月ほど次々に届く皇帝陛下への贈り物の調査を依頼しておりました。」
メルナがそう言うと、アランタリアが木箱の中に入ったいくつかの高価そうな置物を居並ぶ貴族達に見せていく。彼らは覚えた表情でそれを見ていたが、彼らに向かって冷たく声をかけたのはペリドールだった。
「あなた方が恐れる必要はありません。そちらは皇帝陛下にのみ作用する『呪詛』が組み込まれている物ですから。」
大神官ペリドールは民からの信望を一身に集め、帝国内外から信頼され頼りにされている特別な存在だ。
呪いによる弊害が起きやすい能力の高い貴族達にとっても、彼の祈りの効果は欠かせないものであり、彼の信頼を損ねることは今後の生活に支障をきたすことにもなりかねない。
(つまり、ペリドールの意見は無視できないということ)
「今大神官長様が仰ったことでおわかりかと思いますが、『呪詛』の掛かったものを収集していた訳ではございません。『勝手に送りつけられていた』のです。」
再びざわめく室内。メルナは追い込みにかかった。
「そしてもう一つ。こちらの調査によりあなたのご子息がそこに加担していたという証拠もございます。」
「何だと!?」
アランタリアが木箱とは別に持っていた報告書を受け取ると、メルナはそこに目を落として話し始める。
「ええ。こちらにいらっしゃるモートン侯爵様のご協力の元、ご子息が所有する馬車の一つから、魔人との関わりを示す『契約』の痕跡を発見いたしました。『契約』をした人間にはそれを解除するまで、互いに相手の能力が僅かに残ります。ペリドール大神官様他、数名の研究所鑑定員によって鑑定した結果、人間ではあり得ない痕跡、つまり魔人の能力と交わった痕跡を発見いたしました。」
そして、ウィリアムを見つめて言った。
「これがどういうことか、まさかおわかりにならないなんて、仰いませんわよね?」
「くっ…!!」
するとその時再び入り口のドアが開き、十数人の兵士達がガシャンガシャンと小気味のいい音を立てて会議室に雪崩れ込んできた。
「では、そういうことでウィリアム様、ちょっとお話をお聞きしてもよろしいかしら?皆様方も、よろしいですわよね?」
ウィリアム以外の十人ほどの貴族達は皆一斉に顔を背けた。メルナはそれを了承と受け取ると、ウィリアムに最高の笑みを見せて言った。
「さあ、参りましょう。」
(周りから恐れられようが、若いからと舐められようが、私は自分の役割を淡々と果たすだけ。ルーク兄様がこれから描いていく素晴らしい帝国の未来と、誠実で大切な親友エステリーナの幸せのために!)
そうして結局メルナはいつものように、想定通りの結果を持って自分の居るべき場所へと戻っていくのだった。